ココナッツミルクスープと世界の中心 ②

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 重い扉をキィと押し開けると、いつも通りのオレンジ色の灯りと穏やかな音楽が私を包み込む。 「琴音さん、おかえりなさい」 「おかえりー」  カウンター席でにこやかに手を振っているのは、渡辺さんだ。  この間、響子さんに衝撃の告白をして以来、毎日のように「音の食堂」へやって来るらしい。  フロアにいた佑弦さんが、一瞬口を開きかけてから、「何だ、お前かよ」とでも言うような、ジットリとした視線をこちらに向けてくる。  バイトが休みの今日、私はお客さんなんだから、ちゃんと「いらっしゃいませ」って言うべきだと思うな。 「渡辺さん、こんばんは」  私はそう言いながら、渡辺さんの隣りのスツールに腰をかけた。 「こんばんはー」  渡辺さんは既にカシオレのグラスを傾けている。  彼は甘党らしく、注文するアルコールは甘いカクテルが多い。 「今日は何にしようかな……」  私はそう口にしながら、響子さんの立っているキッチンの方へ目をやった。  バイトに入っている時に賄いで出してもらったりしているので、「音の食堂」のメニューはもう一通り食べてしまった。  響子さんの作るスープは、しっかり素材の味が活きていてどれも美味しい。  その中からどれか一つだけにに絞るのは、なかなか難しいのだ。 「今日、僕は『鶏のココナッツミルクスープご飯』にしましたよ」 「あ、エスニックな味付けで美味しいですよね。私もそれにします」 「かしこまりました」  カウンターの向こう側で、響子さんは穏やかな微笑みをたたえながら頷いてみせた。 「響子さん、『鶏ココ』もタイ料理屋さんで作っていた物なんですか?」 「そうですね。それをベースにしているんですけど、割高な食材もあるので、『音の食堂』アレンジね」 「じゃあ、『響子オリジナル』っすね!」 「まあ、そんな感じね……」  渡辺さんの言葉に、響子さんは曖昧な笑顔を作ってみせる。  初めのうちこそ渡辺さんの猛プッシュに狼狽えていた響子さんだったけれど、今はもう大分慣れた様子で、いつも通りの穏やかな笑顔を取り戻している。 「さっきから気になってたんですけど、響子さん、メガネ変えたんすね」 「あー、本当だ」  響子さんが今かけているメガネは黒のセルフレームだったけれど、よく見ると2つのレンズを繋ぐブリッジの所にシルバーのパーツが使われていて、レンズのフォルムも今までよりも少しだけ丸みを帯びているような気がする。  けれど、どちらも似たような黒縁メガネだ。  さすが渡辺さん。よく気がついたな。 「新しいメガネも似合ってますね!」  嬉しそうな渡辺さんの言葉に、響子さんは下を向いてため息をついた。 「最近視力が落ちてしまって、度を強めにしたのですけど、まだ慣れなくて……」  響子さんがかけているメガネをゆっくりと外してみせると、新しいレンズがフロアの灯りを返してキラリと光った。  響子さんはいつも髪を一つにきゅっと結び、白いシャツに紺色のパンツ、という地味な格好をしているけれど、メガネを外したその素顔は意外にも端正で整った作りをしている。  スッと通った鼻筋。その直ぐ下で艶を放つのは女性らしいぷっくりとした唇だ。  姪っ子の果音ちゃんは、そのクリクリとよく動く大きな瞳が印象的で、ついそちらに目がいってしまうけれど、よく見ると、色白の小さな顔だとか、唇の形だとか、大元の作りは親戚である響子さんとよく似ている。  若い頃の響子さんはさぞやモテたのだろうな、と思う。  いや、今だって充分綺麗だ。  目元や口元に歳相応のシワはあるものの、響子さんの歳で、艶出し程度に色味のないリップを引き、軽くファンデをはたいただけの姿で人前に立つなんて、元が良くなければなかなかできる事じゃない。  ただ、地味な黒縁メガネだとか、後れ毛のないぴっちり結びだとかが、異性への拒絶のシグナルのようにも見える。  それはやっぱり奏一郎さんの件があったからだろうか……。  それでも、もう15年だ。  そろそろ響子さんも自分の幸せを求めたって、天国の奏一郎さんだって許してくれるんじゃないかと思う。  さすがに渡辺さんとは歳が離れ過ぎているとは思うけれど……。 「響子さん、メガネを外した姿も美しいっす!」  渡辺さんがウットリとしながらそう言うと、浮ついた世の中を拒むかのように、響子さんは慌てて黒い縁取りのメガネをかけてみせた。  
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