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アパートのドアをほんの少しだけ開けて外の様子を窺っていた私は、小さく頷いてみせる。
「よし、今なら大丈夫」
玄関に置きっぱなしにしていたスニーカーを素足に突っかけると、私は急いで部屋を飛び出した。
響子さんの住んでいる古い二階屋の前を通り過ぎ、通りに面した場所に設置してあるステンレス製のボックスの前まで小走りに駆け抜ける。
ボックスを開ける為、ハンドルに手をかけようとした正にその時、背後でキィとドアが開く音がした。
ああ、今日も一緒になってしまった……。
多分、開かれたドアは一階の一番手前側のドアだ。振り返らなくてもわかる……。
もう8時半を過ぎているというのに、佑弦さんはスニーカーの足を引きずるようにのんびりと近づいてくる。
「……おはようございます」
私は少し視線を落としながら声をかけた。
「ああ、おはよう」
佑弦さんはグレーのスウェットパンツに、紺色のパーカーを羽織っている。
男の人はいいな、と思う。
寝起きにそのまま飛び出してきても違和感はない。
……そう、私は今日もすっぴんなのだ。
出会って2日目にして既にすっぴん顔を見られているのだから、今更かまう事でもないと言われればそれまでだし、佑弦さんも気にしてる様子は見られないのだけど……。
できれば今は会いたくなかった……。
「入れないの?」
佑弦さんはアパートの住人用ダストボックスの上部の扉をスライドさせながらそう言った。
「……入れます」
私は下を向きながら黄色の指定ゴミ袋をダストボックスの中にそっといれた。
もうこの時間は他の住人達は仕事に行ってしまっているのだろう、中は結構一杯になっている。
毎日会社に通っていた時は、キチンとメイクも済ませて、私も今頃は満員電車に揺られている時間だ。
それが、休みだと思うとなかなか布団から出られない。ダラダラとスマホをいじっていたりなんかすると、あっという間にゴミ出し時間の8時半になってしまうのだ。
人間、堕ちるのは早いもんだな……。
佑弦さんは自分の持っていた黄色いゴミ袋の口をぎゅっと縛り直してから、私の捨てたゴミ袋の上へぽんっと放った。
一人暮らしの佑弦さんの出す「燃やせるゴミ」はちょびっとだ。
「自炊は面倒くさい」と言って、食事は「音の食堂」の賄いやお弁当なんかを買って済ますらしい。だからお弁当容器なんかのプラスチックゴミは沢山出るけれど、「燃やせるゴミ」はほんのちょっと。
それは……、生ゴミが出るような料理をしてくれる女の子もいないって事なのかな……。
時々こうやって部屋から出てくる佑弦さんとアパートの前で会う事はあるけれど、女性が出入りしているところは見た事がない……。
……って、何で私そんな事気にしてるんだろう。
私は響子さんみたいにシンプルな暮らしを実践する為にここにいるんだ。
いつも一言多い佑弦さんの事なんか関係ない……。筈……。
気がつくと、真っ黒なストレートの前髪の間から、キラリと輝く佑弦さんの大きな瞳がこちらに向けられていてドキリとする。
その瞳は寝起きのぼんやりとしたものでも、赤く充血したものでもなかったし、サラサラストレートの髪はどこにも寝癖なんて見当たらない。
元々髭があまり生えない体質なのか、それとも朝きちんと起きて、もう髭剃りを終えているのか、色白の肌はいつも通りツルツルだ。
ほのかに春の匂いを含んだ朝の風が、佑弦さんの前髪を静かに揺らすと、二つの美しい瞳が露わになる。
普段長い髪に隠されていたその瞳が真っ直ぐに見つめているのは、佑弦さんのそれよりもひと回り小さなのっぺりとした私の目。
遮るものがなくなったその黒は、吸い込まれそうな深さをもって私を捉えていた。
それでいて、その輝きは相手を射抜くほど力強い。
その眼差しに捉えられて、私の心臓は激しく拍動を繰り返し、寝起きでぼうっとしていた頭の血流量が一気に増加していく。
赤くなった頬を誤魔化す為に慌てて視線を切ろうとすると、何を思ったのか、黒い瞳は吸引力を保ったまま更に近づいてきた。
「えっ……」
私が思わず目を見開くのと同時に、艶やかな黒の中に、人の反応を楽しむような、いつも通りの少し意地悪な色が浮かんだように見えた。
「……お前、すっぴんだと小学生みたいだな」
「……うるさいっ!」
やっぱり佑弦さんは一言余計だ!
一瞬でもドキドキしてしまった自分が馬鹿みたい……。
その瞬間、どこからか「ニャー」と猫の鳴き声が聞こえてきたような気がして、私は慌ててダストボックスの扉をパタリと閉じた。
響子さんから、「最近この辺りに野良猫がうろついているから、ゴミ捨ての際は気をつけて下さいね」と言われていたのだ。
以前、誰かがダストボックスの扉を閉め忘れて、猫にゴミを荒らされてしまった事があるらしい。
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