梅とアサリのスープとクズ男 ①

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「どうぞ、お入り下さい」  ぼんやりと立ち尽くしていた私の左手側から、店主だろうか、白い物が少し混じった髪を後ろできっちりとまとめ、黒ぶち眼鏡をかけた女性が、声をかけてきた。 「……営業してるんですか?」 「はい。井上さんのリリパの打ち上げでちょっと騒がしいですけど……今は通常営業中です」  井上さんが一体どなたなのかわからなかったけれど、やはり何かの打ち上げらしい……。  狭い店内では沢山の人がお酒を飲みながらくつろいでいるものの、立ち話をしている人もいるので、いくつか席は空いている。 「ちょっと通してちょうだい」  店主は私の返事を聞くよりも早く、カウンターの奥で談笑しているおじさん達を押しのけて通り道を作ってくれる。  ここまでしてくれて帰る訳にもいかないし、何よりも私の胃袋はさっきからスープを求めて、ぐーぐーと音を立てているのだ。  私は店主の作ってくれた隙間を通り抜けると、カウンターの一番奥にある背の高いスツールに腰をかける。  店主から手渡されたメニュー表は紙製で、所々茶色いシミができていた。  パリパリ鶏の塩スープご飯  アサリの中華スープご飯  彩り野菜のカレースープご飯  鶏とココナッツミルクのスープご飯  豚と根菜の味噌スープご飯  どれも美味しそうだったけれど、朝からずっと食べていない胃にはさっぱり系が良いかもしれない……。 「パリパリ鶏の塩スープご飯でお願いします」 「白米と十穀米とどちらになさいますか?」 「へえ、選べるんですね。……じゃあ、十穀米で」  店主は静かに頷くと、カウンターの向こう側に消えていく。  私はふーっと小さく息を吐くと、賑やかな店内を見回した。  店は縦長の作りになっていて、入って直ぐにいくつかのテーブル席が並んでいる。その向こう側、奥の方に向かってカウンター席が並び、背中合わせにソファー席が作られていた。  使い込まれて程よく艶を放つカウンター。  座席部分が擦り切れて色が変わっている赤い布張りのソファー。  カウンターの天井からは、煤けた色の赤いランプシェードがぶら下がっている。  全体に古い物ばかりだったけれど、どれも良く手入れされていて、店内をどこかノスタルジックな心地よい空間に変えている。 「お待たせ致しました」  気がつくと先程の男性が木製のトレーを片手に佇んでいた。  目の前に差し出された白い陶器製の器からふわりと立ち昇る美味しそうな香りに、私のお腹が再びグウと鳴る。  慌てて整った横顔を覗き見ると、彼は黒い瞳を真っ直ぐ前に向けたまま、何事もなかったかのように、カウンターの向こう側へと消えていった。  私はどんぶりと一緒に添えられていた白い陶器製のレンゲを手に取った。  シンプルな白いどんぶりの中で、黄みがかった半透明のスープが店内の明かりを柔らかく返している。  レンゲでそれを掬い取ってみると、香ばしく焼かれた鶏肉からツーっと肉汁が溢れ出してきた。  口に運ぶと、グリルされた鶏肉の香ばしい香りが、ふわりと鼻粘膜を刺激する。  熱々のスープが冷え切った体にジワリジワリと染み込んでゆくようだった。  旨味の詰まった温かいスープが、胃袋から細胞を伝って様々な臓器、思考が停止している頭、冷えて感覚の無くなった指先、疲れきった足の筋肉、そして気持ちまでも少しずつ解いていってくれるような気がした。  スープはさっぱりとしていながらも、グリルされた鶏肉の旨味がその優しい味わいに奥深さを添えている。  カリカリに焼かれたジューシーな鶏肉。  プチプチとした食感も心地よい雑穀。  それらをむさぼるように食べていると、なんだか急に塩味が濃くなったような気がして、私はレンゲを動かす手を止めた。  頬を何かが静かにくすぐっていく。  ぽたり、とスープの上に小さな滴が落ちて、表面に丸く浮いていた鶏の油を微かに揺った。
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