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涙を流すのなんていつぶりだろうか……。
今まで忙し過ぎて泣く暇すらなかった気がする。
気がつくと鼻の下からも何かが伝って落ちていく。
ああ、塩味はこのせいだったのか……。
何だか私は他人事のようにそう思った。
多分、私の事なんて誰も見てやしない。
見られたとしても周りにいるのは全く知らない人達ばかりだし、別に構わなかった。
今までの私だったら、心細く感じていたかもしれない。
みんなが楽しそうにしている中でボッチは居心地が悪い。
けれど、今はこの微妙な距離感がかえって心地良かった。
温かいスープと柔らかい空気があればそれで良かった。
一人ではないけれど、一人にしてくれる……。
涙も鼻水も垂らしっぱなしのまま、私は最後の一滴までスープを飲みきった。
ふーっと長い息を吐くと、カウンターの上にコトリと何かが置かれる音がした。
カラン、とグラスの氷が涼やかな音を立てる。
「サービスです。アルコールは大丈夫ですか?」
涙と鼻水でぐちょぐちょになった醜い私の顔を見ても、店主は落ち着き払った表情を全く変えなかった。
「……ありがとうございます」
ここは変な遠慮なんかせずにありがたく受け取っておく。それがこの店の雰囲気に合っているような気がした。
程よく使い込まれた少し厚みのあるグラスの中で、オレンジ色の液体が揺れていた。
そのカクテルは甘くて飲み易くて、僅かに苦味を含んだアルコールが、熱った喉元をを心地よく刺激していってくれる。
急にジャランと涼やかな音がして、私はテーブル席の方を振り返った。
いつの間にか店主がアコースティックギターを膝に抱えながら、周りのお客さん達と何か楽しげに言葉を交わしていた。
彼女が右手を上下に振るとジャカジャカと小気味よい音が鳴った。
どこかで聞いた事があるような……。
彼女の柔らかい声が馴染みのあるフレーズを口ずさみ始めて、私はやっと思い出した。
「クラフト少年」の「それから僕らは歌を歌う」だ。
コンサートでは定番曲で、会場全体でシンガロングするのだ。
直ぐにわからなかったのは……。
私は彼女の白髪混じりの髪に目をやった。
「クラフト少年」のは昔のヒット曲をカバーしたものだそうだから、彼女の演奏しているのはオリジナルの方なんだろう。
本来は男性ボーカルの曲なのだが、彼女の低く穏やかな歌声が心地良く楽曲と調和している。
しっとりとワンフレーズ歌ったところで、急にテンポが変わった。
右手を激しく上下させながら、打ち鳴らすようにしてコードを鳴らしてゆく。
彼女は、自分の内から溢れ出るものをそのまま指先に乗せるようにして、激しく金属の弦を震わせていた。
それでも彼女の歌声はあくまでも穏やかだった。
力強くかき鳴らされるギターの音と、どこか中性的で、もの柔らかな店主の歌声が重なってゆく。
聞き慣れていた筈のメロディアスな曲が、激しく感情を吐き出すような情熱的な旋律へと変わっていた。
多分、これは「クラフト少年」のものとも、オリジナルのものとも違う、店主がアレンジしたものなんだろう。
周りを震わせるほどの激しさを内包しながらも、たおやかに自分自身というものを持ち続ける。
何だか、彼女自身の生きざまを見せられたような、そんな気がした。
最後に弾き出された音の粒が、オレンジ色の明かりの中に静かに消えていくと、私は思わず手を強く叩き合わせていた。
周りにいた客達も、杯を掲げて歓声を上げる。
いつの間にか涙はすっかり乾いていた。
「ハイボールをお願いします」
私はカウンターの奥にいる先程の男性に声をかけた。
今日は元々、お酒を飲もうと思っていたんだし……。
そもそも急いで帰るような場所は、もうないのだ……。
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