梅とアサリのスープとクズ男 ①

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 涙を流すのなんていつぶりだろうか……。  今まで忙し過ぎて泣く暇すらなかった気がする。    気がつくと鼻の下からも何かが伝って落ちていく。    ああ、塩味はこのせいだったのか……。    何だか私は他人事のようにそう思った。    多分、私の事なんて誰も見てやしない。  見られたとしても周りにいるのは全く知らない人達ばかりだし、別に構わなかった。  今までの私だったら、心細く感じていたかもしれない。  みんなが楽しそうにしている中でボッチは居心地が悪い。  けれど、今はこの微妙な距離感がかえって心地良かった。  温かいスープと柔らかい空気があればそれで良かった。  一人ではないけれど、一人にしてくれる……。  涙も鼻水も垂らしっぱなしのまま、私は最後の一滴までスープを飲みきった。  ふーっと長い息を吐くと、カウンターの上にコトリと何かが置かれる音がした。  カラン、とグラスの氷が涼やかな音を立てる。 「サービスです。アルコールは大丈夫ですか?」  涙と鼻水でぐちょぐちょになった醜い私の顔を見ても、店主は落ち着き払った表情を全く変えなかった。 「……ありがとうございます」  ここは変な遠慮なんかせずにありがたく受け取っておく。それがこの店の雰囲気に合っているような気がした。  程よく使い込まれた少し厚みのあるグラスの中で、オレンジ色の液体が揺れていた。  そのカクテルは甘くて飲み易くて、僅かに苦味を含んだアルコールが、熱った喉元をを心地よく刺激していってくれる。  急にジャランと涼やかな音がして、私はテーブル席の方を振り返った。  いつの間にか店主がアコースティックギターを膝に抱えながら、周りのお客さん達と何か楽しげに言葉を交わしていた。  彼女が右手を上下に振るとジャカジャカと小気味よい音が鳴った。  どこかで聞いた事があるような……。  彼女の柔らかい声が馴染みのあるフレーズを口ずさみ始めて、私はやっと思い出した。  「クラフト少年」の「それから僕らは歌を歌う」だ。  コンサートでは定番曲で、会場全体でシンガロングするのだ。  直ぐにわからなかったのは……。  私は彼女の白髪混じりの髪に目をやった。 「クラフト少年」のは昔のヒット曲をカバーしたものだそうだから、彼女の演奏しているのはオリジナルの方なんだろう。  本来は男性ボーカルの曲なのだが、彼女の低く穏やかな歌声が心地良く楽曲と調和している。  しっとりとワンフレーズ歌ったところで、急にテンポが変わった。  右手を激しく上下させながら、打ち鳴らすようにしてコードを鳴らしてゆく。  彼女は、自分の内から溢れ出るものをそのまま指先に乗せるようにして、激しく金属の弦を震わせていた。  それでも彼女の歌声はあくまでも穏やかだった。  力強くかき鳴らされるギターの音と、どこか中性的で、もの柔らかな店主の歌声が重なってゆく。  聞き慣れていた筈のメロディアスな曲が、激しく感情を吐き出すような情熱的な旋律へと変わっていた。  多分、これは「クラフト少年」のものとも、オリジナルのものとも違う、店主がアレンジしたものなんだろう。  周りを震わせるほどの激しさを内包しながらも、たおやかに自分自身というものを持ち続ける。  何だか、彼女自身の生きざまを見せられたような、そんな気がした。  最後に(はじ)き出された音の粒が、オレンジ色の明かりの中に静かに消えていくと、私は思わず手を強く叩き合わせていた。  周りにいた客達も、杯を掲げて歓声を上げる。  いつの間にか涙はすっかり乾いていた。 「ハイボールをお願いします」  私はカウンターの奥にいる先程の男性に声をかけた。  今日は元々、お酒を飲もうと思っていたんだし……。  そもそも急いで帰るような場所は、もうないのだ……。
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