126人が本棚に入れています
本棚に追加
ゆっくりと金属製の扉を押し開けると、辺りは途端に賑やかな世界に包まれた。
閉ざされた世界から急にザワザワと騒がしい空間に戻ってくると、軽いめまいのようなものを感じる。
何も気に病む事もなく、今を楽しんでいる人達が何だか凄く眩しく見えるんだ。
「……いやー、やっぱ溝口さんのギターリフは最高っすねー」
「……あ、田口さん、お久しぶり」
初めて使う搾乳器に、思った以上に時間がかかってしまったようだ。
その間に二人目のライブも終わってしまっていて、再びステージ前は機材の入れ替えでひどく混み合っている。
楽しげに声を上げている人達をかき分けてフロアの奥の方へ進んで行くと、その先にある物が視界に入ってきてあたしはふと足を止めた。
あたしの中で張りつめていたものが、ジワリと小さな音を立ててほんの少しだけ緩んだ気がした。
カウンターの一番奥のところに置かれていたのは、木製のトレーに載せられた白いどんぶりと、氷が溶けて透明な液体とオレンジ色のグラデーションになったグラス。
あたしがトイレに席を立った時と同じ位置に同じ状態で……。
二人目のライブが終わったという事はあれから30分以上は経っている筈だ。
多分それは、片付けるのをただ忘れていただけだろう。
特に誰にも気に留められなかっただけだろう。
けど、あたしには「ここにいて良いよ」と言われているような、何だかそんなふうに感じられたんだ。
あたしはゆっくりとどんぶりの前のスツールに腰をかける。
そんなあたしの事を誰も気にしてる様子はなかったけど、それもかえって心地良かった。
フロアには、普段聴き慣れないような洋楽がゆったりと流れていて、ザワザワとあたりに満ちている人々のたのしそうな話し声と柔らかく混ざり合い、なんだか一つの楽曲みたいに聴こえる。
あたしがその心地良い音色に耳を傾けていると、地の厚い素朴な風合いの湯呑みが、目の前にコトリと置かれた。
最初のコメントを投稿しよう!