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「ほうじ茶です。従業員用に置いてあるものですが、良かったらどうぞ。アルコールを摂らない方が良いのでしたら、ソフトドリンクのご用意もございますよ」
店主の声に、心臓がトクリと鳴った。
あたしは思わず店主の方を振り返る。
彼女はさっきと同じように穏やかな表情を浮かべてはいたけれど、その深い黒の奥からは真意を読み取る事はできない。
もしかして、彼女はあたしが今トイレで何をしてきたのか、知っているんだろうか……。
あたしは手付かずのまま放置され、水っぽくなってしまったカシオレのグラスに目をやった。
母親が摂ったアルコールは母乳にも移行してしまうので、授乳中の飲酒は控えた方が良いらしい。
けど、あたしは母乳なんて作りたくないんだ……。
「大丈夫です!」
そう言って、あたしはすっかり氷が溶けてしまったグラスを勢いよく傾けた。
グラスの周りについていた水滴がボタボタと滴り落ちて、スウェットの上に鼠色のシミを作ってゆく。
店主はそんなあたしを止めるでもなく、穏やかな眼差しで見つめているだけだ。
溶けた氷で薄められたオレンジ色の液体は、水っぽくて、それでいて変に苦味だけ残っていて、全く美味しく感じなかった。
それでも久しぶりに摂取するアルコールは、あっという間に体中の血管を巡り、心拍数を増加させた。
心臓がバクバクと音を立て、頭がカッと熱くなる。
何だか初めてお酒を飲んだ時みたいだ。
今までどうしてこんな物を喜んで飲んでいたのだろう……。
お酒の味が美味しい、というよりも、皆んなでワイワイ騒ぎながらバカ話しするのが楽しかった。
アルコールに酔ったのか、それともその場の雰囲気にテンションが上がったのか、あの頃は目の前あるもの全てが楽しくて、怖いものなんて何にもなかった。
世界は自分中心に回っていると思っていた。
保健福祉センター「ここっと」で行われた離乳食講座にいた中年の女性も、病院の助産師さん達も、ニコリと笑顔を浮かべながら優しそうな声で言っていたのを思い出す。
「赤ちゃんの成長には個人差がありますから、まだ夜まとまって寝るようにならなくても大丈夫ですよ。それも個性と捉え、今は赤ちゃんとのスキンシップを大いに楽しんで下さいね」
「離乳食が始まったからといって、直ぐに母乳をやめなくて良いんですよ。赤ちゃんにはまだまだ母乳の栄養が必要なんです」
「母乳をあげられるのはお母さんだけなんですから……」
でもよく見ると、彼女達の瞳の中にあたしは映っていない。
みんなあたしの事なんて見えてないみたいに、赤ちゃんの事ばかり話してる。
相談したいのは美緒の事じゃない、私の事なのに……。
けど、あたしの声は彼女達には届かないんだ。
あたしはもう世界の中心にはいないから……。
母親になる、という事は人間ですらなくなってしまう、という事なんだろうか……。
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