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「コウテイペンギンのオスが飲まず食わずのまま卵を抱き続け、繁殖地への往復を含めると4か月近くも絶食するって聞いた事がありますか?」
「は……い」
何でこのタイミングでペンギン?
そう思いながら、あたしは曖昧に頷いてみせた。
「父性愛の象徴みたいに言われてますけど、あれはそういう習性だからなんですよ」
「へっ?」
いや、まあそうなんだろうけど、それを言っちゃ身も蓋もないのでは……。
「何かトラブルがあってメスが戻ってこれなかった場合、オスは雛を諦めて餌を取りに行くんです」
「へえ」
「それは、自分だけでは生きていけない雛を守って親が死んでしまうよりも、翌年また繁殖の機会のある成鳥が生きた方が、種をより多く後の世代に残せるからです」
「そうなんですね」
何となく、自分の命を引き替えにしてでも子供を守ってる、ってイメージがあったけど、種を守る為の線引きは思ってたよりもシビアだ。
目の前にいる我が子よりも、種全体としの繁栄……。
「ペンギンだけでなく、熊など他の野生動物の間でも育児放棄は時々起こるんです。餌が少なかったり、外敵から自分の身を守る事が難しい状況だったり……」
あたしは店主の言葉に再びスウェットの上に視線を落とした。
「人間だってそうなんです。親の気持ちに余裕がない時は、子供の事を考えられない時だってあるんですよ」
「でも、それじゃあ……」
あたしはその先に続く言葉を飲み込んだ。
……あたしは熊と同じだ。
「ただ、人間が熊と違うのは、育児を行うのが母親一人の仕事ではない、という事です」
「父親は……いないんです」
あたしはそう言って唇を噛んだ。
父親は元カノが住んでいる家のすぐ近所で新しい女とデートするようなバカヤロウだ。
あんなヤツが父親になるくらいだったら、いない方がよっぽどましだ。
でも、美緒がお腹にできた頃のあたしは、まじめに浩人と結婚したいって思ってたんだ。
浩人からの「大好き、結婚しよう」って言葉を本気にしてた。
赤ちゃんができたとわかった時も単純に嬉しくて、あたしはニコニコしながら浩人にそれを伝えたんだ。
でも浩人の反応は、あたしが考えてたのとは全然違うものだった。
今でも浩人のあの言葉を思い出すとはらわたが煮えくり返る。
浩人はあたしの言葉に、嫌なものでも見るような視線をこっちに寄こしてきてから、こう言ったんだ。
「……それって、本当に俺の子なの?」
あたしはあまりのショックに、その後自分が何と言ったのかも覚えていない。
そして……、浩人はその後あたしの前から姿をくらました。
当然、パパとママは激怒したけど、あたしは浩人をそれ以上探しだそうとは思わなかった。
あの一言であたしの気持ちはすっかり冷めていたし、認知させたところで、バイトも長続きせず、ふらふら遊び歩いている浩人に養育費の支払い能力なんて期待できなかったからだ。
幸いウチはお金に困っていないし、もう殆ど行かなくなっていた大学もバイトも辞めて、家でダラダラできる。
その頃のあたしは、出産と育児をそんなふうに軽く考えていたんだ……。
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