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「母の愛は無償の愛。その言葉に皆縛られているように思います。そうでなくちゃならないと……。母親自身すらも……」
あたしは店主の言葉に思わず顔を上げた。
カウンターの向こう側では、小動物顔の女性店員が驚いたような顔をして店主の方を見つめている。
彼女はあたしよりもいくつか歳が上にみえるけど、多分子供を産んだ事なんかないんだろう。
なんだかのほほんとしていて、何も苦労なんかないような顔をしている。
でも、あたしも半年前まではそうだった。
赤ちゃんなんて産んじゃえば、後は時々ミルクをあげてオムツを替えてあげるだけで良いと思ってた。
ママに預けてまた遊びに行けば良いと思ってた。
「母になった途端に、魔法のようにパワーが降って湧いてくると思っている人も多いですよね。痛くたって、辛くたって、夜眠れなくたって、母親なら『母の愛』で耐えられると……。自分の身を削って子供に尽くしてこそ母親なんだって……」
彼女の口調は変わらず穏やかだったけど、何だかその中には地に足のついた逞しさのようなものが感じられる。
「そうじゃなくてもいいんですか?」
彼女は黒縁メガネの奥の黒い瞳にあたしの姿をしっかりと捉えながら、静かに頷いた。
「確かに『母の愛』は素晴らしいですけど、その一言で女性の我慢や努力が帳消しにされてしまっている気がします」
今まで「我慢や努力」なんて考えるのすら悪い事のように感じてた。
そうするのが当然の事だって。
そして、そうする事ができないあたしがダメ人間なんじゃないかって……。
「……母親だって一人の人間なんです。辛い時は辛いと言っていいと思いますよ」
「辛い……です」
そう小さく呟いてから、あたしは美緒が産まれてから初めて「辛い」という言葉を口にした事に気がついた。
頭の中では「辛い」「しんどい」「痛い」という言葉が四六時中渦巻いていたのに……。
口に出して誰かに伝えてみるだけで、少しだけ楽になるような気がする。
「大事なのは一人で抱え込まない事だと思いますよ。子育てに限らず、誰かを頼る事は悪い事じゃないんです」
「……はい」
「人間が一人でできる事なんてたかが知れてますから」
そう言えば、美緒をママにみてもらう時、何だかいつも胸の奥の方がチクリ、チクリと痛んでた。
ママにはできるのに、自分はなんてダメ親なんだろう、って。
そういう思いが鈍く光る刃物となって、自分自身に向かっていたのかもしれない。
あたしは、茶色い湯呑みを手のひらでゆっくりと包み込んだ。
ゴツゴツとした焼き物の表面から、ほうじ茶のじんわりとした温もりが伝わってくる。
「バンドと料理って似ているな、と思うんです」
「バンド?」
あたしは思わずそう言ってから、ああそうか、と思う。
ライブバーの店主をしている訳だから、彼女自身も何か音楽をやっている、と考えるのが当然だろう。
けど、黒縁メガネをかけ、ネイビーのパンツに白シャツという地味なスタイルからは、その姿はなかなか想像がつかない。
「同じ食材でも、配分量や調理の仕方をちょっと変えるだけで、相乗効果でそれぞれの味がぐっと引き立ったりするんです」
「確かに、同じ食材を使っていてもお店によって随分と味が違いますよね」
それは多分、ハーブを入れるタイミングだったり、火の入れ方をほんのちょっと変えているだけ。
でもたったそれだけの事で、後を引く美味しい料理になったり、残念な仕上がりになってしまったりもするのだ。
「一人でできる事はたかが知れてますけど、バンドの場合、1+1+1=3とは限らない。9になるのか、30になるのか。それともその場も含めて100や1000になる事だって……」
100にも、1000にも……。それは一人では絶対できない事だ。
「音の食堂」のキャパはせいぜい40〜50人。
それが100にも1000にもなる事がある……。
「それが楽しくて私は現場に居続けてるのかな、と思っています」
店主は目尻にシワを寄せながら、柔らかく微笑んだ。
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