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コトリ。
使い込まれたカウンターの上に、もう一つ茶色い湯呑みが置かれる。
「良かったらどうぞ。赤ちゃんを抱っこしたまま歩き回って、お疲れでしょう」
店主はそう言うとママに向かってニコリと微笑みかけた。
「まあ、すみません。ホッとしたら何だか急に喉が渇いてきたわ」
ママの傾ける湯呑みから、白い湯気がふわりと立ち昇る。
それはオレンジ色の灯りの中に溶け込んでいって、直ぐに見えなくなった。
「ママやパパはこうやって無条件にに私を愛してくれるけど、私にはそれができないの……」
木製のトレーに載せられた白いどんぶりの中身は、乾いてカピカピになっていて、そこの方に少しだけ残っている液体は、あたしがトイレに捨てた母乳を思い出させる。
「成長には個人差があるから……」
ママの言葉にあたしは再びグレーのスウェットの上に目を落とした。
ママも他の人達と同じ事を言うんだ……。
その言葉はもう聞き飽きた。
「赤ちゃんを産んで直ぐ母親の自覚ができる子もいれば、子供とコミュニケーションを取れるようになってからやっと、っていう人もいるのよ」
「えっ……」
あたしは思わずママの黒い瞳を見つめる。
「莉緒が産まれた頃、パパは凄く仕事が忙しくてね、あなたの相手をしてくれるのは休みの日だけ。あなたが夜ぐっすり寝てくれるようになるまでは、本当に辛くて、母親の自覚どころかイライラしてパパに当たり散らしてたわ」
「えっ、ママが?」
「出産の前後はね、ホルモンバランスの崩れから、意味もなくイライラしたり、可愛い筈の自分の子供を愛おしいと思えなくなってしまったりする事があるの」
いつも完璧な「お母さん」だったママ。
あたしからはそう見えていたママにも、そんな時があったんだ……。
覗き込んでみても、ママの瞳はいつもと変わらない柔らかな光を湛えている。
「そして、多くのお母さんはそんな自分を責めてしまう……。するとまたそれがストレスとなって悪循環に陥ってしまうの」
「ホルモンバランスの変化は、外からは見えないから、本人はとても辛いですよね」
店主の言葉にママは「本当に」と頷いてみせる。
「焦る事はないわ。母親も子供と一緒に成長していくものなのよ」
「一緒に……」
あたしはママの言葉をそのまま口にしてみる。
その言葉はあたしの喉から外に向かって発せられたものだったけど、何故だかあたしの胸の奥の方へストンと落ちてきて、どこかへ置き去りにしてきてしまっていたあたしの心の一部を、あるべきところに収めてくれたような、そんな気がした。
「私は、莉緒と美緒と一緒に『おばあちゃん』として成長している真っ最中なの」
そう言ってママは、抱っこ紐の中で眠る孫娘に穏やかな眼差しを向けた。
覗き込んでみると、あたし似だってよく言われる奥二重の瞼はしっかりと閉じられていて、呼吸の度に小さな体が僅かに上下している。
一人でできる事はたかが知れているけど、「一緒に」なら、100にも1000にも成長できるかもしれない……。
世の中の全てから置いて行かれたような気がしていたけど、少なくともママとパパと、そしてまだ小さな美緒の世界には、あたしの居場所があったんだ。
何でそんな大事な事を忘れていたんだろう。
突然、ステージの方からきジャキジャキッとギターを掻き鳴らす音が聞こえてくる。
美緒のふわふわとした髪がピクリと動いた。
「大変、ライブが始まったらさすがの美緒も起きちゃう」
あたしは慌てて立ち上がると、店主にお礼を告げる。
金属製の扉に手をかけようとした瞬間、今度はバスドラの低い音が店内に大きく響き渡った。
それでも美緒はピクリとするだけで、深く眠ったままだ。
随分と肝の座った美緒の様子に、あたしとママはよく似た黒い瞳を見合わせて、二人でふふふっと笑いあう。
狭い階段を上って表に出てみると、あたし達を包み込む外の空気は、思っていたよりも暖かくて、何だかママのハグのように優しく、そして柔らかく感じられた。
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