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梅とアサリのスープとクズ男 ①
目の前に立ちはだかる翔真を突き飛ばしてから寝室の扉を勢いよく開けると、その先に広がっていた光景に私は思わず息を呑んだ。
「あなたが琴音さんね。私の翔真のお世話をいつもありがとう」
私のベッドに悠々と腰掛けていたのは、……髪を長く垂らした下着姿の女だった。
「み、瑞季! 服着てベランダ出てろ、って言ったじゃねーか!」
慌てふためく翔真をよそに、女は私と目が合うと不敵に笑ってみせた。
彼女が胸元に落ちてきた茶色い髪を気怠げに振り払うと、豊かなバストがぷるんと揺れた。
私がゆっくりと翔真の顔に視線を合わせると、彼は細い瞼を精いっぱい開いてみせる。
「その……。これには訳があってさ……えーと……」
自分でも気がつかないうちにケーキの入ったビニール袋を掴む手に力が入っていた。
翔真の大好きなUハウスのケーキ。
駅から遠くて普段なかなか買いに行けないから、いつも特別な日にだけバスに乗って買いに行っていたUハウスのケーキ……。
今日は珍しく早く帰れたから、二人でゆっくりケーキでも食べようと思っていた、……のに……。
「ぶはっ……」
いつの間にかビニール袋は宙を舞い、翔真の顔にイチゴの沢山載ったガトーフレーズが見事にヒットしていた。
翔真が尻もちをつくと同時に、生クリームと赤い果実が床の上に無惨に飛び散っていく。
床に転がる翔真のアホ面を見届けると、私はそのまま部屋を飛び出した。
玄関を出る際、放り出してあった泥だらけのスニーカーに足先が引っかかり、周りに乾いた土が飛び散っていく。
私はそんな事はお構いなしに、叩きつけるようにして部屋のドアを閉めた。
アパートの階段とダンダンと踏み抜くような大きな音を立てて駆け下りていく。
コンビニの前も通り過ぎ、郵便局の前も駆け抜けて……。
そのままずっとずっと走り続けていきたかったけれど、運動不足の私の足では駅までの道のりすらもたなかった。
膝に手をつきながら、はあはあと荒い息を吐く。
久しぶりの全力疾走に、口から心臓が出そうだった。
心臓と一緒に何もかも飛び出していってしまえばいいのに……。
今日見聞きした事も、嫌な事も全て……。
けれど、後ろを振り返らなくてもわかっていた。
走らなくったって、誰も追いかけてきやしないのだ。
それでも彼らのいるアパートから少しでも離れていたかった。
とにかくじっとしていられなかったのだ。
私は大きく息を吸うと、ゆっくりと歩き出した。
ひんやりと冷たい風が、熱った頬を撫でていく。
さっきまではあんなにすっきりと晴れ晴れした気持ちだったのに……。
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