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「じゃあな、ごちそうさん」
「……うん。……こっちこそ、無理聞いてくれてありがとう」
玄関で靴を履きながら言う早川に、そう返す。
岡くんの事は、完全にこちらの都合なのだから。
「――いつでも頼れ。何でもいいから」
「そ、そういう訳にはいかないでしょ」
「俺がそうしてほしいんだって」
早川は、そう言って口元を上げると、隣の部屋に戻って行った。
あたしは、ドアに鍵をかけ、先程まで二人で他愛ない話を続けていた部屋を振り返る。
――やっぱり、気は楽なんだ。
岡くんや、野口くんが相手の時のように、どこか年上ぶらなくても良い。
同い年の上、付き合いは三人の中で一番長いし、お互い良い面も悪い面も知っているから、変にカッコつけずにいられる。
でも――それが恋愛感情なのかは、わからないままだった。
翌朝、いつも通り早川に待ち伏せされ、一緒に会社へと出勤する。
既に夫婦扱いのような目で見られるのは不本意だったが、強く否定するのも気が引けた。
だが、仕事に関しては、妥協できない。
古川主任が課したタスクを、今月中までには達成しなければ。
「杉崎主任、ここって――」
そう、気合いを入れると、早速質問がやって来る。
新人二人は、当初に比べれば、だいぶ落ち着いてくれたようで、ケアレスミスはあっても、重大なミスはする事も無かった。
――ただ、これは、研修も兼ねているから、あたしが見ていられるが、本当に大変になるのは、むしろ、あたしが帰ってからだろう。
できる限りの対策ができるよう、自分用のパソコンでマニュアルを作ってみようか。
そう思い、古川主任にかけ合ってみた。
「ええ、それは任せます。余計な手間が省かれるのなら、願ったりですので」
相変わらず、言い方はアレだが、ひとまずOKはもらえた。
あたしは、自分の席に着くと、思いつく限りの仕事を書き出す。
そして、それについてのパソコン操作や、書類の見方、本社に問い合わせる時の部署の選択方法など、ひとまず、書き殴っていく。
野口くんだったら、最初からパソコンで作れるんだろうけれど、あいにく、あたしは書いた方が頭が整理できるタイプだ。
――野口くん――……。
ふと、この前の電話を思い出す。
強がってはいないだろうか。
電話では、顔が見られない。
テレビ電話にしようと思えばできるだろうが、顔を合わせるのは、まだ、心の準備が必要だ。
――帰ったら告白すると宣言されたのだから。
あたしは、無意識にため息をついた。
今日から、早川は先週出張で向かって行った中国四国地方を、再び回り始めた。
今回は、他に数人の営業も連れて行く。
自分が目をつけていたところを、その人達に任せるらしい。
忘れていたけれど、早川も、本社に戻る予定なのだ。
――十月の大阪支社開始と同時に戻って、一ヶ月間課長補佐で仕事を引き継ぎ、その後、営業一課課長任命予定。
昨日、そう言っていたのを思い出す。
なので、その下準備を進めているようだ。
あたしも、負けないように――ラストスパートをかけなければ。
おそらく、最終週にはすべて新人にさせなければならないのだ。
「古川主任、ちょっとよろしいですか」
あたしが声をかけると、彼はパソコンをにらむように見ていた顔を上げる。
念のために、あたしは立ち上がり、向かいの席の彼のそばに行く。
そして、少々声を抑えて尋ねた。
「――大阪工場の件、何か聞いてられますか」
すると、彼は、チラリとあたしを見上げ、視線を戻す。
「大体のところは。ただ、今は工場建設が進んでいるとだけしか発表されていないでしょう」
どうやら、開始時期や、詳しい事はまだ未定のようだ。
「工場事務の方は、どう扱えば良いでしょう?」
「――申し訳無いですが、こちらには工場自体が無いので、私に聞かれてもどう答えてみようもありません」
あたしは目を丸くするが、すぐに納得した。
――そうか。
こちらは完全に営業専門。
南工場で経験したような事務作業は、まったく無いのだ。
「では、工場事務用のマニュアルも必要になりますか」
「――……あなた、工場の方の事務も経験ありましたか」
「ハイ。こちらに来る直前まで」
詳しい事情は言わない。
彼には直接関係の無い事だ。
「――そうですね。では、ひと通りの仕事など、作り終えたら、ひとまず見せてください」
「わかりました」
あたしはうなづくと席に戻る。
そのやり取りを、新人二人が息をひそめて見守っていて、思わず苦笑いが浮かんでしまった。
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