72

2/4
前へ
/382ページ
次へ
 その週は、完全に新人を見守りながら、マニュアル作成に費やされた。  古川主任は、やはり、スパルタで、次から次へと仕事を二人に振っていく。  それをフォローしながら、あたしは自分の仕事もこなし、余裕が見えたらマニュアルを作る。  その繰り返しだ。  ようやく出来上がったのは、木曜日の事。  仕事を家に持って帰る事を禁じられているので、残業しながら、どうにか形になった。 「――じゃあ、一旦プリントアウトしたものをいただきます」 「ハイ」  あたしはうなづき、気がつけば、相当な量になってしまったマニュアルを、延々とプリンタが吐き出していく。  できたものから揃え、手近にあった、未使用のファイルに閉じていった。  そして、ようやく終了すると、中々の重さになり、苦笑いだ。 「……さすがに、細かいですね」  古川主任が、そう言って、パラパラと作り上げたマニュアルを見る。  この人に褒められるのは、何だか、やり返した気分になる。 「――工場が稼働するのは先の事でしょうけれど、今から準備しておいた方が、バタバタせずに済むと思うので」 「そうですね。――じゃあ、来週までに目を通しておきます」 「お願いします」  実際、こちらの事務を引き受けるのはこの人なのだから、わかってもらえないのは困るのだ。 「では、もう帰りますか」  古川主任は立ち上がり、そう言って、自分のバッグを持った。  あたしも、自分の席に置いてあるバッグを持ち、経理部の部屋を出る。  外を見やれば、いつの間にか日は落ちて、あっという間に真っ暗になっていた。  フロアの中は、みんな既に帰ったようで、しん、と、静まり返っている。  壁にかかった時計を見やれば、既に八時だ。  部屋を出てドアを閉めると、古川主任は、社員カードでドアをロックした。  ここは、権限のある人間がドアロックできる仕組みのようで、あたしはできない。 「――すみません。予定以上に時間がかかってしまいました」  廊下に出ると、彼は、軽く頭を下げた。 「え」 「時間も遅いので、社用マンションまで送ります」  あたしは、ギョッとして首を振った。 「い、いいです、いいです!大した距離でもないですから!」  最初に感じたイラつきや緊張感は、まだ、完全に無くなった訳ではない。  そんな相手と一緒に帰るなど、気まずすぎだ。  だが、古川主任は、頑として譲らなかった。 「何かあったら、責任問題でしょう」 「でも」  言い合いながら、階段を下り、ビルのドアを開け――あたしは、完全に停止した。 「――ああ、やっと来た。杉崎さん、こっちに来てたんだね」 「――……せ、ん……ぱい……?」  目の前の街灯の下で、スマホをいじりながら、あたしを見やってそう言ったのは――山本先輩だった。 「な……何、で……」  ようやく喉から出た言葉に、先輩はあからさまにバカにしたように笑った。 「何でって、キミの会社、ウチの方とも問屋契約してるでしょ。僕、こっちにも取引先あるから、昼間、顔出しにきたついでに挨拶に来たら、キミがいるんだもん、ビックリしてさぁ!」  あたしは、呼吸困難かと思うほどに、息ができない。  足が震える。  ――まさか、こんな遠い地で、会うとは思う訳ない。 「どう、せっかくだし、食事行かない?いろいろ話聞きたいし――」  言いながら、先輩はあたしに大股で近づき、ぐい、と、肩を抱く。  そして、耳元で囁いた。 「それより、ラブホ直行の方がいいかな」 「――……っ……!!」  あたしは、力任せにその腕を振りほどいた。 「お断りしたはずですっ……!」 「ふぅん。――じゃあ、もう、奈津美ちゃんでもいいか」 「――……は……?」  瞬間、全身が総毛立った。  ――どういう意味だ。  先輩は、あたしを見やると、クスクスと笑う。 「”すぎや”さんに、可愛い妊婦の店員さんがいるって、結構話題なんだよね」  あたしは、そのまま真っ青になり、言葉を失う。  まさか――実家に――店に行ったのか、この男。 「会社の人間と、何人かで呑みに行ったんだけど、良い店だね。気楽だし、おかみさんは明るくて気さくだし」  そんな上滑りするような言葉などいらない。  要は、もう、いつでも逃げ道はふさげるという事だ。  ――あたしが……奈津美を……母さんを、守らないと――。 「――……せ……「行きますよ、杉崎主任」  あたしが言葉を発する前に、思い切り腕が引かれた。  ――……え?  顔を上げれば、視界に入ったのは、古川主任だ。  意外と強い力で、あたしはそのまま先輩の前から、連れ去られた。
/382ページ

最初のコメントを投稿しよう!

490人が本棚に入れています
本棚に追加