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幸い、先輩が朝から顔を見せる事は無く、ピリピリしながら出社したあたしは、少しだけ拍子抜けした。
けれど、向こうに帰ったという保証も無い。
――気は抜けないのだ。
あたしが、気合いを入れ直し経理部の部屋へと入ろうとすると、内側からドアが開いた。
「――おはようございます、杉崎主任」
「お、おはようございます。……古川主任……」
淡々と挨拶をしてくる彼に、あたしは、少しだけ気まずさを感じてしまう。
だが、彼は、そんな事は一切関係無いとばかりに、話を向けてきた。
「――昨日は、無事に帰れましたか」
「あ、ハ、ハイ。……ありがとうございました」
「いえ。――まあ、続くようなら、すぐに報告を上げてください。会社から厳重に抗議をしてもらいます」
あたしは、その言葉に慌てて首を振った。
「だ、大丈夫です……」
「おはようさんー!」
朝のざわつきの中、支社長の明るい声が部屋中に響き渡る。
近間にいた人間から、個々に挨拶を交わしていくと、彼はあたし達の前で止まった。
そして、ニヤニヤと古川主任を見やり、困ったように声をかけた。
――いや、困ったフリをしながら、が、正解か。
「古川くん、さすがに彼氏持ちに手を出そうとするのは、どうかと思うんけどなぁ」
その言葉に、あたし達は、お互いに目を合わせると、そのまま硬直。
そして、同時に声を上げた。
「「……は??」」
すると、支社長はそう言いながら、古川主任の首に手をかけ、自分へと引き寄せた。
「昨日の夜、杉崎くんの手を引いて駅に向かって行ったやろ。見てたで」
「はあ」
古川主任の反応が鈍いので、支社長は更に続けた。
「たまたま、用があってな。駅に行こうとしてたら、お前さん方見かけたんや。手ぇ繋いで、どこ行こうとしてたん?」
「――ご、誤解です!」
あたしが慌てて訂正しようとすると、古川主任に手で遮られた。
「昨夜は、最後に二人で会社を後にしました。ですが、輩に彼女がからまれていたので、逃げて撒こうとしたため、そういった状況になったまでです」
淡々と状況を説明する古川主任に、照れやあせりなど、まったく見当たらない。
その顔を見て、支社長は大きくため息をついた。
「あーあ。何やぁ、残念。せっかく、古川くん、新しい恋見つけたかと思うたのに。ホレ、バツイチになって、もう三年くらいやっけ」
――え。
あたしは、あっさりと言った支社長と、古川主任を交互に見やる。
それは、そこにいた大阪支店からの古株をのぞく全員が、同じ反応だ。
「離婚ではありません。別居です。それに、妻と娘には、月一で会ってます」
何でもない事のように言う古川主任は、あきれたように支社長を見やった。
「そういう目で見ている人間が、彼女を追い詰めるんでしょうね」
すると、支社長は、今気がついたようにあたしを見やり、バツが悪そうに頭をかいた。
「あ、ああ、そうやったな。……杉崎さん、悪いな。これでも、古川くんの心配してるつもりだったんやけど」
言いながら頭を下げる支社長の言葉に、あたしは、本社でのウワサがここまで届いている事を理解した。
途端に、胸の奥から、スウッと冷めた感情が浮かぶ。
――どこに行っても、コレか。
「――別に、気にしてません」
言葉とは裏腹の感情が消えた顔に、その場にいた全員、血の気が引いた、と、聞いたのは――もう少し後の事だ。
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