第二章 雪割の家

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第二章 雪割の家

 結婚してから、あっという間に一月が過ぎた。いや、過ぎてしまったというのが正確だ。  部屋の整理は結婚した翌日には終わってしまった。二日目から散歩しながら、家の近所は分かるようになってきた。一度ぐらいは来たことがある土地であるのだが、記憶にある風景とは様変わりしていた。良かった発見は、書店が近所には何軒かあるということだ。改めて、良い場所に住んだなとしみじみと感動してしまった。  雪割の家に入ったのだから、すぐにでも仕事を手伝わなければならないかと思ったのだが、特に連絡はない。どうやらまた離縁されると思われている節があるからではと、滋さんには言われた。  一華さんとは、毎日話すことはなかった。彼女の体調は日によってまちまちなので、心配ではあるが、何もできない自分は歯痒いものがある。  そして予想していなかったのは、鈴夏の家から仕事の依頼をされてしまったことだ。  鈴夏の血を引きながらも、僕は妖退治に関してはほとんどできない。多少妖の気配ぐらいは分かるが、呪術自体は才能がないのでほとんど行使できない。そんな僕は今までは、鈴夏の家に伝わる記録や呪術書の整理を仕事にしていて、中でも呪術書の読解については得意でもあり好きなことだった。基本的に、僕は活字との相性が良いらしい。  ただ、大量に持ち込まれると話は別だ。 「あの、文人さん」 「はい。何ですか」 「お疲れの様子に見えるのですが」  今日は一華さんの調子も良いため、こうして部屋に上がらせてもらっている。せっかく会話できるのだからといつもならば話題を考えて臨んでいるのだが、今日はさっぱり何も用意していなかった。 「実は、鈴夏の家の仕事を手伝っているんです。先に聞くのを忘れましたが、それってまずいですかね」  一応聞いてみると、一華さんは首を振った。 「いいえ。別にあなたが無理をしていなければそれで構いませんが」 「結婚前は、雪割の家を手伝ってもらうとは言われていましたし、もちろんそちらが来れば優先しますからね」 「そういうお話でしたか。あなたが嫌なら断りますし、断ることは可能で、簡単ですよ」  一華さんにそう言ってもらえて内心は安心した。   後輩達が困っている様子は手紙からもよく分かったし、文書を持参して泣きついてきた後輩を見ているとこれは放っておけないと思ったのだ。そして僕自身も、まだこの家でやや暇を持て余していたところがあったから請け負ってしまったのだが、持ち込まれる量がだんだん多くなってくるのを見て、さすがにまずいと本能で感じた。  仕事は好きだ。だが、今他のことにまで目を向ける余裕がなくなるのは良くない。 「でも、ろくに引き継がなかった僕にも非はあるか」  結婚前に物理的な資料整理を済ませることを優先したり、鈴夏の筋の家にいって記録を調査しに行ったりと、後輩達にあまり丁寧に接することができていなかった。  どうしても妖退治を生業にする家では実力行使型の方が重宝されるし、皆が目指すところである。その中で僕は極めて異端で、貴重だった。  昔は呪術師としての活躍する姿は羨ましかった。たた、いつも隣にいた人が天才中の天才だったため、そういう気持ちはいつしか消えていった。  風呂上り後、きりが良いところまでは済ませておきたいと思っていると、もう夜もだいぶ深くなっていた。  不意に、部屋の前に誰かがいる気配を感じた。  藤さんか、滋さんだろうか。  いや、二人とも夕飯が済んだ後は母屋とは別の棟で暮らしている。こんなに部屋があるというのになぜだろうとは思ったが、そこは二人の家らしい。一度見せてもらったことがあるが、母屋とは規模と部屋数が少ないだけで、十分立派な家だった。  使用人としての区別のつけ方というと、なんとなく違うような気がした。  さすがに頭が疲れたし、喉が渇いた。水でも飲もうかと台所に行くため部屋を出ると、廊下には誰もいなかった。  窓の外から二階を見上げると、うすぼんやりと明かりがついていた。最近読解に時間を取られているのもあり、一華さんの調子が良い時でも様子を見に行けていない。  起きているなら、少しだけでも様子を見に行こうかと思ったが、夜這いでもしにきたかと思われるとそれは嫌なので、やめておいた。 「ああ、もう朝か」  読みふけっていたからか、机の上でいつの間にか寝てしまっていたらしい。体が硬くて思わず伸びをすると、ばさりと羽織が落ちていった。  自分でかけた記憶はないから、誰かがかけてくれたのだろうか。  まだ朝にしてははやく、藤さんも滋さんも起きてこちらに来る時間ではないはずだ。となると、一華さんが?  朝ご飯を食べてから、藤さんに様子を見に行ってもらい、一華さんの部屋に上がった。 「あの、一華さん」 「はい」  さて、どう切り出そうかと思ったが、あまりごちゃごちゃ考えるほど難しい話でもなかった。 「昨日、僕に羽織をかけていただいたんですかね。ありがとうございます」 「あなたがそこまで無理をなされないといけない作業なのですか?」  思ったよりも冷たい声音に、少しだけたじろいでしまった。 「引継ぎ作業をあまりしてこなかったのもありますので」 「それは結婚があったからですよね。急に決まりましたものね」 「それもありますが、色々ばたばたしていたからなのもあります。妖退治と違って、事務方の作業は万年人手不足なものでして」  言い訳みたいな説明をしてしまったが、これで納得してもらえるだろうか。 「一部は、残された方たちの怠慢ということではないでしょうか」  完全な図星だった。 「なかなか痛いところを突きますね」 「なんとなく思ったことを言っただけです。あなたが好きでされているなら構いませんが、無理にまでされることならば、雪割の家に来たのだからと断ってもいいのではと思っただけですよ」  どことなく気遣いの声が聞こえてきたので嬉しくは思ったが、  「それはほどほどにします」  早く片付けないとまずい。それだけはよく分かった。  その日の午後過ぎに、藤さんがお茶を持ってきてくれた。 「文人さん、少し休憩されたらどうですか」 「休憩はしていますよ。一華さんにも心配されましたし」  無理せず作業をして、もう少しで終わるはずだとは思っている。ただ、ここにきてあまりにも筆跡が汚い呪術書なのがつらい。 「このどら焼き。一華さんに頼まれて買ってきたんです」 「え?」 「きっと根を詰めて作業されているだろうから、甘いものでも召し上がられれば良いと言われて。若干痩せられていることも心配されていましたよ」  藤さんが作ってくれる食事は美味しいし、それなりの量は食べている。ただ、元からあまり太れない体質なのと、頭を使っている作業をしているからだろうか。 「後で一華さんに御礼を言わないといけませんね」  口にしたどら焼きは、優しく甘さが広がって美味しかった。  茶碗と皿を返すために台所に行くと、藤さんは忙しく夕飯の支度をしていた。 「あの、藤さん。一華さんも甘いものがお好きなんですか?」 「え?」  ものすごくびっくりするようなことを聞いた覚えはないが、藤さんの反応はそれに近い。 「甘いものを差し入れてもらったので、そうかなと思ったんですが」  もし好きなら、何か買ってきたら一緒に食べてくれるかもしれない。そういう淡い期待があった。 「まあ、そうですね。普通にお好きですが、あまり食べられはしませんね」  どこか取り繕ったように答えた藤さんは、料理の支度に戻った。  忙しい時間に邪魔をするものではないが、なんとなく引っ掛かりを覚えたのは確かだった。    久しぶりの書庫の香りに、どことなく安心できた。  「雪割の家はどうですか」 「どうにもこうにも、一応普通だよ」  隣で資料整理を手伝ってくれているのは、日浦陵介君だった。僕と違って優秀な呪術師である日浦君は、さっき遠方からの出張から帰ってきたらしい。 「そうですか。てっきり離縁されて帰ってこられたのかと思いましたよ」 「まさか。離縁される理由は今のところ僕にも一華さんにもないよ」  軽口をさらりとかわし、僕は手拭いで汗を拭った。 「まあ、一華さんとは話すだけだけどね」 「話すだけ?」 「顔に傷があるらしいからそれを見せたくないらしい。気にはなるけど、無理強いする気はないし、僕は一華さんと話すのは楽しいから。とは言っても、一華さんの体調によっては三日間ぐらい話さない時もあるけどね」  日浦君はなんだか複雑そうな顔を見せてきた。 「奥方はそこまで体調が悪いんですか?」 「詳しいことは聞いていないけれども、その日によって変わるし、分からないらしいよ」 「それが今までの離縁の理由ってことですか?」 「それもあるみたいだけど、あ、日浦君。その冊子を取ってくれる?」  渡された冊子を受け取り、棚に収める。もうすぐ終わりそうだから、帰りに甘いものを買って帰ろう。  「なんか、結婚したって感じしないんじゃないですか? 結局こっちの仕事してるわけだし」 「でも、鈴夏には雪割からの援助があったって聞いたよ」 「まあ、この前の妖退治で大損害出しましたからね」  鈴夏の家の総力を挙げて妖退治をしたのだが、結局多大な人的被害とともに、周辺住民達と の補償問題も沸き上がった。妖は退治できたのだから、呪術的なことでは解決できず、結局は金 銭での決着となったのだが、それができるだけの力は鈴夏にはなかったのだ。 「あなたのおかげで助かったっていうのは分かりますけど、なんだか人身御供みたいで」 「人身御供になれていればそれで構わないよ。ただ」 「ただ?」 「雪割の家で鈴夏文人として期待されていたら、ちょっと困るなっていうか。困るどころじゃないよ ね」  結婚してから常に心の中にある重石は、気を抜けば忘れてしまいそうになる時がある。折に触れて忘れないようにと思うのだが。 「それも、はやく離縁されたら終わりますよ。みんなはやく帰ってくるもんだと思ってますし」  揶揄するように日浦君が言うので、僕は首を振った。 「支援だけ受けて終わりって言うのはね」 「あなたは相変わらず人が良いですね。それだから雪割に行くことになったんでしょうけども」 「人が本当にいいなら、結婚なんてしないよ」  自分で言いながらなんとも偽善的だなと思った。  書庫の資料整理も終わり、後は帰るだけとなったところで、思い出す。 「日浦君、お願いがあるんだけど」 「何ですか? 改まって」  ノートに挟んで持ってきていたのは、持参した本に挟んであった写真だ。 「この写真、返しておいてくれないかな」 「あ、これ。持って行っていたんですか」  日浦君が目を丸くした。 「持ってきた覚えはなかったんだけどね。荷物の中に」 「ああ、お嬢様が入れたってことですか」  受け取ろうとした日浦君の手が止まる。 「これは、やっぱりあなたから返してください。俺なんかが返したら、冗談で済まなくなりますか ら」 「でも、もう僕は」 「お嬢様も寂しがっていますよ。あの人が一番、あなたがはやく帰ってくるものだと思ってる。じゃ ないと、あんなあっさり結婚させるわけがない」  彼女に会うという選択肢はない。別れ際にさんざん傷つけてしまったのだから。今日だって、彼 女が学校に通っている時間を見計らってきたのだ。  僕はまた写真を返すことはできなかった。    鈴夏の仕事は終えたところで、本格的に雪割の家、ひいては一華さんの周辺事情を知らなけれ ばならないという結論に達した。  と言っても、一華さんはここのところ体調を崩しているらしい。せっかく自分の方に余裕ができたと思ったが、それは自分の身勝手な都合だ。  結局、葉山夫妻の仕事を手伝いながら聞くことにした。 「あの、滋さんは時々本邸に行かれるんですよね」 「向こうから渡されるものとか、連絡事項だとか色々あるんでね。後は、この家の修繕や庭の手入れが多いですね」  今僕は、草むしりから始まり、庭の手入れの手伝いをしている。なかなか根気がいる仕事だなと思っているが、明らかに四十を過ぎている滋さんは苦も無く手際よく作業を進めていく。 「別に、文人さんが手伝う必要はないんですよ」  体力の差を痛感している僕に、その言葉は皮肉にも聞こえてしまった。 「いや、やっぱりこの家で生活している分には、僕も何かお手伝いできないと」  駄目だ。息が上がってくる。体力をつけよう。本ばかり読んでいる場合ではない。 「無理しないでくださいよ。怪我でもしたら大変ですし」 「そうですね」  昼過ぎまで作業をしてすっかり疲れ果てた僕を見て、藤さんが目を丸くした。 「文人さんがここまでなされなくても」 「いえいえ。僕が勝手にしたいって言っただけですから。はやくこの家に慣れたいですし。体も動かさないとなまりますし、いや、体力つけないといけないことはよく分かりました」 「はあ、そうですか」  藤さんが作ってくれる料理は、素材の味が活きた優しい味がするので、僕の舌には合っているので好きだ。 「それで、今度は私の手伝いですか」  呆れながらも台所に立つことを許してくれた藤さんに、僕は頷いた。 「ええ、今のところは雪割の家の仕事も任されていませんし、かと言って好きな本だけ読むのも心苦しくなってきましたから」 「せっかく鈴夏のお仕事を終えられたんですから、のんびりされたらいいんですよ」 「そうなんですけど、はやくこの家に慣れたいので」  野菜を洗いながら、僕は今日の献立は何かを予想していた。 「家のことは私達がしますし、それが仕事でもありますし」 「もちろん、出過ぎた真似はしません。そこは最新の注意を払いますので」  滋さんの人となりは理解はできたのだが、肝心の一華さんのことはなかなか聞ける雰囲気ではなかった。その点、藤さんにはまだ聞きやすいところがある。 「あの、一華さんの体調は良くはならないんでしょうか」 「すぐに治るものではありませんからね」  手際よく食材を切り進めていく藤さんには、無駄な動きがまったくない。 「ずっと家の中で過ごされているんですよね」 「そうですよ。お嬢様は滅多なことでは、外にはお出かけになりませんし」  一華さんのことは藤さんが世話をしているため、毎日接している。身の回りの世話となると、やはり同性が良いだろうし、気心も許せていて、信頼もされているということだ。 「それは、事故に遭われる前もそうだったんですか?」 「事故に遭われる前には、よくお一人で外に出かけてはいらっしゃいましたよ。特に本を買いに行かれることが多くて。前に何十冊も本を抱えてこられて、こっちがびっくりするぐらいでしたからね」  それは僕もよくやってしまうことだ。一気に親近感を抱いてしまった。 「本を読むのがお好きなんですか。僕もそうだから、今度はその話をしてみようかな」  好きな本の話をすれば、もしかしたら心を開いてくれるかもしれない。 「文人さんは、お嬢様に歩み寄られようとされるんですね」 「今までの方々はどうだったんですか?」  あまりにも不思議で仕方がない調子で聞かれたので、思わず尋ねてしまった。 「お嬢様の条件を聞いてもなお奮闘されたのは一人目の方でしたが、全く顔を合わせないことに嘆かれましてね。お嬢様もお一人目のご結婚については、はっきりと拒絶されていましたから。良い方ではあったんですが、優しすぎたんでしょうね」 「無理やり結婚なんて、普通は嫌でしょうしね」  この前の態度以上だったとしたら、かなりつらいだろう。一人目の相手はかわいそうだとは思う。 「あまりにも不憫に思われたのか、お嬢様から離縁を申し出ました。それから二人目の方は、条件を聞いてからは特に家に寄り付かず、その内ご実家が大変なことになりまして。お嬢様からではなく、ご当主から離縁を突きつけましたね。私達とも折り合いが悪いところはありましたから、正直なところほっとしました」  大体、この前聞いた一華さんの話と符号していた。 「三人目の方は、最初は文人さんのように歩み寄ろうと努力されていましたが、心に思う方がいらっしゃったため、それで無理がたたったのか体調を崩されまして、見かねたお嬢様が離縁を申し出ました。まあ、その方は好きな方とはちゃんと添い遂げたいと考えていらっしゃったようですし、どう考えても離縁だったんでしょうね」 「あの、大体皆さん、どれぐらいご結婚されていたんでしょうか?」 「厳密な結婚生活は難しいですが、お一人目は一月、お二人目は二月、三人目は三月でしょうか」 「そうでしたか」  この法則だと、僕は四月ぐらいだと思われているのだろうか。一月を越えたと入っても、ほとんど鈴夏の仕事をしていたからあまり成果はないような気がする。これからが勝負か。  洗った野菜を手渡すと、心なしか藤さんの顔が険しくなってきていた。 「お嬢様はご結婚される気はないのに、ご当主がいつも勝手に決めて押し付けてくるんですよ。それにお嬢様は振り回されてお可哀想ですよ」  ここまで仕える家に対して批判的に言うのだから、これは本音だろう。そして、さっきからどんどん包丁の音が大きくなっているのが少しだけ怖い。 「お嬢様が今どんな境遇なのか、様子も見にも来ないで、いつも用だけ言いつけて」  結婚する前に、雪割の当主である雪割皐月には対面したことがある。冷徹な女帝と噂されているように、顔を合わせただけでなぜか恐縮してしまった。一華さんと仲良くしてもらいたいこと、うまく生活してほしい、鈴夏の家のあなたなら分かってくれると言われた気がする。正直生きた心地はしなかった。 「あの、藤さん、少し刻みすぎじゃないでしょうか。別に食べてしまえば変わりませんけど」  僕の指摘に、藤さんが漸く手元に気づいた。まな板の上にあるのは、刻みすぎて細かくなりすぎた白菜らしきものがある。 「ああ、そうですね。つい」 「食事の用意の時に話す話題じゃなかったですよね。すみません」  その日の味噌汁は味はおいしいのだが、触感が今まで食べたことがないものだった。案の定、滋さんはとても渋い顔をしていた。 「一華さんは、本を読むのがお好きなんですか」 「ええ、この体になってからは特に」  外に出ることもかなわないならば、家の中で過ごすとなると読書はその筆頭だろう。 「今、何を読まれているんですか」 「探偵ものですね」 「探偵ですか。謎解きものがお好きということですね」  それは自分も好きなのでよく分かる。謎があると人は惹かれる。そしてその謎が一体何なのかが気になって仕方がなくなるのだ。  そう言う意味では、一華さんも謎だ。素顔が分からないのもあるが、なんとなく人となりが見えてこない。 「良かったら、面白かった本の名前、教えてくれませんか」 「聞いてどうするんですか?」 「読んでみようかと思って。そうしたら、感想を言い合えるでしょう」  会話のきっかけが生まれるに違いないと思ったのだが、一華さんは黙っていた。 「あの、一華さん?」 「せっかく鈴夏の家の仕事が終わったのならば、少し休まれたらどうですか? 滋さんや藤さんのお仕事を手伝われているようですが。それに私のことまで気にかけて、疲れませんか」 「疲れるとかそういうものでもないんですが」  自分にできることをしたい、より良い生活環境を目指したいと思うのが、そこまで悪いことだろうか。 「もしかして、動いていないと不安になる方なんですか?」 「そうかもしれませんね。ふわふわしてる時は、ちょっと不安になります」  例えば風邪で寝込んで、熱は下がり峠は越えたがまだ無理はしてはいけない時期。何もする事がなくなり、本を読むのも正直飽きた時は、こっそり呪術書を持ってきてもらったことがある。後でそれが見つかり、こっぴどく怒られたのは良い思い出だ。 「私が今読んでいる本と、面白かった本ですが」 「はい」 「また、読み終えたらお渡しします。面白かった本は用意できたら」 「良いんですか?」 「ええ、きっと題名だけお伝えしたら買ってこられそうですし。同じ家の中に同じ本は二冊もいらないかと」  指摘はおそろしく正しかったので言い返せない。 「本がお好きということですし、ここの生活で楽しいと思えることがあるならそれで良いかと思って」 「楽しいですよ。まるで新しい本を読むためにはどう努力すればいいか考えていることに似ていて」  つい本音で返してしまったが、一華さんが苦笑したのが分かった。 「あなたはやっぱり変わってる。最初から読めない本なんて投げ出せばいいのに。もしかしたら、読めても全く面白くないかもしれませんよ」 「それはどうでしょうか。面白そうだなという感触はありますよ」  一華さんの素顔は見てみたいとは思うが、それ以上に彼女のことをもっと知りたい。何が書かれているのか、それが気になって仕方がないところがあるのだ。  これで素顔が分かれば、もっと大胆に踏み込んでも良いのだろうか。そういうことには少しだけ迷いがあるし、困惑しているのは確かだ。 「そう言えば、この前買ってきた饅頭。あれぐらいの甘さはお好きですか?」  鈴夏の家の帰り、差し入れの御礼として買ってきたのは、よく好んで食べていたこしあん饅頭だ。甘さは控えめで、皮がもちっとしていて、誰に渡しても美味しいと評判なのだが。  藤さんと滋さんにも買って帰り、二人とも美味しいとは言ってくれた。ただ、一華さんの感想はまだ聞いていなかった。 「え、ああ。美味しかったですよ。ありがとうございます」 「それなら良かった。この前一華さんからいただいた、どら焼きが美味しかったので」  この調子で、また甘いものを買ってみよう。共通の話題が少しずつ増えてきたので、嬉しくなってきた。  藤さんと滋さんとは少しずつ歩み寄れてはいるし、生活自体は居心地が良いので、特に焦る気はない。ただ、いつ一華さんから三下り半を突きつけられるかという可能性がないわけではない。  今のところは、嫌われるようなこともしていない。嫌われる要素はあまりないはずだが。  ただ、好かれる要素が今の自分が見せてこれていない気がする。 「これで良いのかどうか」  一華さんから借りた本は、どれも面白い。ミステリーものはやはりわくわくする。ただ、惜しむらくは、自分は活字を読むのが異様に速く、すぐ読み切ってしまったことだ。  一気に複数の本の感想を伝えると、絶対に引かれる自信がある。そして、また無理をしていないかといらぬ心配をさせてしまいそうだ。  今日は天気が良いから、新しい本を見に行くついでに、散歩しにいこう。 「文人さん、少し良いですか」  滋さんに呼ばれたので障子を開くと、いつになく険しい顔をしていた。 「あの、どうかされたんですか」 「本邸から連絡がありましてね。文人さんに来て欲しいとのことでして」  なんだかあまり良い雲行きではないことだけは分かる。 「分かりました。僕一人ですか?」 「私もお供します。用事もありますから」  滋さんについてきてもらえるのは、正直なところ心強い。  本邸に行くのだからと普段着ではない着物と袴、羽織を用意した。  ひょっとして、雪割の家の仕事を手伝うようにという話だろうか。  用意もすべて整えて、迎えの車が来ているのが見えた。この調子だと、もしかして当主に呼ばれているのかもしれない。一気に気が重くなる。 「あの、文人さん。少しお待ちくださいませんか」  送ってくれるであろう藤さんから呼び止められた。 「どうしたんですか? 何か用事でも」 「いえ、お嬢様がお話があると」 「一華さんが?」  一華さんからの呼び出しは、初めてだった。  「本邸に行くそうですね」 「ええ、呼び出しがあって」  いつになく部屋の空気が重いのは気のせいだろうか。 「くれぐれも気を付けてくださいね」 「気を付けるって、何をですか。確かに敷居は高いですが」 「あの雪割の家からの呼び出しです。何があるかは分かりません。当主には会われたことはありましたよね」  明らかに棘がある口調だ。 「ええ、結婚前に一度だけご挨拶にはいきましたが」 「あの人は、怖い人ですよ」 「まあ、そうかもしれませんね。威圧感があるというか何というか」  鈴夏の家の当主は、どことなく浮き世離れしているが、雪割の当主は地に足がついているというよりも、めり込んでいるぐらいの堅牢さがある。 「鈴夏の血を持っていても、持っているからこそ、利用されるかもしれませんよ」 「利用ですか」  政略結婚なのだからそれは仕方がないだろうとは思う。 「あなたが、鈴夏の血を引くからこそ、私と結婚していても、別の雪割の者と結婚させられるかもしれませんよ」 「え、でも重婚はできませんよ」  僕の指摘に、一華さんは呆れたように息を吐いた。 「だから、建前で私と婚姻関係があっても、そうでなくても子供ができるかもしれないでしょう。そういう結婚です」 「あ、なるほど」  それはさすがになかなか悪い方法だなと思ってしまった。まさか、ここまで鈴夏の血をあてにされているとは思わなかった。期待にはまったく答えられないのだが。 「でもさすがに」 「そのさすがにをするのが雪割ですよ。いくら鈴夏の血があろうとも防げるかは分かりませんよ」 「それは、なんだか怖くなってきましたね。いや、それより僕はあなた以外と結婚する気も、関係する気もないんですけども」 「私とは何もないで終わるのは間違いないですが、その話はとりあえずおいておきましょうか。つまるところ、当主が呼んでいるからといっても、本当は行かせたくはないんですよ」  ここまで一華さんがはっきりと感情を乗せて話すのは初めてだ。それが例え、嫌悪感からだとしても。 「心配してもらって、ありがとうございます。なんだか嬉しいなあ」 「嬉しいって、あなた今の状況が分かっていますか」  やや語気を荒げられたので、少し怒らせたのかもしれない。 「分かっていますよ。ただ、僕のことを気遣ってもらえてそれが嬉しいって思っただけなんです。すみません」 「あなたは本当に、どうしようもない人ですね」  一華さんには、大きなため息をつかれてしまった。 「とにかく、雪割の家では気を引き締めてください。隙を見せてはいけません。出されるものも食べず飲まずで、気を付けてくださいね。いくら滋さんが付き添っていたとしても」  これから自分は取って食われるのだろうかと思えるほどな内容だった。天幕越しでも、一華さん 様子がただならないのがよく分かる。  そもそも、一華さんからすれば、現当主は四度の結婚を強いてきた憎い相手でもあるのだから。 「あの、一華さん」 「何ですか」 「そこまで言われると、だんだん怖くなってきたんですが」  気づけば小刻みに手が震えていたのに気がついた。柄にもないなと思い、手で押さえてみるがなかなか収まらない。 「ごめんなさい。脅すつもりではありましたが、ここまで怖がらせるつもりはありませんでした」 「いや、最初は嬉しかったんですが、なんだか一華さんが切迫しているから」  すると、一華さんが天幕から顔を出した。  初めて見る妻の顔は、 「え? 狐?」 「すみません。顔は見せたくはないので、あと近くにあったのはこれだったので」  狐面をかぶった一華さんの装いは、淡い水色の着物だった。そこから伸ばされるのは華奢な白い手だ。 「大丈夫。私が手を打ちますから」  頬に触れられた手はあまりにも冷たく、まるで人形のようだった。そのことに驚く間もなく、至近距離に一華さんがいることに鼓動が一気にはやくなる。 「一華さん」  呆気に取られている自分に一華さんが頷くと、結わえていない長い黒髪がさらりと揺れた。 「落ち着いて下さい。息を吸ってみて」 「え、ああ」  言われたとおりに息を吸う。 「深く吐いて」  すべての息を吐くと、震えは少ししてから止まった。  甘い香りがするのは、香水をつけているからだ。そして僕は、この狐面の下の顔が気になって仕方がない。 「一華さん」  頬に触れた手を握り返そうとしたところ、振り払われた。 「あ」 「いえ、すみません。いきなり触れて」 「いや、その」  握りたかったのだとは口が裂けても言えなかった。 「ありがとうございます。おかげで落ち着きました」 「それは良かった」  ほっと息を吐いた一華さんが離れてしまうことに、寂しさを感じてしまう。すぐ近くにいたのに、するりと離れて行ってしまった。 「あの、帰ったら本邸でのこと、お話ししたいんですけども」 「え?」  一華さんが振り返る。 「いや、何か困ったこととか起きたら相談したいなと思って」  初めて立っているところを見たが、本当に華奢で細いのがよく分かる。ちゃんと食べているのだろうかと心配になってしまうぐらいだ。 「そうですね。分かりました。待っていますから、ちゃんと帰ってきてくださいね」  その言葉だけでもう、今日は十分だった。     車窓から見える景色の中に、仲が良さそうな夫婦が歩いているのが見える。  あんな風に、年を取って一華さんと笑いあう日が来るのだろうか。滋さんや藤さんのような、お互いを尊重しあうような。  政略結婚なのだから期待はしていないが、それでも良い方向には向いてほしい。    それにしても、触れられた頬が熱い。  目をつむると、一華さんの白い指先がちらついて仕方がなかった。  掌だけでこんな風に意識してしまう時点で、先が思いやられる。けれどそのおかげで、雪割の家までの道中は気が紛れた。  いつ見ても雪割の本邸は威圧感がある立派な洋風建築だと思う。純和風の邸宅の鈴夏とは大違いだ。 「お待ちしておりました。文人様」  通されたのは豪奢な洋室で、以前通された部屋とは違った。 「ご当主の皐月様がいらっしゃいますので、しばしお待ちを」  緊張感が増してくるのは、決して気のせいではない。 「あの、滋さん」 「はい」 「何の用なんですかね」 「とにかく、当たり障りない、はっきりしない返事で進めてください」 「そうですね」  腹を括って待っていると、洋装姿の老婦人が現れた。 「今日は来ていただいてありがとう。文人さん」  今の雪割を取り仕切る当主、雪割皐月は、ただその場にいるだけで、人を萎縮させる。 「結婚してからご挨拶が遅れまして、申し訳ございません」  立ち上がって頭を下げると、女帝は目を細めた。 「いいえ、こちらこそ一華さんの都合で結婚式も何もせず進めてしまって、本当に申し訳なく思っています。どうですか? あちらの家での生活は」 「はい。楽しく過ごさせていただいています」  できるだけ印象が良さそうに笑いかけてみる。 「そうですか。ところで、一華さんは文人さんにはお話しされたのかしら」  意味ありげに目配せされたので、思わず聞き返してしまった。 「え?」 「ええ、一華さんの体のことですよ」 「体調が優れないことが多いのは知っていますが」  ちらりと滋さんの顔を伺うと、硬くなって色を失っていた。いつも無表情の滋さんがここまではっきり表情に出すことはまれだ。 「優れないと言えば優れないですけれども、ちょっと事情がありますから」 「事情?」 「そうですか。まだご存じないのね。鈴夏の方だから気づかれているのかと思ったのだけども」  不敵に微笑んだ女帝に、背筋が冷たくなった。  何か隠されているのだろうか。 「文人さん。早速ですが、ご実家の鈴夏のお家には援助を申し出ました。こちらとしてもこうしてご縁があったのですから、これからも長くお付き合いできればと思っていますよ」 「あ、ありがとうございます」  駄目だ。何か隠されている気がして、聞いてしまいたい衝動に駆られる。でも、踏み込んで良いのか。  「いえいえ。鈴夏の血をひく、しかも時期ご当主候補までなられた方に来ていただいたのですから、これぐらいは」  胃のあたりが重く痛む。出された紅茶など飲む気にもなれない。 「ここの紅茶、美味しいのですよ。良ろしければどう?」  さあ飲めと言わんばかりの調子に、形式的ながらもカップに手が伸びた。  一華さんの話も気にはなるが、隙を見せてはいけない。ましてや、僕がこの家に来た、本当の理由も悟られるわけにはいかない。   重い空気に耐えきれずカップに口を運びかけたところで、執事の男性が現れ、女帝に耳打ちした。 「あら、もう帰ってきたの。狙いすましたようね」  女帝が少しだけ顔をしかめたところで、ドアが開いた。 「ああ、やっと会えたね。義弟君」  精悍でいて、どことなく少年のような表情が残る青年が現れた。役者のように容姿も体格も良い。 「初めまして。一華の兄の雪割蒼大です」  僕に向けて柔和に微笑んできたのは、どうやら自分の義理の兄となる人らしい。 「皐月さん。文人さんと話をしたいんですが、お話は終わりましたか?」 「蒼大さんこそ、どうされたんですか。随分とお忙しいと聞いていますよ」  やや窮屈そうな顔で、女帝が紅茶を飲み干した。 「忙しいですけど、ここは僕の家でもありますしね。それに、義弟ができたんだから会いもしたくなりますよ」 「あら、今までの方は顔も出さなかったのに」  非難がましく言う女帝に向けて、蒼大さんは柔らかな表情を崩さない。 「それこそ忙しかったんですよ。それに、義弟君には僕の仕事を手伝ってもらいたいなと思ってるんですよ」 「なんですって」  語気を荒げた女帝の様子から、不穏な空気が流れているのだけはよく分かった。 「一華にも頼まれていますからね。あなたも、一華の言うことだけは聞かないといけないと思いますけども。散々、結婚では利用してきたんですから」  鋭い口調ながらも、蒼大さんは笑みを絶やすことはなかった。 「あなたも、随分と言うようになりましたね」 「おばさまに似たんでしょうかね。一華がここにいたら、こんなものでは済みませんよ。あの娘は賢いですから」  しばらく沈黙が続いたが、女帝が観念したように笑った。 「なら今日はこのあたりにしましょうか。文人さん、今度はゆっくりとお話ししましょうね」  優雅に笑いかけてくる女帝の顔を直視できず、ぎこちなく笑うすべしか、僕には残されていなかった。     先ほどの部屋が豪奢というならば、今通されている部屋は優美さが分かる部屋だった。  蒼大さんの秘書という女性に促され、僕は椅子に腰かけた。あっという間にお茶が運ばれ、茶菓子はどうやらクッキーらしい。  そういえば、珍しい洋菓子に関しては、大抵彼女は好きだったなと思い出す。よく一緒に食べさせられた記憶が懐かしい。  目の前にいるのは、一華さんの兄という人。傍目から見ても整った顔立ちに、気品溢れる雰囲気。相当女性に好感が持たれると思うのは、僕が僻んでいるからだろうか。 「改めまして、鈴夏文人です。ご挨拶が遅れました」  改めて立ち上がって礼をすると、蒼大さんは手で制してきた。 「こちらこそ、仕事が立て込んでいて放っておく形になって申し訳ない。妹が四度目の結婚をしたことは、耳にしてはいたのだけど」  また離縁されるなら、会っても無駄だと思ったのだろう。 「妹との結婚はなかなか難しいからね」  紅茶を飲む姿も様になる。兄がこの顔立ちならば、一華さんも美人だろうか。まだ見たことがない妻の顔を思い浮かべてみるが、すぐに弾けて消えた。 「ここのクッキーは美味しいから、良かったら食べてごらん。一華も好きだったから」  その言葉を聞くと、手を伸ばしたくなってきたが、 「ああ、一華に釘を刺されたんだろうけど、僕は大丈夫だと思うよ。ほら、その証拠に滋さんは席を外して、仕事をしに行っただろう?」 「そうですね」  滋さんは当主との面談後、僕が蒼大さんのところに行くとなってから、席を外した。最初は不安に思ったのだが、去り際に「蒼大様は、お嬢様の味方ですから大丈夫です」と言われた。 「なら、遠慮なくいただきます」  砂糖が表面に乗っていて、口の中でしゅわりと解けて消えていく。サクサクとした触感にバターの香りが広がり、とても美味しい。 「美味しいです」 「ああ、僕も昔から好きでね。一華も僕も甘いもの好きで、よく二人して食べに行っていたんだよ」 「そうなんですか」  よし、これから甘いもの探しはもっと気合いを入れて行おう。 「あの、一華さんは洋菓子か和菓子ならどちらがお好きなんでしょうか」 「ああ、どちらも好きだと思うよ。でもどうして」 「いや、買って帰れば喜んでもらえるかと思って」 「ああ、それは」  何かを言いかけたがやめて、蒼大さんは紅茶を飲んだ。 「ところで文人君」 「はい、何でしょうか」 「雪割の家の仕事を手伝ってもらう話だけど、僕の仕事を手伝ってもらおうと考えているんだ。君は噂では優秀と聞いているし」  対外的には、鈴夏文人は優秀ということにはなっている。だが、あまり期待されてぼろが出るのは苦しいところだ。 「それは噂が大きくなっているだけですから」 「それなら、その噂を大きくした理由があるのかな」 「さあ、どうでしょう」  当主との会話も気を遣いはしたが、いくら一華さんが信頼していると言っても、蒼大さん相手に気を緩めるのはまずそうだ。 「とにかく、僕の方でも今忙しい時期でね。明日からまた出張続きなんだ。だからしばらく、そうだな、本格的には二ヶ月ぐらいは先になるかもしれない」 「お忙しいんですね」  当分先と言うことなので、幾分かほっとした。それまでに雪割の家の内情を知っておかなければならない。 「少し手持無沙汰になるかもしれないけれども」 「いえいえ、僕で勤まるか自信はありませんが、精いっぱいやらせてもらいます」  僕の返事に、蒼大さんは気を良くしたのか、にこりと笑ってくれた。  しばらく他愛ない会話の応酬が続いたところで、ふと蒼大さんが真顔になった。 「実は、一華から、当主からの呼び出しのことを聞いたんだ」 「一華さんからですか?」  それは彼女が言っていた、打つ手だったのだろうか。 「僕の事務所に電話があって、当主に君が呼び出されたから、適当な理由でもつけて連れ出してほしいって言われてね。まさか一華からそんなお願いをされるとは思っていなかったから、すぐに車を飛ばしてきたんだよ」 「そうだったんですか。偶然ではなくて」 「必然だね。それで、君と当主が話してから少しして、僕は隣の部屋で聞き耳を立てていたわけなんだ。ちょっとドキドキしたよ」  蒼大さんは、子どものように笑った。  そういうことなら、当主が意味深に言ってきた事情も知っているのだろうか。当主には聞けなかったことでも、この人なら聞いても良いのかもしれない。 「あの、蒼大さん」 「なんだい?」  一華さんの兄であり、信頼も厚い人。けれども、 「蒼大さんのお仕事はどういったものなんですか?」 「貿易会社を経営していてね。時間ができたら、今度事務所を案内するよ」  やはり一華さんのことなのだから、本人に聞くのが良いに違いない。逃げているような気もしつつ、核心に繋がるであろう質問は避けることにした。 「文人君、これは雪割の家の者としてのお願いではなくて、一華の兄としてのお願いなんだけども」 「はい」 「一華が結婚相手のことを心配して、僕に助けを呼んだのは初めてなんだ。今までの相手だって粗略には扱ってはいなかったようだけど、あくまでそれは形式的なことだった。それに、いくら当主だって結婚してから日が経たない内に、無茶なことはしないよ。ましてや君は鈴夏の家の者だったわけだしね」 「一華さんからはかなり気を抜くなとは言われましたね」  それだけ当主のことを警戒しているのだろう。また会わなければならないだろうが、気が重い。 「鈴夏の君だから頼んでいるところもあるけれど、一華の味方になってほしい」 「味方、ですか?」  もちそん、最初からそのつもりでいるのだが。 「もちろん、今の一華には滋さんや藤さんがついているけれども。あの娘の今の世界は閉じられているから、君がいることで広がれば良いなと思っている。もちろん、随分と自分勝手なお願いだけどね」 「いえ、そんなことは」 「僕はあの二人ほど、一華のことは考えられなかった。結局保身に走っていたところがあるから」  蒼大さんは目を伏せて呟いた。  「罪滅ぼしになるとは思わないけれども、できるだけ妹の力にはなりたいと思っている。もちろん、義弟の力にもなりたいと思っているよ。何かあればいつでも頼ってもらえればいいから」 「それは、ありがたいです」  これは益々、一華さんのことを知って、友好的な関係にならなければならない。 「改めてお願いしたい。一華のことを理解するのは完全には難しいかもしれない。君にとってもつらいことになるだろう。それでも、鈴夏の君ならば」  当主も蒼大さんも、いやに僕のことを鈴夏を意識して話してくる。もちろん、一般的な家と呪術師の家である鈴夏は異なるのは分かるが、ここまではっきりと強調されるのだから何かあると思ってしまう。  もしかして、一華さんには、呪術的な何かがあるのか? でもそれが分かったとして僕には、何 もできないのなら、僕が結婚している意味がないのではないだろうか。  そのことに思い当たり、急に寒気がした。 「一華さんの体のことですが。そここまで深刻なんでしょうか」  無意識のうちに聞くと、蒼大さんはやや渋い顔を見せた。 「そうだね。今すぐどうこうなるわけではないけれど。一華は、本当は外に出て活躍できる人間だし、雪割を背負っていくぐらいの才能も度胸もあるんだけどね。残念でならないよ」  医者にかかったからと言って、すべてがなんでも解決するわけではないことは分かっている。それこそ、体を取り換えられるわけではないのだから。  「僕が、一華さんのためにできることは、何かありますか」  あれほど核心に繋がらない質問はしないようにと思っているのに、気づけば口に出してしまっていた。 「それは、君がどれだけ一華から教えられているかによって変わるとは思うけれども」  含みを持った言いぶりに、やはり自分から一華さんに向き合うしかないことだけは分かった。  沈んだ気持ちのままクッキーを口にすると、変わらず美味しかった。そのまま無言で何枚も食べ続けていると、姿を消していた秘書の女性が現れ、蒼大さんに確認してほしいことがあると言っていた。仕事の合間に時間を設けてもらっていたのだろう。 「すまないね。仕事に戻らなくちゃいけないみたいで」 「いいえ。こちらこそ、助けていただきましたし、それにご馳走にもなりましたから。あ、あの」 「ん?」 「このクッキー、少し持ち帰ってもいいでしょうか。一華さんが好きだというなら喜ばれるかと思って」  言ってから図々しかったかと思ったが、快く蒼大さんは了承してくれた。 「全部持って帰るといいから、包んでもらうようにするよ。一華が食べなければ、藤さんたちと食べてくれたらいいから」 「ありがとうございます」  クッキーを包んでくれた秘書の女性には、後から店の情報を教えてもらうこともできた。  少しずつ、一華さんに繋がることが知れて嬉しいはずなのに、どことなく気持ちが落ちていた。   僕が、皆が思う鈴夏文人ならば良かったと、そう思う日が来る気がして。   本邸では良いことも悪いこともあったという、疲れた顔をした滋さんと共に、僕は無事帰ってきた。 「おかえりなさい」 「ただいま戻りました。あの、藤さん。一華さんとは今お話しできますかね? 本邸でのことを話したいんですが。あと」  持たせてもらった包みの中のクッキーを見せると、藤さんは目を丸くした。 「これはお嬢様がお好きだったクッキーですね」 「はい。もしよかったら、一華さんに食べてもらえればと思って、蒼大さんから残りをいただきまして」  良い考えだと思ったが、藤さんはややきまずそうな顔をしていた。 「もしかして余計なことしていますかね。自分で買ってきてないというのはありますが」 「いいえ。そんなことはないですよ」  ちらりと滋さんを見やるが、同じような反応だった。 「一華さん、今大丈夫ですか」 「はい」   待っていてくれたのだなと思うと、嬉しさがこみ上げてきてしまった。 「雪割のご当主とは、結婚してから生活には慣れてきたかぐらいを聞かれただけです。一華さんが蒼大さんを呼んでくださったので、ほとんど本邸では蒼大さんとお話をしていました」 「それは良かった。蒼大兄さまは味方ですから」  ほっと一華さんが息を吐いたのが分かる。 「電話を掛けた甲斐がありました」 「心配されたのに、やっぱり少し嬉しくなりますね」  一華さんに気にかけてもらえたことが、思いのほか嬉しいのは確かだ。  「私としては、当主があなたを利用しようとするのではないかと思ったんです。やはり鈴夏の血を求めているのは本当でしょうし」  ここでも鈴夏の血か。それがどれだけ強いものか身に沁みて分かる。もしかして、一華さんもそれを求めているのだろうか。 「あの、一華さん」 「何ですか?」 「やはり、鈴夏の家の者というのは珍しいんでしょうか」  どうしても核心を聞くのが怖い。自分が役立たずだと思われるのが、一華さんにもばれるのが怖くてたまらない。 「珍しいというよりは、重要視されるのでしょうね。この世には、現実的ではないことなどたくさんありますし。それに立ち向かうことができる力がある存在は、やはり稀かと思いますよ」 「そうですか。その、一華さんもご興味はありますか?」 「興味は持ちたくはなかったです。非現実的なことなど論理的ではないから、むしろ嫌っていた方ですから。ただまあ、この体になってからは嫌でも思い知らされているというか」  このまま聞いても良いのだろうか。けれど、聞けば後戻りできない予感がする。  しばらく自分が取るべき方法に窮していると、手にしていたクッキーの存在を思い出した。  やっぱり僕は弱いな。  「あの、良かったらこれを」 「何ですか?」  問うてくる一華さんに、包みの中を見せた。 「ああ、そのクッキーは」 「蒼大さんから一華さんがお好きだと聞いて、残りなのですがいただいてきたんです。僕は向こうでたくさんいただきましたから、良かった一華さんにと」  そっと天幕の近くまで持っていくと、白い手が伸びて受け取ってくれた。  「ありがとうございます。ここのクッキーは昔から好きだったんです」 「良かった。今度はちゃんと買ってきますね。あと、甘いものがお好きだと蒼大さんからも聞いたので、また別のものも」 「それは、その」  やや引き気味の一華さんに、僕は多少無理をしながらも会話を続けた。  大丈夫。今の僕でもできることがある。そう自分に言い聞かせながら。
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