姫騎士の幽閉

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姫騎士の幽閉

 その日が和平の形を取った征服の調印式であることは、フェリシアもよく理解していた。  湖のほとりの離宮、フェリシアの父王が妃のために建てて家族で仲睦まじく過ごした場所に夏の日の淡い面影はなく、隣国の物々しい兵士たちの雑多な足音で埋め尽くされていた。 「フェリシア姫をこちらへ」  ようやく母国に解放される捕虜たちと引き換えに、姫騎士フェリシアは隣国の王の側室となる。迎えの使者のまるで命令のような言葉に、連れてきたわずかな供たちは眉を寄せて顔を見合わせた。  フェリシアは供たちを制して単騎前に出ると、兜を外して顔を見せた。現れた面差しに、隣国の兵士たちは息を呑む。  白銀色の癖のない髪に、淡い青の瞳、薄く小さな唇。姫騎士が数か月前まで騎兵に混じって戦っていたのは隣国の者たちによく知られている。けれどそれが青い森の先にあるという精霊界に息づいているような、霞に似た華奢な少女だとは知られていない。 「私がフェリシアです」  自分の手足のように馬を操り、凛とした声音とまなざしで兵士たちを見返す仕草がなければ、替え玉だと思われたことだろう。それほどにフェリシアは戦いなどまるで手を触れたことがないような、清浄な空気をその身にまとっていた。  突然兵士たちの間から笑い声が上がり、フェリシアがそちらを目を移すと、馬を操って前に現れた男がいた。  フェリシアの国では男性も髪を伸ばすが、彼の黒髪は潔いほどに短く、浅黒い肌が日に焼けてさらに男性的に見えた。装飾は少ないが右耳につけた紅玉の細工に見覚えがあって、彼が進み出てくる間に、フェリシアはその正体に気づいた。 「フェリシアか」 「ひ、姫様に何を!」  男は馬上から手を伸ばしてフェリシアの顎を掴み、慌てる供たちなど目の端にも入れずに、感心したように名前を口にする。  男は動物にするようにフェリシアの頬を撫で、指先で唇をなぞり、その目に映る空の色までじっくりと眺めたように見えた。  炎で焼いた土のような瞳が笑みを刻んだ時、フェリシアは戦いのときには感じたことがない恐れに襲われた。 「あ!」  男はフェリシアを抱き上げて自分の前に乗せると、馬首を返して言う。 「確かに。捕虜たちを返してやれ」  男はもう捕虜たちには目もくれず、馬を駆って隣国の方に走り出した。  フェリシアは自分で馬に乗って隣国に向かうつもりだった。けれど鎖のようにフェリシアに回された腕が、もうお前にその自由はないのだと告げていた。  隣国は軍事力は秀でているが歴史はフェリシアの国より遥かに浅く、そのような国にフェリシアを側室として迎えるなど無礼ではないかと父王は怒っていた。きちんとした婚礼の衣装も儀式の用意もする様子がない隣国の王に、母后は娘の不幸を嘆いた。  フェリシアは幼いときから、感情の波のない、大人しい子どもだった。騎士をしていたのは国のために必要があったからで、ある意味ではその波のない心だからこそできたことだった。  隣国の後宮の隅に居を移すだけ。忘れられたように年を重ねていられるなら、それもいいのではないかしら。フェリシアの心の中は、両親にさえ伝えることはしなかった。  隣国に着き、確かにそこには婚礼の衣装も儀式も用意されてはいなかった。その代わりに男はフェリシアに夕餉と湯あみをさせるように命じて、自身は去っていった。  半日馬に乗って来て、フェリシアも疲れていた。夕餉の後、湯あみの最中に少し意識を落としていた。  夢見ていたのは、馬を駆って草原を走っていたときの光景だった。フェリシアは戦いが好きで騎士になったのではない。長い歴史と伝統と、しきたりと決められた未来から解放される時が欲しかっただけ。  故郷で嫁いでも隣国の後宮に入ってももう叶わない、それはまさに夢だった。フェリシアが湯の中に雫をこぼしたのを、気が付いた者がいたかどうかはわからない。  けれど湯から上がり、薄絹をまとった後、フェリシアが導かれたのは後宮ではなかった。ベールをかけられて侍女に手を引かれた先は、王宮の中だった。 「今日からここがお前の部屋だ。フェリシア」  ベールを取られ、目の前に立っていたのは、フェリシアを連れてきたあの男だった。フェリシアの腰に腕を回し、抱き上げて喉元に鼻を寄せる。 「香水は今度からつけなくていい。お前の汗の匂いが好きなんだ」 「ここは……」  フェリシアの言葉をよそに、男はフェリシアを寝台に連れて行って横たえる。  黄金の天蓋、宝石を散りばめた調度のこの部屋、けれどそれより、当然のように従者たちを下がらせてフェリシアの薄絹を解いてしまったこの男のことは、今になって問うのは遅すぎた。 「後宮は人目につくからな。もう少し待て。居心地のいい籠を今、作らせているから」  男はフェリシアのあらわになった肩から乳房、腰に手を滑らせて、また頬を撫でた。 「俺が怖いか」  震えるフェリシアを宥めるように、男は言葉を続けた。 「怖がるといい。痛みもあるかもしれない。長い夜にもなる。目覚める頃には鳥籠の中だ」  男は、この国の王は言葉とは裏腹にフェリシアの唇を優しく食んで、自分の体を重ねた。 「……大切にしよう。俺を愛してくれ、フェリシア」  フェリシアは目を閉じて、自分の中に入って来る体を、今は痛みと拒絶を持って受け止めていた。  その後、寵姫フェリシアと呼ばれるようになった少女の姿を見た者はほとんどいない。  けれど王は近しい者を連れ、時々彼女と思われるベールをまとった女性を連れ出したという。  小鳥のさえずりのような彼女の笑い声は、彼女を閉じた世界に入れた男だけに注がれていた。
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