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「はー疲れた」
「それな」
「俺お腹すいた」
制服が乱れるのも気にせず、部活終わりの静かな部室に3人は寝転んでいた。グラウンドからはラグビー部の逞しい声が聞こえる。外は夕日で赤くなりかけていた。
「今日はコンビニ寄る?俺サラダチキン買いに行きたいんだけど」
寝そべったままAが主張すれば、隣のBとCも同意する。とはいえBとCが欲するのはサラダチキンではなく甘物だった。将棋などという脳内格闘技を毎週一、二時間続けてそれなりに慣れたとはいえど、まだまだ三人とも高校一年生。体のためにも頭のためにも、しっかりとした糖分摂取が必要だ。
先輩方が先に帰った部室で窓の鍵の確認などをしていると、不意に振動音が響いて3人の視線が一点に集まる。そこにあったのは一台のスマホだった。しかし一年生三人のものではない。
「先輩が忘れたのかな」
「だろうな。けどこのスマホケースは見たことないな」
「少なくともD先輩のじゃないよ。こないだ見たのと違うし」
茶色いシックな手帳型スマホケースで、インテリな将棋部の上級生にはよく似合うだろう。そして二年生の三人は三人とも頭が良いから、インテリなどという印象だけで誰のものか絞ることはできない。
Bは少し小ぶりなそれに手を伸ばして、とりあえず開いてみる。ロック画面は初期設定のままで、暗証番号は四桁。適当に打ち込めば、当然跳ね除けられた。
「ちょっと」
成り行きを見ていた一応常識人のCが抗議の声をかけるが、本気で止めようとはしなかった。なんだかんだ、彼も好奇心には打ち勝てないらしい。
「四桁なら誕生日とかどうだ?E先輩の誕生日は先月だよな」
「15日だっけ」
「うん」
Bが先月十五日の日付を打ち込むと、スマホのロックは簡単に外れた。拍子抜けするほど簡単に開いた先には、かなりの量書き込まれた文字の羅列が見えた。
「なにこれ、小説?」
「E先輩、小説とか書くのか」
二人の話を聞きながら、ちゃっかり画面を覗き込んでいたCは「小説じゃないよ」と口を挟む。
「日付書いてるし、日記だと思う」
Bからスマホを受け取って、Cは画面をスクロールする。すっかり好奇心のままに行動しているCの珍しい姿に、AとBは密かに笑っていた。
「『n月m日
疲れた。やってらんない。ふざけんな。』
……これ本当にE先輩のスマホ?」
「先輩実は口悪かったのかな」
優秀な二年生たちの間でも特に完璧なほどなんでもこなすE先輩が、『ふざけんな』とは。三人はますます面白くなってきて、さらに日記を読み進める。
『n月p日
テスト前の体調不良は毎度のことながらしんどい。特に今日は三重苦どころか四重苦でやってられない。第一に右足の小指と薬指の間のあたりが痒い。おそらく数年前から放置した水虫が悪化しているのであろう、イヤな感じの膨れ物ができて、痛かったり痒かったり、ここ一週間は特に痒い。今週末に母と皮膚科に行く予定をしており、何週か前から水虫の薬も塗るようになったが、よくなったとはまだまだ言えない』
「あのE先輩が水虫!?」
「先輩の足に住み着ける水虫菌は豪胆だね」
同輩であれ後輩であれ容赦なく攻め立てる先輩の手法を思い出して、他の二人もしみじみと頷く。よっぽどの根性がなければ、あのポーカーフェイスが常みたいな先輩の足に住まう気にはならないだろう。
『次に、口内炎。これは今朝方に気づいた。口の中のいろんなところが、いつのまにか炎症を起こしていたのだろうか、とても痛いというよりは微妙に痛い。朝よりはマシになったような気がするが、まだ下唇の裏あたりが、舌で触るとひりひりする』
「そういえば今日の先輩いつもより静かだったな」
ガサツに見えて観察眼の鋭いAが思い出してつぶやく。普段から口数の少ない先輩が一層無口になって指す将棋は、いつも以上に気迫があったが、まさか口内炎のせいだったとは。
「ねえコレ後で怒られるんじゃない?」
「Bが開けたんだろ」
「僕らは知らないよ」
「アンタらねぇ」
軽口を叩きながらもどうせ共犯であることに変わりはない三人は、そのまま日記の続きを読み進めた。
『次に、左足の付け根。朝はたいして痛くもなかったのだが、のちにだんだん痛くなってきて、動かすと鈍痛、立っているだけでもちょっと痛い。筋肉に異常でもあるのだろうか?筋肉痛っぽい痛みだったのだが、体育の授業で悪化した可能性もある。明日は大丈夫かと心配している。今日は月曜日で、木曜日からテストなのだ。勉強してない身として、体ぐらいは健康でいたかった』
「勉強してないとか嘘だろ」
「それな」
「本当だと思うけどな。わざわざ日記に嘘書かないでしょ」
もしくは二時間程度では『勉強』と呼ばないのか。なんにせよ、本人がたいして勉強をしていないと思っていることは確実だ。それで良い点を取れるのだから、やはり先輩方は賢いと後輩たちは改めて思う。
「てか『勉強してない身として体ぐらいは健康で』って何?どういう理論?」
「さあ?賢い人の言うことはよくわからないよ」
「クラストップのお前に言われたくはないんだけど」
日記にはまだまだ続きがあった。
『最後に、睡眠不足。これは慢性的なまである、先週から続く症状だ。なんだかやたらと眠れなくて、先週末は2時まで起きていた日が2日間もあった。週末も大した用事はなかったが、よく考えたら6時間半も寝てはいなかった。今朝も、5時間は寝たつもりでいるというのに、起きたら徹夜したかのような体調だった。具体的には、心拍数が普段より遅く、体温が36.2℃だった。最近の平熱は確実に36.4℃以上はあったので、こんなに低いことはとても久しぶりである。(こういう数字で比較するところは理系っぽいんだな、とAがつぶやいた。)その上頭はぼうっとしていて、四肢が冷たかった。(四肢って言葉使う高校生いる?とBがぼそりとこぼした。)ちゃんと布団をかぶって寝なかった所為だと言われてはぐうの音も出ない。事実、昨晩は窓を網戸にしたままで、起きた時には寒くて布団は被り切っておらず、夢も見たからきっと眠りが浅かった。もう少しどうにかならないかと自分でも一応思っているのだがどうも、なんとも、こんなではどうにもならず、幸い三時間目の体育で動き回って少々回復したが、午後は寝ることもなく、筆圧が薄いのは軽いボールペンでカバーして、なんとかどうにかなった。(筆圧が薄いって何、とCは言おうかと思ったが、これも文学的表現の一種か疲労によるものかと思って黙っていた。)ただし、どうも考えなしに食べたものを呑み込んでしまいそうになっているらしいから、自分がどれだけ噛んだのか、食材は呑んでいい状態にあるのかちゃんと確認して呑みこみたい。昼ごはんのおにぎりが喉に詰まりそうだった。』
「心配になってきたんだけど先輩」
「同感」
神妙な面持ちをした後輩たちが口々に言う。Aは、
「おにぎりを詰まらせるほどの寝不足って何だ」
と健康優良児らしいもっともな意見をこぼした。
「それは僕も経験したことあるけど」
「あるんだ」
「あるんだな」
「まあ、慢性的な寝不足ってところは気になるかな。寝不足をカフェインで誤魔化しても寿命を縮めることにしかならないし」
信頼できる情報源Cからの情報に、Bは同性として、また先輩方を邪気なく慕うかわいい後輩として、何か労ってあげられないかと一瞬思う。Eもまったく罪な先輩だ。もっとも、Bはほんの一瞬思っただけで、次の瞬間には他人のことなどどうでもよくなるのだけれど。
「それ最新の日記?」
「そうっぽい。日付を見るに、不定期更新で書いてる日記みたいだね」
「俺らが初試合した日の日記とかないの?」
ちょっと待って、とすぐに検索画面から5月に飛んで、Cは手際よく日記を探していく。いつのまにかラグビー部の逞しい声も止んでいて、完全下校15分前のチャイムが鳴るまで数分というところだった。
Cに日記を探すのを任せて、途中だった片付けや戸締りを急いで済ませて、AとBは畳の敷かれた部室の真ん中に戻る。一年生たちと二年生との初試合の日。その日の日記は短かった。
『今日は朝から機嫌が良かった。ノートに、朝から綺麗なチューリップを見たと書いた。鳥の鳴き声も、まるで歌っているかのようだった。私の気分一つで、周りに対する認識は変わるらしい。
今は別のことでも機嫌がいい。部活の同輩との試合が、久々にとても楽しかったのだ。初々しくも駒の打ち方など知らない後輩たちを前にして、火がついたらしく珍しく本気で籠城しようとするFを崩すのはそれはそれは楽しかった。最終的に負けたけれど、見学していた一年生にこの楽しさが伝わったとは思えないけれど、しかし、その試合の間は、楽しければなんでもいいような気さえした。
近頃は課題が減って暇になった一方で、忙しくもなっている。原因はもちろん将棋部のことだ。学年が上がって、副部長にもなって、毎日に前より重みがある。部長のFはすでに文化祭のことも考えているようだ。後輩ができたおかげで、FやDにまで良い影響が現れるとは思ってもみなかった。何も知らない後輩たちに感謝である』
読み終えた一年生たちは、皆一様に不満を顔に表した。
「私らのことなんにも書いてないじゃん」
「眼中にもなかったってことかよ」
「結構いい試合できたと思ってたのに、僕の一方通行だったわけ?」
即座にその場で電源を切られたスマホは元通りの位置に戻され、周到にティッシュで手垢を取るなど証拠も隠滅されてすっからかんの部室から、三人はぐちぐちと文句を垂れつつ帰宅路へ出た。道はすっかり暗くて、運動部たちもわらわらと同じ道を歩いていく。
「てか先輩ら仲良さそうとは思ってたけど、本当に仲良かったんだね。同輩の楽しそうな様子が見れて後輩に感謝するって、超大好きじゃん」
「それも後輩との試合を忘れるくらい同級生との試合が楽しかったってことだろうし、よっぽどだよね」
コンビニで買った菓子パンとドーナツを頬張りながら、甘い物好きの二人は仲良く先輩の異常性について議論した。一歩下がったところでサラダチキンを噛みちぎっては、能天気な頭で会話を聞いていたAはきょとんとした顔で言い放つ。
「俺らも来年にはあれくらい仲良くなるだろう?」
汚れや偽りなき眼にまっすぐ見つめられ、BとCは静かに苦笑して、
「そうなれるといいかもね」
「僕は今のままで十分だけど」
と小さな声で答えた。街角のまぶしいコンビニの前を、少年少女たちの影が三本、互いに寄り添うように通り過ぎていった。
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