エピソード0

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エピソード0

——朝。 朝は嫌い。 カーテンの隙間から太陽のプリズムが 部屋中、何もかもを鮮明にする。 考えたくない、 天井を見上げる。今日は揺れてないな。 状態を軽く起こして、煙草に火をつける。 窓を5センチほど開き、差し込む光に キラキラとうねって舞い上がる煙を見つめる。 古びた換気扇の音、鳥の囀り。 自動車教習所の話し声、車。バイク。 子供達の話し声。通学だろうか。 今は何曜日だっけ。 朝は嫌いだ。 他人の生活が、近くにある。 煙草の火を消す。 ハア、と天井を見上げて数秒 ベッドから起き上がる。 鏡の前で、髪を軽く整える。 自分の顔。腫れぼったくて醜い。 冷蔵庫からルイボスティーをコップに注ぎ、 一気に飲み干す。 寝巻きのTシャツに短めのランニングパンツ、 それに薄手のグレーのパーカーを羽織って 財布と携帯電話をポケットに突っ込み、 ワンルームの部屋から外への扉を開ける。 ——眩しい。 吐きそう、眩暈。 これだから朝は嫌いだ。 徒歩30秒ほどのコンビニへ行くのも億劫。 ドアを開ける。 冷たい空気。 冬の空気の美味しさだけは好き。 アパートの間の抜け道を通れば、 人に会うことは基本的にはない。 なによりも近道だ。 コンビニ。 カットりんご、百二十円。 チョコ菓子。缶のカフェオレを二本と、 セブンスターをボックスで二箱。 足早に帰宅し、シャワー。 (風呂は命の洗濯って、誰か言ってた。 誰だっけ。) そんなことを考えながら、 体の外側の毒を洗い流す様に。 ———橋本衣織。 22歳、細身のスレンダーな体型。 田舎の飲み屋街のキャバクラで働いている。 出勤時間まで、残り1時間。 送迎が30分前にはアパートの前に到着する為、 急いで身支度をする。 LINEが鳴る。 小さなショルダーバッグを肩にかけ、 5cmのヒールを突っかける。 お願いします、と小さく会釈をして 家の脇に停車するアルフォードに乗り込んだ。 衣織は大学を留年し、現在休学中である。 大学の為に親元を離れて一人暮らしを始め、 奨学金を受けて通っていたが、 結局はろくに学校にも行かずに 酒とパチンコと性に塗れた学生生活であった。 入学当初、 衣織は大学の女の子達にはあまり馴染めず、 男友達と授業をサボって喫煙所に溜まったり、 パチンコを打ちに行くことが多かった。 衣織は大学の中では有名な方だった。 金髪、ピアス、 身の丈に合わないブランド品。 大学デビュー、という言葉はよく耳にするが、 そんな感じだったのかもしれない。 高校まで、衣織はなんでも親の言う通りに 過ごしてきた。 三世帯が住む、歴史のある古い厳格な家。 裕福ではなかった。 門限や規則は厳しかった。 新しいゲーム機を買ってもらえる友達、 グループのお泊まりに参加できないこと、 暗くなる前には帰ること。 当時は理解できないこともあったが、 自分を守るための両親の愛であったと、 今では分かる。 小学校、中学校とそこそこの成績、 高校は親に勧められた地域の進学校。 大学も親に指定された様に、国公立大学に。 所謂Fラン大学ではあるが、 なんとか滑り止めで合格した。 地元を離れたかった衣織は、 県内の大学は一切受けなかった。 初めて遠く実家を離れる時、 海を越えるにも関わらず、 両親揃って車で新居に荷物を運んでくれた。 電化製品、寝具や生活雑貨を揃え、 1週間ほどの食材で新品の冷蔵庫が潤った。 最後に挨拶を交わし、衣織は1人見送った。 普段はチャランポランな父の、 初めての涙を見た。 一人暮らし。 自分にはもう、 門限も、監視もない。 朝起こされることもない。 寝なさいと叱られることもない。 ご飯を食べなさい。勉強しなさい。 スマホばかりいじるのをやめなさい。 そんなことを命令する人達はもう居ない。 ギャンブルは絶対にするな。 水商売だけはするんじゃない。 ドラッグなんてやったら縁を切るぞ。 整形なんてくだらない。 自分の体は傷つけるな。 タトゥーは絶対に入れるな。 父の言葉。 忘れたわけじゃない。 ごめんなさい。 私は、もう、 家族に嘘をついてばかりいる。  
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