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4
例の撮影現場のある国と日本では、一、二時間の時差があるが、今が夜である事には変わりがない。
カスミは、例によって喫茶「舞」で、ぼんやりと時を過ごしていた。
途中、水谷草太が夕食を取りに店に降りてきたが、準備中の店内は静かだった。
「巧の奴、どうもこれの現場への潜入に成功したらしい」
双子の兄の葉太に、刑事の草太が切り出し、その最低限の情報の資料を見せて相談していた。
「へえ、その件は、中々潜入できなくて、対策を練り直していたんじゃなかったのか?」
「ああ。どんな手を使ったのやら。まさか、下手な変装で逆に返り討ちになりかかってるんじゃないかって、不安なんだ」
興味のない話には全く乗ってこないカスミに葉太は夕食を出し、弟の相手をしていたがふと気づいて声をかけた。
「旦那」
「ん?」
「電話、鳴ってます」
マナーモードに設定していた電話が、わずかに震えているのに気づき、カスミも軽く答えて食後のコーヒーのカップを置き、携帯電話を取り出した。
最近の携帯電話は色々な機能が付き、その割に持ち歩きやすくなっているが、たいていの機能はカスミには必要ではない。
だから、昔ながらのメールと電話の機能しか付いていないが、デザインはポケットに入れていても気づかれないほどコンパクトなものだ。
「はい」
かけてくる人物も限られているため、名乗らずに電話に出るとやんわりとした声が答えた。
「今晩は、カスミちゃん」
「受信は良好のようだな」
「ええ。お陰様で。趣味とはいえ、よくこんな通信方法を考えたわね」
「暇なんだ」
電話の相手がいるところは、まだ通信機器が整っていない、辺境の地だ。
電波上の犯罪行為にならぬように考慮し、カスミは独自の方法で空気上のまだ知られていない、微細な電波を使用する通信機を作ったのだ。
これなら、どこの組織にも盗聴される心配はないし、逆にどこかの盗聴をすることも出来ない。
自分たちと同類の人間なら別だが、関係者のリストを見る限りではそれが出来そうなのは三人くらいだ。
「全員、無事に現場に到着したわ」
「そうか」
「それから、予定が少し変わって、撮影の準備が始まったわ」
「ほう」
「それほど動きに支障をきたすとも思えないけど、レンちゃんは、こちらに来ているのよね?」
「間違いない」
「じゃあ、キョウちゃんは?」
「ん?」
「実はね……」
ロンは話しながら、どこかに顔を向けているようだ。
「今日、先に現地入りしたヒスイちゃんが、気になる話を持ってきたの」
名のある格闘家だった二人の男を、たった一人で打ち負かした若者の話だ。
それをやってのけたのが、動けないと高をくくっていた金髪の若者だったと聞き、ロンは眉を寄せた。
「だって、やりそうでしょ? 一度大きく動いておいて、後は殆んど動かないで高みの見物しながら報酬を得る、なんてことを?」
「しかし、鏡月はそれ以上に面倒臭がりだぞ。聞いたところでは、その男は片腕が利かないそうじゃないか。その時は使っていたのか?」
「報告にはなかったらしいから、何とも言えないけど……驚いて、両手使ったことに気付かなかったのかも」
ロンや今その傍に集っている面々ならそんな心配はないが、報告者はそこまで見る必要を感じていなかったかもしれない。
カスミは、警戒を強めている気配の幼馴染に答えた。
「鏡月の知り合いに、昔から懇意にしている金持ちがいるのだが、その家の顧問弁護士の娘が今臨月でな。出産が間近なのに突然姿を消してしまったと、慌てて周囲に協力を仰いで探しているらしい」
「じゃあ、レンちゃんがあの子を引き入れた可能性はゼロではないのね?」
「そうなるな。中々、面白い展開になったな」
「傍から見れば、そうでしょうね」
大真面目に言うカスミの性格を知るロンはそう返し、改めて問いかけた。
「そちらは、何も変わりはない?」
暗に何か別なことを問いかけている質問に、カスミは思わず笑みをこぼしながら答える。
「何の変りもない」
「そう……」
僅かに落胆の色を滲ませる声に、カスミは更に笑みを濃くしながら言った。
「こちらのことは私に任せて、そちらに専念しろ。気を抜くと、どんな返しを受けるかわからん相手だ」
「ええ、分かってるわ。じゃあ、お休みなさい」
「お休み」
電話を切って、カスミは黙りこくって顔を伏せた。
幼馴染で親友でもあるロンが、今どんな心境で電話を切ったのか、想像できる。
いつもなら、カスミに任せてしまった事がどんなに面倒なことになっていても、呆れるくらいで済ませる。
むしろ、手ごたえができると笑う余裕も見せるくらいだ。
だが、今回任されたというか、カスミが引き受けたのは、あの男にとって女房と天秤にかけて同等の重みを持つ者の安否の確認だった。
まだそれが出来ていないと知ったロンの今の心境を思うと、カスミも平常ではいられなかった。
黙ったまま小さく体を震わせる客の男に、草太は戸惑いの色を浮かべて兄を見た。
葉太は小さくため息をついてから、呼びかける。
「旦那」
その声には呆れが滲んでいる。
「我々以外、誰もいないんですから。大っぴらに笑ったらどうですか?」
「そこまで人非人では、ないつもりなんだが」
「そこまででも充分ですよ。だって、探してもいないんでしょう?」
話の見えない弟に構わずに返す男を見上げ、カスミは目を細めた。
「その必要がないのを分かっていて、そんなことを言うお前も、相当人が悪いぞ」
ちょうど空になっていた弟の夕食の器を片付け、コーヒーを淹れている葉太を見守りながら、男は続けた。
「お前が口封じされてなければ、ここまで他人ごとにはしていないんだがな」
「何を言っているんですか。オレは、逆に意外でしたよ」
何の話かは分からないが、尋常な話ではないと気づき、聞かぬふりをしている草太の横で、カスミはマスターの落ち着いた笑顔を見上げる。
「あなたが本当に引いて全く動かないなんて。引くと言っておいて、全く別な立場から高みの見物、と言うのがいつものあなたの行動だと、思っていましたが?」
「その特等席なら、すでに獲得済みなのだ」
「そうだったんですか」
目を見張る男を面白く見ながら、カスミは説明した。
「仕事の休みの日が、どうも暇でな。今では労働時間が細かく規定されているだろう? 休暇のない時期が多かった分、何かやっていないと落ち着かなくてな。ま、貧乏性、だな」
「はあ」
「面白い情報はないかと何気なくあの大富豪を調べていたら、たまたま裏の顔を見つけた」
息子一人と娘二人を持つ、世間では家族思いの恰幅のいい男として知られていた、大富豪。
だが、見る者が見れば、一目でそれと分かる裏の顔があった。
「娘の一人と接触して、間違いないと分かったから遊ばせてもらったのだが、今度は後を継いだ娘の方がオリジナルの遊びを作ってしまったのだ」
「それが今回の仕事の発端、ですか?」
「そうなのだ」
ローラは素直な女だった。
父親がやっていた事を教え、全く別な発想を植え付けてやると、すぐに染まった。
その上、悪くない頭脳の持ち主だけに、オリジナルの遊びまで見つけてしまった。
カスミとしては、大富豪の男を遊び道具とみなして、娘を利用しただけなので、これは予想外だったのだ。
「ヒスイの相談にかこつけて、清算してしまおうと思っているのだ」
「これはまさしく、あの人の大嫌いな、旦那の尻拭い、だったんですね」
呆れ顔での指摘に、カスミは堪え切れなくなって、声を立てて笑った。
そう、向こうも気づいているはずだ。
葉太を使った遠回しな脅しでカスミを引かせても、それは表向きだけのものだということも。
だからこそ、何かしらのカムフラージュをしているのだ。
「ようやく、鏡月が絡んでいる可能性を、疑い始めたらしい」
「そうですか」
笑った顔を見上げて、カスミは感心して見せた。
「よく耐えたものだな。あの三人の悪巧みの計画を、黙って見ているだけなのは、私でも難しいというのに」
「あなたの場合は、別な意味で、黙っていないだけでしょう」
もう付き合いの永いマスターが軽く返し、コーヒーを淹れ直したカップをカスミの前に置く。
「今回も、黙っている気はないがな」
コーヒーの香りを楽しみながら、男は大真面目に答えた。
「選抜された役者たちがな、面白い事を気づかせてくれた」
「え?」
「男どもは、これから起こることに備えた人選だろうが……」
カスミの顔がさらに真顔になったが、それは笑いをこらえ過ぎて厳しくなっているだけだった。
「セイはな、ついこの間までの三年間、全くこの手の仕事に関わっていなかった。だから、どこかにムラがあると思っていたのだが……三年のブランクは、侮れないものだな。とんでもないところに、それが出てしまっていたぞ」
だから、映画撮影の真似事をするとローラから聞いて、カスミは脚本の大部分を書き換えた。
「反応次第では、ロンたちも気づくだろう。レンが現場にいるか否かどころか、あの三人がどういう役割でそこにいるのかもな。その後諦めるか、無駄な足掻きをするかは、決定権を持つ者次第だな」
相槌を打つにも、どう打つか判断に迷っている双子の男たちに笑いながら、カスミはコーヒーを飲み干し立ち上がった。
「ありがとうございました」
葉太はきちんと勘定を払って店を出る男の背にそう投げかけ、ドアが閉められるのを待って溜息を吐く。
諦めを含んだ溜息だ。
人間は自然死が一番、と主張しているあの男は、その主張を覆す類の犯罪に対してのしっぺ返しを趣味としている。
あの男を知る多くの者は、それは建前の理由であると断じているが、葉太はそれほどひどい人とは思っていない。
その主張が先に立ち動いている間に、どんどん楽しくなって歯止めが利かなくなり、結局大事になってしまって本来の主張は白々しく聞こえる代物になっているだけだ。
「なあ、さっき、話に出た、レンって人は? どんな人なんだ?」
全く別なことを考えていた草太が、慎重に問いかけた。
「オレもこの間、初めて会ったんだが、妙に若い容姿の、小柄な人だ」
「……」
黙ってしまった弟の反応に、葉太は問い返した。
「知っているのか?」
「ああ。会ったこともある。市原さんの紹介で」
それどころか、仕事も手伝ってもらったことがある。
一つ年上の市原刑事の知り合いとして紹介されたその若者は、十代前半にも見える童顔と小柄な体格で、強面で大柄な市原と並ぶと親子にも見えた。
だが、市原の所轄内での事件の捜査で、その能力は舌を巻くものだと理解した。
「その人、勘が恐ろしく鋭いんだ。聞き込みに同行して怪しいと踏んだ人物の名を、市原さんに耳打ちしてた。後の地道な捜査はオレたちの仕事だが、一人に容疑者が絞れるのはありがたい話だ」
偶然の産物だと言いきれれば、その程度の感想で終わったのだが、草太の所轄内の事件の捜査でも鉢合わせしたことがある。
その時は、市原の女房の手伝いで犯人を追っていたそうだが、若者はその時犯人の共犯と思われていた人物をマークして、決定的な証拠を攫むために犯人と接触するのを待っていたらしい。
「警察の粘りは大したもんだ、と褒められた」
幼い容姿とは裏腹の、包容力のある笑顔で言われ、どんな感情よりもまず単純に照れてしまった。
「市原さんもかなり実力ある刑事なんだが、その市原さんが信用している程だから、勘が鋭いだけの人でもないんだろう」
「旦那の言い方からしても、見た目通りの人じゃないようだな」
葉太も先日知り合ったばかりの若者を思い浮かべ、頷いた。
全く別な経由で、自分たち兄弟は他の二人の事も知っている。
恐ろしく目が良く、先々を考えてどんな動きにも冷静に対処することを考えられるセイ。
聴覚と嗅覚に優れ、どう動くか分からない俊敏さを持つ、鏡月。
そして、小柄ながら抜群の勘と行動力を持つ、蓮。
今回、その三人の計画の綻びを、カスミは見つけたという。
しかも、セイの、ブランクのせいで起こったムラ、だという。
ごく僅かなその綻びを、カスミはどう利用するつもりなのか。
葉太はそこまで考えて、小さく笑った。
「最悪なことにはならないとは思うが、怒るだろうな。約二名」
「……だよな」
同意した草太は、天井を仰いだ。
聞いていないことにするにも少々無理があるが、ここ以外で誰に話せるというのか。
自分にそう言い聞かせ、水谷兄弟は何とか己を納得させた。
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