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市原家にその電話がかかってきたのは、夕食時を終えて幼い子供たちを寝かしつけて、ようやく一息ついたころだった。
久し振りの非番で、共働きの妻が食器を洗っている間にそれをやり遂げ、市原葵が畳部屋に寝そべった時に、固定電話が鳴り響いた。
手を洗って慌てて電話に出た妻の朱里が、受話器からの声を聞いた途端、彼女らしからぬ声を上げた。
「お兄様っ、今、どちらなんですか?」
おっとり型の妻がここまで驚くのは珍しいが、その呼びかけに葵も身を起こした。
朱里には兄と呼ぶ人物が三人いるが、その内の二人とここ一週間連絡がつかずにいたのだ。
彼らの事だから大丈夫だとは思うが、連絡が全くない時期がここまで続くことは初めてだったので、夫婦共々気にしていたのだった。
電話の傍に四つん這いで近づいた強面の大柄な夫に、正座して相手の言葉を聞いていた朱里が言った。
「蓮お兄様から。今、国外にいるそうよ」
「国外? 何だってそんな……」
日本国内での仕事を主に取り扱っているはずだと知る葵は首を傾げ、すぐにはっとして顔を強張らせた。
「まさか、また何か、失態を犯しちまったんじゃあ……」
国外イコール逃亡、そんな図式が頭をよぎった夫の叫びに、朱里がおっとりと笑った。
「お兄様がそこまで追いつめられる失敗なんか、するはずないわ」
いかに信頼されているかわかる言葉だが、葵は厳しい顔で首を振った。
「甘い。あのな、あいつは一度キレたらどんなお偉い人相手でも、引きやしねえんだ。何か意に添わねえ事を言われて意見した挙句一悶着あって、命を狙われちまったからやむを得ず国外に逃げてんだっ。オレらに火の粉が降りかからねえようにと、今まで連絡を取らなかったんだ。そうに決まってるっ」
「……お前、そんな昔の事を、よく恥ずかしげもなく引き出せたもんだな」
拳を握って力説していた葵に冷ややかな声をかけたのは、電話の受話器越しの若い声だった。
「気がすんだなら、説明するぞ。あまり時間がねえんだ」
「何だ? 国外逃亡以外に、国を出る理由があるのか?」
「仕事でって考えはねえのか、この馬鹿は」
「お前に限ってはねえだろ? 外国語、読めねえんだから」
「話せねえわけじゃねえし」
「って、本当に、仕事かよっ?」
「お前、オレをそこまで馬鹿だと思ってたのか。自分の馬鹿さ加減を棚に上げて、大したもんだな」
素直な驚きに、何百倍の棘付きで返すと、蓮はこれからの予定を告げた。
「しばらくそっちに戻れそうにねえんで、一応連絡を入れとこうと思ったんだ」
「しばらくって、どの位だ?」
「そうだな……永くて二か月、短くて一か月。相手次第だ」
「では、年末には戻れるんですね?」
「ああ」
念を押した朱里が安心し、受話器を夫に手渡した。
「そんなに難しい仕事なのか?」
「ああ。何せ、あの赤毛のおっさんが持ってきた仕事だからな」
蓮は答え、今回の仕事の内容を許せる範囲内で葵に話した。
「……ヒスイさんか。あの人はどうしても、お前を見た目相応の子供としか、見れねえみてえだな」
「あの人の気持ちなんざ、全く分からねえが、血迷いそうなあの人を止めるのも、一応オレの務めだろ?」
「そうだなあ」
答えながら、自分の所はと考えた。
今や二児の父親となった葵の心配事と言えば、長子で長女に当たる子供が外見に似合わぬような怪力に目覚めてしまい、これでは嫁に取ってくれる男がいないのでは、と言うくらいだ。
小学生になって間もなく、どう考えても自分の方からの遺伝の力を発揮し始めた娘に頭を抱えた大男に、セイはあっさりと言ったものだった。
「どうしても貰い手がつかないなら、今度こそ蓮に盥を回せばいい」
犬猫の事を話すように言うセイは、半分血がつながっている朱里を預かった時、いずれは蓮と、と考えていたらしいから、外見が母親に似た娘の嫁ぎ先を第一に蓮へと向けたらしいが、朱里が選んだ自分も朱里の父親も大柄の強面で、蓮とは全く似ても似つかない。
好みまで遺伝するかは分からないが、こちらは母親の方に似てしまっているかもしれない。
それに、葵は知っていた。
蓮が本当に心から愛し、今でも思い続けている女を。
今後再会したとしても、昔幼かった女の成長と、自分の体形や年齢の差を考え、その気持ちを押し隠してしまい、ごく普通に接してしまうのだろうが、その思いは全く揺らいでいないと、元相棒だった葵は思っている。
「ま、そういう事だから、暫く連絡出来ねえが、心配するな」
「分かったけどよ……始が、半狂乱でお前を探してるぜ」
「……誰だ、そりゃあ?」
こちらでの出来事を口にすると、蓮は暫くの沈黙の後問いかけた。
その声は若干冷たい。
その気持ちは分かる葵が、苦笑して宥めた。
「少し前に会ったけどよ、あいつ、心底反省してるぜ。それに、仕方ねえだろ。あいつは、速戦型で、長々と体力づくりするタイプじゃなかった」
「別に気にしてねえよ。人が忙しい合間を縫って鍛えてやってたってのに、家を継ぐとか何とか言い訳して姿を消した上に、家に戻らずどこかの国の女孕ませて困っているような奴なんざ、今の今まで忘れてたぜっ」
忘れていたにしては、詳しく並べて吐き捨てた蓮に、苦笑したまま葵が頷いた。
「よく知ってるじゃねえか。その、生まれたガキを預かって欲しいらしい」
「冗談じゃねえ、他を当たらせろ」
「そう言ってその時は帰したんだけどよ。どうもあいつ、弟が家出しちまったらしくて、それを探すために一時身軽になりてえらしい。エンに頼むとしたって、結局お前が絡んじまうし、高野の方に頼もうにも、無理みてえだし」
蓮はこうして連絡をくれたが、他にも音信がない者がいた。
「最近、セイとの連絡は途絶えがちなんだと。上野さんの所は、それこそ半狂乱だぜ。カガミさんが、どこにも見当たらねえって」
「そうか。そういう事なら、あの人にも連絡するよう言っとく。一定の目星がつくまでは、周囲への連絡は控えてたんだ」
「一緒なのか? カガミさんも?」
「ああ」
鏡月、と言う法名にありそうな本名の若者は、その頭文字の漢字の読みで呼ばれる。
葵と蓮とでは呼び方が違うが、違和感なく話は通じるのだった。
「それとも、お前が上野さんに知らせてくれるか?」
「いくら面倒だからと言って、伝言で済まさせる気か? どんだけ、あの人が心配しているか……」
「分かった。連絡するよう伝える」
「しかし、カガミさんも一緒か。気をつけろよ」
「ああ。絶対あの人の思い通りにはさせねえ」
やりすぎる方を心配しているのだが、葵は聞き流して言った。
「帰る日が決まったら、教えてくれ」
「ああ」
短いやり取りをして話を終え電話を切った葵は、受話器を戻しながらふと思い当たった。
「なあ、朱里」
すでに家事に戻っていた朱里が振り返る。
「なあに?」
「蓮の声、妙に小さくなかったか?」
いつもは怒鳴る場面でも、何故か控えめに済ませていたような気がする。
「そういえば、混線しているようでもなかったのに、いつもより小さかったような……」
まさか、と葵は思い当たり、溜息を吐いた。
意識して声を潜めて話す必要のある場所での、電話連絡。
仕事中でそんな場所にいるとすると、どこかで誰かの会話を盗み聞ぎしている最中、と言う事だ。
どう考えても、普通は息を殺して注意するべき場所だった。
いくらこちらが心配していると気にしてくれたからと言って、そんな場所からの連絡は期待していなかった。
むしろ、もう少し弁えろと言いたい気分だ。
呆れはしたが、蓮の声には呑気な響きがあり、緊迫する状況でもないようだった。
一人納得した葵は、再び寝転がった。
何にせよ、時差ボケを心配するほどこちらと時差のある国ではないらしい。
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