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東辰巳と名乗る男が、喫茶店「舞」に到着したのは、夕方だった。
現在は差し迫った仕事がなく、もう少し早く着いても良かったのだが、昨日から気になることがあり、今日も未練たらしく町中を探索していて、この時間になってしまった。
未だ、後ろ髪引かれる思いで友人たちとの待ち合わせ場所である喫茶店の、「準備中」の札の下がったドアを開けると、見渡せる広さのカウンター内の男と、カウンター席の男が同時に振り返った。
カウンター内の男、水谷葉太がにこやかに声を掛ける。
「いらっしゃいませ」
「……」
何やら違和感を感じ、東は無言で会釈してカウンター席に近づいた。
それを見守っていた、葉太の双子の弟、草太が振り返った姿勢を戻しながら声を掛けた。
「どうしました?」
「いや、今、一瞬、お二人が同じ人間に見えてしまって。分身の術、初体験かと思っただけです」
東よりは小柄だが、長身の童顔な男がその言葉に目を丸くした。
「分身の術、見たことないんですか? あなた方なら、やれそうな気もするのに」
苦笑する小麦色の肌の大柄な美男子の東に、席を勧める仕草をした葉太が、弟を窘める。
「そんなはずあるわけないだろ。そんな虚ろな存在を作るより、この人たちはクローンの一人位持っていそうだ」
「どういう認識ですか」
そんな技術も持ち合わせていない東は即座に否定してから、コーヒーを注文した。
「はい、いつものですね」
葉太は笑顔で受けて付け加えた。
「何なら、夕食も召し上がって行きますか?」
「いや、今日はこの後、家に戻る予定で……」
「じゃあ、持ち帰りで奥さんの分と持って帰ったらどうです? この後夕飯作るの、面倒でしょ?」
「そうですね、お願いします」
また苦笑して答え、席に腰を落ち着けた男の隣で、草太は兄の手作りパスタを豪快にかき込んでいる。
東が妻持ちで、その妻が病弱で殆んど家事をこなせないと知る水谷兄弟の気遣いをありがたく受け、出されたコーヒーの香りを無言で楽しんでいると、夕食を終えて紅茶を啜っていた草太が、不意に問いかけた。
「巧を見ませんでしたか?」
問いは東に向けていたが、カウンター席の男ももう一人の客と顔を見合わせた。
「河原さんが、どうかしたんですか?」
「先週から休み取ったまま、出て来ないんです」
河原巧は、草太の後輩である。
都会に就職した後、なぜか故郷のこの地に戻った草太も、その後輩の巧も、出世組の刑事だったが、数年の警視庁勤めの後、あっさりと都会の出世の道を捨ててしまった。
そして、現地の刑事たちに交じって地道な調査や、事件を追いかけている。
「何か、気になる事案でも、あったのでは?」
時々、気になる企業や団体に命がけで潜入し、犯罪者の摘発に一役買っているのを知る東の言い分に、草太は首を振った。
「今の所、そこまで詰めた事例はないんです。もう少し確定したものなら、それもあるんですが」
溜息をついた刑事の心配は、別な所にあった。
「もしかしたら、また、あの病気が発症したのではと……」
「病気?」
「こらこら、あれを病気って言い切ってもいいもんか?」
真面目な弟の言葉に葉太は苦笑してから、東に説明した。
「いや、あいつ、時々精神状態が不安定になるんですよ」
「複雑な家庭に生まれたもんだから、元々ぐれ気味だったんですけどね。落ち着いてからこっちも、たまーに我に返って鬱状態になってしまうんです」
何事に対しても後ろ向きになり、母親の事を思って落ち込み、水谷兄弟は見ているだけで気分が暗くなると言う。
「最近は、忙しさもあって、そう頻繁ではないんですけどね、一度そうなったら、立ち直るのに相当の日にちがいるもんで、それで休みを取ってるのかなと」
休んで落ち着いてくれるのならいい。
「でも、時々落ち着く前に本当のどん底に行くことがあって……その時は、自殺の危惧もしてやらないといけないんですよ」
「まあ、うちはそう忙しい地域じゃないですからね。あいつ一人いなくても、仕事の方は変わりありませんが、もしものことを考えると、やはり心配で」
形だけは突き放しているが、やはり心配の方が大きいようだ。
「なるほど」
頷きながらも、東は全く別な人物を思い浮かべていた。
別なことを心配しながらも、水谷の相談への返答をする。
「余りあの人と会う機会はないですが、気に留めておきます。もし、顔を合わせた時は……」
「仕事山積みだから、早く戻れと伝えて下さい」
忙しくないと言った傍からの伝言内容に苦笑しつつ頷くと、草太は立ち上がった。
「じゃあ、オレは上に上がります。お疲れ様です」
挨拶して上の自宅へと、カウンターの奥のドアから向かっていくその背を見送りながら、東は小さく息を吐いた。
持ち帰りの夕食を作ってくれている、葉太の背をしばらく見守り、手持無沙汰でカウンターの上にある夕刊に手を伸ばして引き寄せ、斜め読みし始める。
興味のない記事を目で追いながらページを捲っていたが、ある文面で目が留まった。
『国鉄の運転手、運転途中に錯乱?』
ごく小さな記事だが、この近くの踏切内での出来事だったので、東の耳にも入っていた。
昨日の昼過ぎ、特急列車が踏切内で急停止したと、運転手が報告した。
停止時間は一分ほどで、その後の運行に障りはなかったそうなのだが、停車駅で体調不良を訴えたその運転手は、更に奇妙な出来事を報告したのだった。
その踏切内で立ち往生していた若い母親とその子に気づいたが、ブレーキは間に合わなかったはずだったのに、実際は間に合って母親もその子も無事だった。
混乱気味のその報告に、国鉄の上司は首をひねった。
最近は、不慮の事故や悪戯防止の為に、踏切や線路を映す防犯カメラを設置しているのだが、それには列車が急停止した事実すら残っていなかったのだ。
乗客からの苦情も全くなく、結果運転手の錯乱ということに話は収まり、その運転手は治療次第では休職することになるらしい。
場合によっては、大惨事を招きそうだった運転手に対する処置としては優しいが、東は結果で納得するほど、単純な性格ではなかった。
この地は、少々変わり者の知り合いが、多く住み着いている。
東の幼馴染で従弟に当たる男を筆頭に、列車が近づく踏切内で立ち往生している者をあっさりと助けられる知り合いなら、頭に浮かぶ限りでも何人かいる。
まあ、その内の数人は現場に居合わせても、「おや、轢かれるな」だけで傍観するだろうが、他の者は思わず助けに入るだろう。
しかし、あくまでもそれは、立ち往生している者を連れ出す、と言う方法で、だ。
列車を、乗客に障りなく止めると言う方法で、助けられる者は一人しかいない。
だが、その人物は、その現場に居合わせたとしても、行動に移すよりも係わりとその後の惨事を目のあたりにするのを避けるべく、逃げる方を選ぶはずだ。
もし、百歩譲って助ける方を選んだとしても、防犯カメラの映像の件は疑問のままだ。
映像の改竄なんてものを、その人物は出来ただろうか?
あっさりとそれをやってのけそうな者にも、何人か心当たりがあるが、列車を止めた者とそこまで親しい者はいなかった。
他にそれが出来そうな人物と言えば……。
東がそこまで考えた時、店の扉がベルと共に開き、来客を告げた。
振り返らない男の隣のカウンター席に腰を落ち着けると、新たな客は東の手元を覗いた。
「随分珍しい行いをしたものだな。世紀末はまだまだ先のはずだが、この星を出る算段を始めた方がいいかもしれん」
真面目に声を掛けたその客を振り返り、東はまず問いかけた。
「いつから宇宙規模の、大袈裟な話が出来るようになったの?」
「昨日、昔の映画を観てからこっちだ」
あくまでも真顔で答えるのは、同年の男だった。
この国のいつの時代にもしっくりと馴染む、長身の真面目そうな男だが、この男の幼馴染で従兄に当たる東は、そんな外見に惑わされることは当然のことながらない。
カスミと名乗っているその男は、ついつい昔の言葉使いに戻る東の言葉を気にすることなく、カウンター内で注文せずとも自分に出すコーヒーの用意を始める、葉太の動きを目で追いながら、真面目に言った。
「最近、シノギ叔父が、この地に落ち着いた」
「あら、どこにおられるのかしら?」
父方の叔父の呼び名に目を丸くした男に、カスミは答えた。
「松本と言う、建設会社の社長を気に入ったらしい」
気に入られた、ではなく気に入った、だ。
大概がその理由で落ち着き先を見つけるが、東はその名前を聞いて顔を顰めた。
「どうして、あの松本を?」
松本建設は、今でこそ堅気の仕事をしているが、その堅気になる為の必要経費は昔からやっていた稼業で稼いだものだったと、噂の域を超えた話があった。
「知らんのか、松本は、昔から古谷の寺の檀家なのだぞ」
古谷の寺とは、江戸の初期からこの地を守る仏教寺の通称である。
「知ってるわよ。昔はぎりぎりの所で堅気の仕事だったらしいわね。今はそれも辞めてしまって、叩いただけじゃあ埃は出ないって話だわ」
それだけ怪しい家柄の社長を気に入った、その叔父の気性を知る東は、話に聞いているだけで顔合わせしてないその男の印象を、少し改める必要を感じた。
それほどに、叔父への信頼は厚い。
「それを、鏡月は最近、人づてに知ってしまってな」
「……それが、原因だっていうの? この、不可解な事件は?」
父方のその叔父と、カスミの最初の妻の連れ子だった鏡月は師弟の間柄だったが、とある事情で弟子である鏡月が師の元を離れ、未だに逃げ続けている。
東もその時の事情は承知しているが、永い年月と共に逃げる若者の気持ちが分からなくなってきている。
それは、当の本人がなぜここまで意固地になって逃げ続けているのか、自身でも分からなくなってきているようだと、顔を合わせるたびに分かるからだ。
呆れる男に、友人で従弟に当たる男は真面目に続けた。
「まあ、ともあれ、手加減までは忘れなかったようで、何よりだな。本当に心非ずであったら、列車は崩壊の上、乗客も無事ではなかったろうからな」
「あの子、映像の改竄なんて、出来たかしら?」
東が引っかかっていた疑問を、カスミはあっさりと否定した。
「出来るはずないだろう。あれは、映像を見ることも出来ん」
「そうよねえ」
師匠と別れる前のある衝突が原因で、鏡月は全盲になっていた。
だから、監視カメラと言うものの存在は知っていても、そこまでの気は回らないだろうし、気づいたとしても、改竄する能力はないはずだ。
あっても、そこまでやるほど慎重な若者ではない。
首を傾げる東の隣で、出されたコーヒーの香りを楽しみながら、カスミはしみじみと葉太の顔を見つめる。
見つめられている葉太の方は、故意にその視線を合わせないようにグラスの手入れに集中していた。
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