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 それが起こったのは、遮断機が下りきった踏切内の線路の上、だった。  その日、急いで踏切を横切ろうとしたある母親がよたよた歩きでおぼつかないものの、懸命に歩く子供の手を引いて歩いていたのだが、それがこの出来事の発端になってしまった。  おぼつかない足取りで、踏切内に入った子供の足が、線路のわずかな隙間に入り込んでしまったのだ。  その瞬間鳴り響いた警報機に、飛び上がった母親は焦って子供の足を引っ張ったが、うまい具合にはまり込んでしまったらしく、引き抜けない。  混乱してなかなかわが子を助けられない母親の心が伝染してしまったのか、べそをかき始めた子供と、助けを求めて周囲を見回した母親は、線路の振動とともに巨大な鉄の塊をその直ぐそばで迎えることになった。  この都市は素通りする列車が目の前に迫り、轟音のみが耳に響く。  そして、警報機の音だけが周囲に残った。 「……おい」  ふいに、ぶっきらぼうな言葉遣いの、のんびりした声が母親にかかった。  知らず閉じていた目を開け、すがりつくように抱きしめていた子供を見下ろした母を、幼い目がきょとんと見上げている。  全く知らない声の主を探して顔を上げると、そこに一人の若者が立っていた。  何かの陰から見える日の光の逆光で、シルエットがはっきりとして男とわかるが、十代後半に見えるその体格は、この国でも男としては小柄だった。  短めの黒髪なのに乱暴かつしっかりと後ろで束ねたその若者は、見上げた女を見ないまま言った。 「一分だけ止めといてやる。さっさと子供を連れて、行け」  そう言われて、母親はやっと気づいた。  日が遮られている訳を。  若者が手を添えている大きな物体が、太陽の光を遮っているのだ。  時々耳障りな機械音を立てるそれは、線路の内側で立ち往生する母子の前で、ぴたりと止まっていた。 「……」  目の前のことが信じられず、動けない女の目の先で若者はため息を吐く。 「……ったく、オレは何をやってるんだっ。厄介ごとから逃げてる最中のくせに、人助けかっ? つくづく、らしくないっ」  自嘲気味に吐き捨て、まだ固まっている二人を見下ろした。  その目と目が合い、どきりとした母親に若者が吐き捨てた勢いのまま怒鳴った。 「早くしろっ。次の列車が来たら、もう知らんぞっ」  びくりとして頷き、それでもまだ夢のように感じて女はのろのろと動き始めた。  先ほどできなかった子供の足を溝から引き出す作業を再開したのだが、夢うつつの今の状態では余計にうまくいかない。  焦れた若者が再度怒鳴ろうとする気配に首を竦めたとき、助けの手が添えられた。  母親の手を、透き通るような白い手が、軽くたたいた。 「落ち着いて。引っ張るだけじゃあ、その子が痛い思いをするだけだ」  先ほどとは別人の、無感情な声がそう言い、その声の主がその場に膝をつく。  顔を上げた母子が、二人とも思わずぽかんとその容姿を見てしまった。  手と同じくらい白い顔の、美少年といっても言い過ぎではない、そんな若者がそこにいた。  くせのない薄色の金髪を短くしているその若者は、子供すら見とれているのに気付いていないのか、全く自然に女に手を貸し始める。  それをちらりと見た黒髪の若者が列車に手を添えたまま、首を傾げた。 「お前、こんな所も放浪しているのか? ここで鉢合わせは珍しいな」  それを受ける方は、顔を伏せたままだ。 「あんたは珍しく人助けの最中か。あんまり珍しかったんで、思わず来てしまったんだ。(れん)を撒いてる最中なのに」 「蓮? お前もか。……絶対そうだと思って逃げたんだが、お前を巻き込もうとする位だから、相当の厄介ごとらしい。逃げて正解だったな」  一人頷いている若者に、ようやく顔を上げた若者が問いかけた。 「そう思うなら、何でこんな所でこんなお節介やってるんだ? あの人、まだ追いかけて来るぞ、珍しく怒ったみたいで」 「あいつを無闇に怒らせるな。ただでさえ厄介な奴だというのに、余計厄介だ」 「うん。普段なら、あれで怒らないんだけどな……」  言いながらも顔を上げながら立ち上がっていた若者は、仕草でまだ座り込んでいる母子を促して立ち上がらせる。  それを察して黒髪の男は少し身を引き、呟くように言った。 「まあ、別にさしたる理由はないんだが……強いて言えば、目と鼻の先で血生臭いことが起こるのは、後ろめたかったんだろうな」  他人事のような、先ほどの問いへの回答に、踏切の遮断機を下からくぐって母子を線路から避難させていた若者は、笑いもせずに頷いた。 「まあ、そんなところだとは思ったよ。あんたなら、その目と鼻の先で何かが起こる前に、逃げる方を選ぶはずだというのは、この際考えないでおいてやるよ」 「ほっとけ」  線路内の若者が言った直後、轟音が起き、列車が通り過ぎた。  その巨体の起こした風と音が去った後、母子は踏切の外に取り残されていた。  傍にいたはずの金髪の若者も、線路内にいたはずの黒髪の若者も、消えている。  今起こったことは、夢だったのか……ぼんやりと座り込んでいる母親と、線路内で脱いだ靴を傍らに見つけ、おぼつかない手つきで持ち上げた子供の方に、踏切の向こう側から小柄な若者が走ってきた。  先ほどの二人より少し年少でさらに小柄な若者は、全力で走って来たのか、今時珍しいほど長く伸びた黒髪を束ねた背中を揺らし、肩で激しく呼吸をしている。  母子の傍で立ち止り、息を整えながら言葉を吐き出した。 「くそっ、滅多にねえチャンスを、思わず見送っちまったっっ」  意味不明の言葉をぼんやりと聞き流し、母親は子供に急かされるままに靴を履かせてやり、立ち上がった。  子供のズボンの砂を払ってやり、その手を取って歩き出す。  その背を、立ち尽くしたまま小柄な若者が見送った。  
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