序話 夜の地平線

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序話 夜の地平線

 油燭台を一つ灯しただけの薄暗がりの中、周囲には人の気配はなく、ただ二つの吐息だけがそこにある。  衣擦れの音とともに、手元に何かが押し付けられる。  顔にすっぽりと布を被り、口元も同様に覆ったその人物は、視線だけをゆっくりと動かして、手の中にあるものの感触を確かめる。  「鷹の首は、獲られねばならん。」 低く、重々しい掠れた声が耳元にそう告げる。  鷹、とは王を表す隠語である。天に在る神々の王なる鷹神の、地上に顕現せし代理人こそが王なのだ。  顔を上げると、強い意思の光を宿した眼差しが見つめている。  手の中にある硬い感触の上から、強く握り締める大きな両手がある。  「どうしても、ですか」  「どうしてもだ」  「――…。」 耳元に囁かれる言葉。確固たる意思。唇を噛み、小さく頷くと、その人物はゆっくりと後すさる。  これは、お仕えすることを選んだ尊き御方の望まれたこと。  これが自らの使命なのだ、と、震える心に念じながら。  王宮の外の都では、華やかに「谷の大祭」を祝っている時刻。  街の大通りには夜も遅くまで引きも切らさず人波が溢れ、王宮の周りにも、神殿にも、繁華街や川べりにも、無数の灯りがきらめている。  だが、王の住まいなる王宮だけは、静かな闇の中に沈んでいる。  生まれ名はラメセス、即位名をウセルマアトラー、遥か後世には「ラメセス三世」の名で知られる(ファラオ)の治世、三十一年目。  その日、この「黒い土の国」は、最後の「偉大なる王」と呼ばれた人物を、喪おうとしていた。
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