第九話 ケリ/闇の入り口

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第九話 ケリ/闇の入り口

 王妃と侍女たちの行列を見送ったあと、ケリは、思わず一つ溜息をついた。  (なんとか、気分を害さずにやり過ごせて良かった…。) 後宮づきの執事として働くようになって、一ヶ月。  元々、宰相づきの書記だったから、王宮にならば出入りするのは慣れている。  だが後宮となると、勝手が違った。  何しろ出入りするには許可が必要で、現場を見ることが出来ない。それでいて、壁の向こう側から出される依頼や指示を的確にこなさなければならない。  ましてやティイ王妃は、後宮の中でも最も気難しいことで有名だ。気に入らない侍女は即刻、解雇する。働きぶりが悪い執事は悪し様に言って地方に送ってしまう。それどころか、噂では、高価な香油の壺を落として割った侍女の腕を切り落として放逐したことすらあるという、苛烈な性格の持ち主なのだ。依頼を取り違えたりしようものなら、どんな癇癪を起こされるか分かったものではない。  (誇り高く、せっかちで、常に体面を気にする。…分かりやすい人ではあるけれど、気分屋なのはいただけないな) せっかく巧く後宮に関わる職に就けたというのに、気に障ることをして追い出されては元も子もない。ケリは、ティイに接する際には、カエムワセトに対する以上に気を遣っていた。  「ケリ。ティイ様をお見送りに行ってきたのか?」 王宮の入り口まで戻ってきたところで、ケリは、同僚で先輩格のメリアメンに声をかけられた。まだ年若く、執事になってからも日が浅いらしいが、王妃には重宝されている人物で、執事の中でも権勢がある。  「祭りの段取りの件は?」  「お渡ししてきました。後ほど確認される、と。ついでに、追加の仕事を頼まれました。南からの積荷が着いたら教えて欲しいそうです。」  「ああ。珍しい毛皮を積んでくるの船だな。ティイ様は、それを祭りの衣装に使うおつもりなんだろう」 メリアメンは訳知り顔で、顎の髭あとを指でなぞった。  「僕はこれから、港に行ってみるつもりです。メリアメンさんは?」  「後宮に送る食料の搬出に立ち会うことになっている」  「そうですか。では、ここで」 何気ない会話を交わし、別れて歩き出す。――だがケリは、既に違和感を覚えていた。  (食料の搬出なら、「白い家」からじゃないのか? もしそうなら、港前にあるんだから同じ方向のはずだけど…。) 曲がり角で振り返り、それとなくメリアメンのゆく方向を確かめる。  (あっちは…牧場と畑しか無いはずだ。まさか農園から直接、運び出すつもりなのか…?) この一ヶ月、ケリは、それとなくメリアメンの様子を伺ってきた。  「白い家」の倉庫番ヘルマイに、物資の横流しを依頼している人物がメリアメンだからだ。  彼への依頼主が、王妃ティイだということは既に調べがついている。けれど、横流しされた物資が何処に運ばれているのかがまだ、分かっていない。直接、後宮に運び込まれているのはごく僅か。それ以外は、一体、どこで何に使っているのか。  けれど、さすがにそう簡単にはいかなかった。  先輩として親切に仕事を教えてくれはしたものの、仕事中の行動は別々で、他の執事たちも、仲間が具体的にどこでどう仕事をしているかまでは把握していない。  執事たちの受け持ち範囲は、王宮と離宮、それに後宮と、何箇所にも別れている。そして職務の範囲も幅広い。  ケリも自分の日々の仕事をこなすのに精一杯で、それほど自由に動ける暇があるわけでは無かったのだ。  南方から来る船、しかも王家の所有物ともなれば、きっとひと目で判るくらいのものだろう。  大河の流れは酷くゆっくりで、流れに任せた大型の船の川下りには時間がかかる。対して、人の手で漕いで進める小型の船のほうは早い。もしもその船が既に川を下りはじめているのなら、追い越して先に到着した小型の貨物船があるはずだ。  港に出たケリは、上流からやって来たと思しき適当な船を見つけて船員に尋ねた。  「川を下る途中で、王家の貨物船を見かけなかったか? 南方の国からの品を積んでくるはずなんだが」  「ああん?」 振り返った船員は、ケリの身につけた上等の衣類を見て、はっとした。ただの役人ではない、裕福な家に仕える使用人が着るような上着だ。慌ててへりくだった顔つきを作り、口調も丁寧なものに変わる。  「その船でしたら、数日前にネケンの街のあたりで見かけやしたよ。ヘヘ…順調そうでしたから、あと四、五日ってとこですかねぇ」  「そうか。教えてくれて感謝する」 ケリのほうも、わざと勿体ぶった口調で答え、頷いて川の方を見やった。  (ネケンか。確かに、あと四、五日はかかる…) 着いたらすぐに知りたい、というのは、王妃の気まぐれか、それとも、祭りの衣装に使う毛皮が届くのを余程、楽しみしているのか。  ティイの真意は計りかねたが、面倒なだけで楽な仕事だ。  後宮のほうに向かおうとした時、港の端から、名を呼ぶ声が響いてきた。  「おーい、ケリの旦那!」  「ん?」 振り返ると、ヘルマイが浮ついた作り笑いで手を振っている。  「お久しぶりですねぇ。栄転されてから見かけなかったですが、さぞかしお忙しいんでしょうな」  「うん、まあね」 「白い家」を辞めたのは、カエムワセト王子と面会してから一週間も経たないうちだった。慌ただしく済ませた職場への別れの挨拶、ヘルマイと会うのは、それ以来のことだ。  「残った連中は、あんたともっと仲良くしとくんだったと悔やんでますよ。さすがは宰相殿の甥っ子だ、巧くやった、ってね」 言いながら、ヘルマイは気安くケリの肩に手をかけてくる。  「で、俺もその一人ってわけですや。どうです? かつての同僚のよしみで、ちょいとばかり付き合っちゃくれませんかねえ。たまには、下々の酒場ってのもいいでしょう」  「…構わないけど、まだ仕事中だ。控えめに頼むよ。」 言いながらケリは、ヘルマイの狙いに気づいていた。  彼が伯父ペレムヘブの息のかかった間者の一人で、ある意味ではケリの「仲間」であることは、既に知っている。  わざとらしい作り笑いも、不真面目な態度も、あの、怠惰な空気の漂う仕事場で浮かないための演技に過ぎない。その彼が、敢えて声をかけてきたのだ。何か、話したいことがあるのに違いない。  二人は、港からそう遠くない裏路地の、できるだけ人目につかない居酒屋に入った。入るなり、ヘルマイは上機嫌な声で店主に声をかける。  「麦酒を二杯。今年収穫した、新しい大麦で作ったやつを頼むぜ!」  「あいよ」  「おい、仕事中なのに…」  「いいんですよ。こういうのは、サボりならサボりらしくしたほうが」 にっ、と見せた笑みの下で、瞳が鋭い輝きを放つ。  「昨日、メリアメンが来ましたよ。『谷の大祭』で使う物資をご所望だ。」 店主がやって来る前に、彼は素早く小声で囁いた。   「で、どうですかい? そっちのお仕事は。」  「こちらも『谷の大祭』の準備で大忙しさ。ティイ様が張り切っていらっしゃってね。派手な行列をなさるらしい」  「へえ。そいつぁ見ものですね。まさか、神像の行列と競うおつもりですかね?」 麦酒の器が目の前に置かれる時になると、ヘルマイは、真面目な表情を打ち消して、わざとふざけたような口調に変わる。この器用さは、ケリには真似できそうにない。  「カエムワセト様も同席されるそうだ。ラメセス王子のほうは…分からないけど、派手なのはお好きではなさそうだから」  「そうですねえ。今は、北の国境のほうが不穏な時期ですからね」 どろりとした濁りのある酒を口に運びながら、男は、僅かにかつての職を思わせる口調で続ける。  「ヘテ人の国が滅びてからですよ、面倒ごとが起きるようになったのは。あそこも大国だったはずなんですがね。北の海の向こうも、東の小国も、どこもかしこも荒れ放題、飢饉が続いて小競り合いばかりだ。お陰で交易路には賊が出る、難民が押し寄せてくる。『下の国』の宰相殿が巧くやってくださってるお陰で、戦線の物資が尽きることは無いんですがね。ラメセス様が前線に睨みを効かせておられなかったら、どうなることやら」  「ヘテ人の国、か…。かの『大王』の時代に同盟を結んだという、海の彼方の国だな」 その国が滅びたというのは、ほんの数十年前のこと。大国さえもあっという間にこの世から消え去る。考えてみれば、恐ろしいことだった。  幾人もの王が倒れ、数え切れない難民が押し寄せた。  その時代の混乱を乗り切れたのは、紛れもなく、ウセルマアトラー王の手腕だった。  (だから人々は、老いてなお、かの王を「偉大なる王」と呼ぶ。――かの「大王」のように) まだ夕刻には程遠い午後の時間、酒場に入ってくる者は他にはいない。他に客のいない閑散とし店の奥で、店主は、半分眠ったように表通りを眺めている。  ヘルマイは、僅かに身を乗り出した。  「そういえば、執事になられたんでしたよね? メリアメンの裏にいる奴の目星はついたんですか」  「うん。まあね。伯父さんの言っていたとおり、カムオペト殿が全く関係ない、というところまでは分かった」  「というと?」  「『執事』という職は、組織で言えば王の直轄で、『宰相』の権限の範疇外になる。…そうだな、こう言えばいいか。『宰相』は政治を行うが、『執事』は王族の家庭内の雑務の采配だけを任されている。政治には直接、関わらない」  「うーむ」 男は、眉を寄せて、ぐびりと麦酒を口に含んだ。  「つまり…、『宰相』は『執事』に命令出来ない、ってことですかね?」  「そういうことだ。ただ、王の直下だからな。王に代わって、王家の財産の管理を代行することが出来る。御料地から上がってくる物資も、まさにその一つだ。横領とはいうが、メリアメンのしていること自体は合法だよ。ただ、管理の仕方が不適切、というだけだ」 言いながらケリは、手元で揺れる濁った蜜色の液体に視線を落とした。  「――ティイ様や、後宮の王妃様たちが贅沢の限りを尽くしていることは分かっている。彼が払い出しを依頼した品の大半は、後宮で使われている。それだけなら、誰も罪に問うことは出来ないな。王妃が執事と結託して、王の財産を無駄遣いした、というだけの話なのだから。」  「それを咎める権限は、陛下にしか無い…と?」  「そうだ。おそらく、今の陛下では、進言したところで特に何も反応はされないだろう」 ヘルマイは、ほう、と感服したように息をついた。  「流石は坊っちゃ…いえ、旦那だ。もう、そこまで辿り着いておられる」  「買いかぶりすぎた。それに、僕にはまだ、伯父さんとラメセス殿下の真意が分からない」 そう、分からないのだ。  まるで国家の一大事のように言われて送り出されたというのに、蓋を開けてみれば、辿り着いた先は「派手好きの王妃の度を越した浪費」という、ありきたりの事態だった。「横領」と言うほどの話ではない。ある意味では、家庭内の問題だ。  (だが、実際に困窮している者たちがいる。派手な浪費…派手すぎるとはいえ、果たしてそれだけで、こんなにも不平不満が溢れるものなのか?) まだ、考えは纏まっていない。たどり着くべき答えにもたどり着けていない。  (分かっていることは、ここまでだ…これでは、報告など出来ない) 硬い表情で黙り込むケリを、ヘルマイは、じっし見つめていた。  あまり長居をしていては、誰かに疑われかねない。  杯を干し終えると、ケリは、席を立った。   「そろそろ戻らないと。――そうだ、あと四、五日したら、南からの荷を積んだ船が港に着くはずなんだ。その時にまた、様子を見に来るよ」  「…南からの荷?」 何故か、ヘルマイは怪訝そうな顔をした。  「そんな話は、『白い家』のほうには来ていませんが」  「直接、王宮に搬入するからじゃないのか?」  「いいえ。異国との取引なら、王の許可を得た使節をつけて送り出されるはずです。それに、異国人との交易は、こちらから持ち込んだ穀物や織物と引き換えですぜ。取引用の品は、倉庫から払い出される。倉庫番が知らないはずが無い」  「…?」 ケリは、眉を寄せた。   「だが、それらしき船を確かにネケンで見たと、船乗りは言っていた。情報に間違いは無いはずだ」  「きな臭いですね。俺のほうでも、ちょいと調べてみます」 そう言って、ヘルマイは口元に笑みを浮かべた。  「あそこの仕事にも飽きてきてたところだ。旦那にばかり先越されちゃあ、ペレムヘブ様に申し訳がたたねえ。少しは役に立ちますよ」  「うん、ありがとう」 ヘルマイとは、そこで別れた。  (倉庫番の知らない、異国との取引き…か) その時は、特に深くも考えていなかった。  ヘルマイは、倉庫長とはいえ、「白い家」に幾つもある倉庫のうちの一つを取り仕切っているに過ぎない。たとえば、監督官のネブセニにしか知らされていない内密の取引とか、今回は特例で他の倉庫から交換用の品を払い出したとか、そんなところだろうと思っていたのだ。  それが間違いだと気付かされたのは、数日後、船がどこまで川を下ったか知るために、再び港を訪れた時だった。  よく晴れた初夏の日差しが、都の大通りを照らしている。  朝の日課の仕事を終えたケリは、港へ通じる道に人だかりが出来、役人たちが走り回っていることに気がついた。  何か、様子がおかしい。  人混みの隙間に顔を突っ込むと、船と船の間に網が投げ込まれ、船員たちが、ずぶ濡れの大きな荷物のようなものを桟橋の上に引っ張り上げようとしているところだった。  「どうしたんだ、こんなに集まって」 ケリが尋ねると、腕を組んで見物していた一人の男が、親切に教えてくれる。  「ああ、水死体だよ、水死体。酔っぱらいが水に落ちたらしい」  「酔っぱらい?」  「葦の間に浮かんでるのが今朝、見つかったのさあ。たんまり水飲んで腹が膨れてて、重くて引き上げられねぇっつって、この騒ぎだ」  「役人か何かっぽい格好ねえ。しこたま飲んで、いいご身分だよ。まったく」  「ああ、やっと上がったな。」 人々の話し声が、さざめきとなって耳に届く。強張って青ざめた手足が、桟橋の上に投げ出されるのが見えた。大きな傷のある膝。短く刈り込んだ、白髪交じりの黒い頭。  (…まさか) 気がついた時には、ケリは、人混みの間を押しのけて前に歩きだしていた。  「あ、おい。あんた」 見物人たちを押し留めていた兵士が、慌てて駆け寄ってくる。ただ、ケリの立派な格好のせいか、野次馬に対するよりは幾分、丁寧な口調になっている。  「近づかないで下さい。ただの水死した酔っぱらいです。今から、身元の確認を――」  「…ヘルマイだ」  「えっ?」  「『白い家』の倉庫番だ。彼は…御料地の倉庫の、倉庫長をしていた」 言いながら、ケリは自分でも驚くほど冷静だった。  「僕…私は、後宮の執事ケリだ。私が彼の身元を保証する。すぐに『白い家』の監督官ネブセニに知らせを。」  「は、はい」 兵士たちの会話も、後ろから聞こえてくる見物人たちの声も、その時ばかりは遠のいていた。ケリの視線と意識の全ては、白く歪んだヘルマイの顔の上に向けられていた。  (――どうして) この男が、酔払って桟橋から足を踏み外すことなどあり得ない。浮ついた顔も口調も、不真面目な態度も、全ては演技だった。そして、会話を交わして別れたのは、ほんの数日前のことだ。  考えられることは、ただ一つ。  彼は、――殺されたのだ。  (何故? 何のために?) 物音とざわめきとが、耳元に戻ってくる。  「おい、聞いたか。倉庫番だってよ」  「ああ…あそこの連中は皆、不真面目だからなぁ。異国人どもが多いし、この間だって…。」 事情を知らない者たちの無責任な噂話など、聞くに値しない。  ケリは、さっと身を翻し、港を後にする。  (何のため? 決まってる。口封じのためだ。) 足早に歩きながら、彼は拳を握りしめる。  (異国との取引き…調べてみると言っていた。それしか考えられない。こんなことになるなら、あの時、無理はしなくていいと言ってやるべきだった)  きっとヘルマイは何か、誰かにとって不都合なことに気づいてしまったに違いない。  それは、メリアメンから持ちかけられていた、帳簿をごまかして物資を持ち出させるような話とは全く意味の違う――”口封じ”という手段でしか対処出来ないような、”致命的な”事実のはずだ。  港の喧騒が聞こえなくなるところまで来たところで足を止め、彼は、大きく息を吸い込んで体の震えを抑えた。  (僕はもう、失敗出来ない。…ヘルマイは殺された。だとしたら、この先に隠されている企みは、そう生易しいものじゃない。) たとえ「宰相の甥」という肩書があったとしても、安全でいられる保証など、何処にもない。  ケリにもようやく、実感することが出来た。  自分が踏み込んだこの道の先にあるものは、行く手の見えない深い闇なのだということが。
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