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第十話 チェセメト/誰にも言えない
街の喧騒も、人々の口の端にのぼる噂話も、後宮の奥深くでは小鳥の囀りのように、ささやかな程度にしか聞こえない。
その頃、チェセメトの周囲では、着々と準備の進む「谷の大祭」の話でもちきりだった。
「聞いた? ティイ様は、南の国から豹の毛皮を取り寄せられたらしいわよ。あれで神官衣を作らせるらしいわ」
「えっ。それって、本物の毛皮なの? あたし、見たことないわ。どんな手触りなのかしら。一度触れてみたい」
侍女たちの噂話は、もっぱら、豪華な装身具や祭りに呼ばれる人々、それに、自分たちに割り振られる役割のことだ。
「『下の国』の大神殿から、神官様が来るらしいわよ。今年の祭りは大々的にやるからって。」
「新しい船を仕立てるんだそうよ。御座船よ。真っ白な大きな帆を張って…楽団を載せるんですって」
「呼ばれるといいなあ、弦楽器なら得意よ。王妃様の後ろにくっついて隠れているだけなんて、いやだわ」
若い侍女たちは、どんな衣装を着られるか、祭りにやって来る貴人たちの前でどうやって目立てるか、そんな話でかまびすしい。
チェセメトだけは、そんな話題の中には加わらず、黙々と、王妃の部屋の窓辺に架けられた籠に入れられている小鳥の世話に勤しんでいた。
色鮮やかなその小鳥も、南方で捕まえて連れられてきた、珍しいものだ。
「――私の仕立てた衣装も船も嫌だ、と? 呆れたものだわ! これだって、れっきとした皇太子の努めよ。それが果たせないとは、一体どういう了見なのかしらね全く!」
背後から、苛立った甲高い王妃の声が聞こえてくる。
ちらと振り返ると、ティイが、祭りの打ち合わせのために訪れた執事の一人を相手に愚痴を言っているところだった。
「ラメセス殿と来たら、本当に――。皇太子に相応しい装いと舞台を、この私が準備してやったというのに。祭りより戦場のほうが好きなのなら、いっそ、都に戻って来ないほうがマシよ」
若い執事が、苦笑しながら何やら相槌を打っている。
ここのところ、よく姿を見かける若者だ。いつの間にか、メリアメンと同じくらい後宮に出入りするようになっている。
「ケリ。お前も、ラメセス殿にはひどい目に合わされたことがあるのですから。分かっているでしょうけれど」
「それは、もう――。出来れば、祭りでも遠目に拝見するだけに留めたいものです。それに、私めのことなどお忘れになっていることを願いたい」
話を合わせてはいるものの、メリアメンの揉み手するような過剰にへりくだった態度ではない。背筋を伸ばして、真っ直ぐに人の顔を見て話すのは、自分に自信があるのか、元から王妃の寵愛など無くても身を立てられるほど良い身分の家柄なのかもしれない。ティイの周りに群がる人々の中では、珍しい種類の人物に思われた。
ひとしきり愚痴ったところで、ふとティイは、話題を変えた。
「そうだ。今日は荷が届く日よね?」
「はい」
「そこの、」言いながら、ティイはこちらを向く。「使用人と一緒に取りに行ってくれるかしら? 残さず、ここへ運び込んで」
「かしこまりました」
若い執事は一礼をし、チェセメトのほうに視線を向ける。
はっとして、慌ててチェセメトは頭を下げ、視線を床に落とした。
珍しいと言えばもうひとつ、この若い執事は、ひと目で異国人と判る黒い肌を持つ彼女の顔を、真正面から見るのだ。雇い主である王妃ですら、まるで人ではない”物”でも扱うかのように、視線を軽く滑らせるだけだと言うのに。
「荷運び人は港にいる。行こうか」
「……。」
チェセメトは、黙って頷く。
若い執事の後ろには、後宮に入る時に引き連れてきた兵士たちが続き、チェセメトは、それよりも後ろを少し離れてついてゆく。
港では、大きな貨物船がちょうど到着し、帆を畳んでいるところだった。
王家が仕立てた交易船だ。色鮮やかなよく目立つ船体に、帆には、神聖なる神の印が描かれている。
「ティイ様からの言いつけで来た。積荷の確認をする。」
船長に向かってそう言いながら、執事は渡し板を越えて甲板へと上がってゆく。
「それが済んだら、荷を後宮へ送る。人を集めておいてくれ」
「分かりやした」
指示は的確で迷いがなく、手際も良い。せっかちなティイが気にいるわけだ。
「チェセメト」
ふいに名を呼ばれて、チェセメトは慌てた。
「君も一緒に見ていてくれ。立ち会い人なのだから」
「…でも、わたしは」
「ああ、見ても分からないだろうから、説明するよ。これが黒檀、こっちが香木…毛皮。象牙もあるな。どれも高価な品ばかりだ」
「……。」
異国人で、取るに足りない雑用係の下働きに過ぎないのだ、と言いたかったのだが、言い出せないままに言葉を飲み込んだ。
(わたしなぞが証人になったところで…いみは、ないのに)
チェセメトを側に従えたまま、若い執事は淡々と荷の種類と数を数えてゆく。
「よし、揃っているな。確認は済んだ。船長、運び出しの準備を」
「へい」
渡し板から桟橋へと降り、執事は、荷降ろしの始まるのを見上げた。
港は今日も人でごったがえし、多くの人と品が行き交っている。
祭りの日が近づき、街は否応なく活気を増している。王家の人々が気前よくばら撒くだろう恩寵品に期待が集まっているのだ。それと、各地から集ってくる見物人がもたらす好景気にも。
「この船は、王妃様の私財で仕立てられているそうだ。」
ふいに、チェセメトの隣で若い執事が呟いた。
「よく、わかりません」
「本来ならば王だけが出せるはずの交易船を王妃が――そう、簡単に言うと――王妃様は、とてもお金持ち、ということさ。陛下に匹敵するほどに、ね」
どこか意味深な、含みのある口調。
それとなく見やった執事の横顔には、どこか、暗い影が落ちている。
「…?」
だが、その影も一瞬のうちにかき消えていた。
若い執事は、柔らかい笑みとともに振り返る。
「そういえば君、ワワトの国から来た南方人なんだってな」
「…はい。でも故郷、知らないです。子供の頃に来たので」
「そうなのか。」
そんな風に話しかけられたのは、ウセルマアトラー王いらいだった。戸惑いながら、チェセメトは小声で付け加える。
「あの、わたし…仕事、しなくていいでしょうか? 荷運び来たの、立ち会うため、ちがいます。力もち…だから」
「え?」
「箱、いくらでも持てます」
「そうなのか」
驚いた顔をしつつも、若い執事は笑った。
「だけど、荷運び人は足りているから別に構わないよ。それに、女の子に荷物を持たせているところを皆に見られたりしたら、僕が酷い奴みたいに思われる」
「……。」
「さて、それでは戻ろうか」
荷降ろしが終わり、荷運び人が荷物を担ぎ上げるのを確認すると、若い執事は荷運び人の先頭に立って歩き出した。
(おかしな人だ)
チェセメトは、荷運び人たちの後に続きながら思う。
(だけど…いい人。たぶん)
港から続く行列を、人々が指差し、何かひそひそと囁きあっている。
「まただ。南方からの珍品だよ。ティイ様が…」
「景気のいいことだね。あれは、祭りで歌い手や踊り子の褒美に振る舞われるのかね?」
「それとも神殿への寄進か…ええのう、わしらもお相伴に預かりたいもんじゃわい」
無数の顔、顔。それに視線が、チェセメトの上を素通りして、荷運び人の背にある荷のほうに向けられている。
誰も、異国人の使用人などに興味はないのだ。
その程度なら見慣れている。そして―― ティイ王妃のような人々の一挙一動とは違い、下級の使用人ならば、何をしようとも、世の中に何のさざ波も立たないことを、よく知っているのだ。
離宮に戻ると、ティイは侍女たちを連れてどこかへ出払ってしまった後だった。
受け取った荷物を、どこへ運べとも指示はされていない。
「仕方がないな。お屋敷の広間に入れておけば、文句は言われないだろう」
若い執事は、後宮の衛兵たちを呼び集める。荷運び人たちを中に入れるわけにはいかないからだ。
塀の入り口に降ろされた包みや木箱を衛兵たちに背負わせ、自身も、小さめの包みを覚束ない足取りで持ち上げる。チェセメトは、慣れた手付きで衛兵たちの何倍もの荷物を持ち上げる。
「…本当に、力持ちなんだな」
執事は、驚いた様子で苦笑している。
「やっぱり、僕も少しは体も鍛えないと…」
「大丈夫、すぐ、戻ってくる」
チェセメトは大急ぎで荷物をティイの館まで運ぶと、引き換えして、残りも担ぎ上げる。若い執事はよろよろしながら、チェセメトよりずっと遅い速度で、なんとか荷物を運んでいる状態だ。
すべての荷物を屋敷に集め、数を数え直すまでには、たっぷりと時間がかかった。
ようやく仕事を終えた時、外はもう、薄暗くなりはじめている。ティイは、まだ戻ってこない。
「…よし、全部揃っているな。あとは…」
乱雑に積み上げられた荷物の端を揃えて、少しでも見目よくしようと手をかけた時、いちばん上に積まれていた包みが傾いて、転がり落ちそうになった
「わっ」
チェセメトは若い執事は、慌てて同時に手を差し出した。その弾みで、執事の肘が側の小さな卓に当たり、物入れの箱が転がり落ちる。
甲高い音をたてて、物入れの中身が散らばった。
化粧道具の筆、爪切り、香油壺、――それに、何か蝋で出来た、小さな塊。
「しまった…何も壊れていないといいけど。チェセメト、灯りを」
「はい」
辺りはもう、薄暗くなりかけている。床に転がった小さな物が見えづらいのだ。チェセメトは、急いで油燭台を取りに走った。
だが、落ちたものを拾い集めるのには、消えゆく陽の光だけでも事足りたようだった。
灯りを手に戻って来た時、若い執事は、既に箱の中身を元通りに集めて卓の上に戻していた。だが、一つだけ、何かを手にしたまま、じっとそれを見つめている。
「――あの?」
「!」
若い執事は、とっさに手元のものを隠し、慌てて箱の中に押し込んだ。
「何でもない。――何も見ていないな?」
「え? …」
(何か…人形のようなものだった)
うっすらと見えてはいたものの、勢いに押されて、チェセメトはこくりと頷いた。
「なら、いい。もし何か見ていたとしても、そのことは絶対に誰にも言うな」
険しい、真剣な表情でで、若い執事は言った。
「君も殺されてしまうぞ」
それは、ただの脅しとは思えないほど真剣な、警告を含んだ口調だった。
若い執事が去って言ったあと、チェセメトは、卓の上に残された物入れを見つめていた。
ティイ王妃のものだ。普段は引き出しの奥にしまい込んでいて、侍女たちに触れさせることのない私物入れ。今日に限っては、急ぎの用事で出かける時にうっかり仕舞い忘れたか、どうせ全員連れて出るのだから構わない、と思っていたのかもしれない。
(あの中に…何があったの? それに、殺される、って…?)
ティイが、癇癪で侍女を罰することはよく知っている。もしかしたら、よほど大事なものが入っていて、触れるだけで怒りに任せて処刑されるほどなのかもしれない。
きっとそうだ、と、チェセメトは自分で納得しようとした。
けれど、それだけではない――何かが、ひどく引っかかる。
辺りはしん、と静まり返り、他に誰も居ない。
興味に負けたというよりは、あの、若い執事の態度が心配だったのだ。
おそるおそる、彼女は箱に触れる。音もなく、そろりと蓋を開き、灯りで中を照らし出す。
(あっ…)
そこにあったものは、小さな蝋人形だった。
何か、赤い墨で文字が書かれていて、髪の毛の一房が埋め込まれている。そして、針で何度も突き刺したような跡があった。
これが、一体何だというのだろう。意味が分からない…化粧道具では無さそうなのは、間違いない。
(いやな、感じがする)
外から、微かな話し声が聞こえてきた。
はっとして、チェセメトは箱の蓋を閉ざし、灯りを手に屋敷の玄関へと向かう。
ちょうど、王妃が戻ってくるところだった。妙に上機嫌で、執事のメリアメンと侍女たちを引き連れ、声高に喋りながら酔った足取りでこちらへ向かってくる。
どうやら、誰かの歓待を受けて宴に出ていたらしい。
「おかえりなさいませ。荷物は、広間に届いて――」
「そ、ご苦労さま。」
頭を下げるチェセメトのほうに目もくれず、王妃は、酔っ払った足取りでふらふらと階段を登り、寝室のほうへ消えてゆく。
「では、私めはこれにて。おやすみなさい、妃殿下」
メリアメンは、屋敷の入り口で一礼して引き返していく。侍女たちは、やれやれという顔で各自の持ち場へ散ってゆく。
一人残されたチェセメトは、黙って、王妃の寝室のほうを振り返った。
きつい香水の残り香だけが、宵闇の中を漂っている。
ここでは、自分の見たものが何だったのかを尋ねる相手どころか、胸に湧き上がる漠然とした不安を話す相手すら居ない。
誰も。
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