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第十一話 ケリ/盤上の駒
まだ夜も明けたばかりで朝課も終わっていない頃だというのに、ケリたち執事は、揃って王宮に呼び出されていた。
朝課とは、「上の国」と「下の国」それぞれの宰相が、王に謁見し、前日の出来事と今日の予定を報告し、各種の政治的な判断を要する事項の確認を行う場だ。毎朝、決まった時間に行われている。
だが、執事たちを呼び出したのはカエムワセト王子で、皇太子ではないため朝課への同席はしない。
呼び出しの用件は何かといえば、なんと、王宮に届いたという上質なぶどう酒の品定めだった。
「見てくれ、ようやく調達出来たんだ。お前たちにも、一足早く味見させてやりたくてな」
朝早くから呼び立てたことに悪びれもせず、上機嫌のカエムワセトは、並んだ壺のうちの一つを開けさせた。
「ほう、…これは」
酒に目がないメリアメンが、さっそく反応する。
「王家のぶどう園で採れたもの、ですかな。実に良い香りだ。もしや――『赤い家』から持ち出されたもので?」
「そうだ。この酒が作れる果実園は『下の国』にしかない。ケチなペレムヘブがずっと出し渋っていたのだよ。母上からも言ってもらって、ようやくまとまった数を寄越した」
言いながら、カエムワセトは意味深な視線をケリのほうに向ける。
(成る程。伯父さんの管轄にある『赤い家』からの物資は、そう簡単に払い出させることが出来ない、…か)
杯を手に取りながら、ケリは、うっすらと笑みを浮かべる。
「あの方は、昔からそうですから。」
良い香りのする赤い酒は、確かに、今まで一度も口にしたことのないほど、まろやかだ。きっと王の食卓でも、特別な日にしか出されることはない品だろう。
(こんなものを、使用人にまで振る舞うなんて。気前の良い方ではあるが…王家の財も、無尽蔵ではない)
ケリには、伯父ペレムヘブの渋い顔を思い浮かべた。きっと今までも、ティイ王妃やカエムワセト王子からの要望に、人知れず苦労させられて来ていたのだろう。物資の管理に厳しいペレムヘブは、そのたびに確固たる理由なしに融通は出来ないと、断ってきたのに違いない。
そんなケリの思いとは裏腹に、他の執事たちは、降って湧いた幸運を存分に楽しんでいる。
「ああ、旨いなあ。こんなものをいただけるとは、まさに夢心地よ」
「カエムワセト様は実に素晴らしいお方だ。お仕え出来て幸せなこと」
しかも味見、と言いながら、遠慮なくおかわりを所望し、カエムワセトも惜しみなく応じている。
ケリも、怪しまれないよう酒を楽しんでいるふりをしながら、同僚たちの会話に耳を傾ける。口々にカエムワセトの気前良さを褒め称える彼らの言葉は、おべっかというよりも、純粋な喜びに満ちている。
「執事」は、王家の家庭内のことだけを取り仕切る職だ。ただの執事に過ぎない彼らには、国庫や財政に思いを巡らすほどの知識も、責任も無い。
王家の一員である王子が、王家の所有物を振る舞っているのだ。彼らにしてみれば、気が咎める理由など、何処にもない。
ペレムヘブその人が現れたのは、そうして、酒の賞味に盛り上がっていた、まさにその場だった。
「これは一体、どういうことですかな?」
腹の底から響くような低い声に、騒いでいた執事たちははっと口をつぐみ、手元の杯を隠しながら後ろへ下がる。カエムワセトは、苦々しい顔の宰相を見やり、ばつの悪そうな顔になった。
「…少し味見を、と思っただけだ。ちょうど明日は、父上の即位三十一年目の記念日でもある。」
「当方は、大祭で賓客に振る舞い、大神への寄進にも使う、と仰っていたので、国庫を開いたのですぞ。」
ため息まじりに肩を落とし、ペレムヘブは、じろりとケリのほうに視線をやった。
「ケリ、お前まで。あれだけ酒の席で失敗をしておきながら、まだ懲りておらぬのか」
「伯父さんには、関係ないでしょう」
むっ、とした口調を装いながら、ケリは、言い返す。
「僕はもう成人しているんです。いちいち指図をしないでもらえますか」
「なんだと。お前という奴は――」
「まあ、まあ。この者は、もう、うちの執事なんです。彼の言うことももっともですよ」
カエムワセトが、にこやかに割って入る。
「上等な酒であることは皆の味見でよく分かりましたよ。感謝します、宰相殿。残りは、祭りの日に」
「ふん」
鼻を鳴らし、ペレムヘブは壁際で縮こまっている執事たちをねめつけると、肩をいからせて去っていってしまった。
ほっとして、執事たちは顔を見合わせながら、緊張を解いた。
「やれやれ、どこまでも口うるさい男だ。ま、味見も十分だろう。あいつにまた文句を言われないうちに、これは倉庫に運んでおこう」
カエムワセトの様子からして、さしもの彼も、ペレムヘブには頭が上がらない様子だ。
「にしても、ケリ。ずいぶんと伯父上に冷たいじゃないか。親戚なんだから、少しは仲良くしておいたらどうだ?」
「何を考えているのか、昔からよく分からない人なんです。しばらく屋敷にも出入りしていませんよ。」
言いながら、ケリは言い訳のように心の中で付け加える。
(それは本当だ。ここのところ、連絡は取り合っていない)
調査をどこまで進めたか、逐一の報告は、していない。頻繁にやりとりしていては、誰かに疑われかねないし、ただの疑惑の時点で忙しい伯父の時間をとって報告などしようものなら、役たたずと看做されかねない。
「あいつよりは、カムオペトのほうがずっと物分りがよくて、融通が効く。なのに兄上は、あいつのほうがお気に入りだ。まったく」
カエムワセトは、杯に残った酒を舌の先に乗せながら言う。
「仕方がありませんよ。ご兄弟とはいえ、気の合わないところはあるものです」
メリアメンがその場をとりまとめ、残った酒壺に蓋をはめ込み、杯を集め始めた。
「ケリ、手伝ってくれ。これを倉庫へ運ぶから」
「分かりました。誰か人を呼んできます」
「では、私は一足先に退散としよう。またペレムヘブ殿に見つかって文句を言われる前に」
冗談めかして言いながら、カエムワセトは、他の執事たちを連れて去ってゆく。
朝課が終わり、王宮の人々は、これから本格的に朝の仕事を始める時間帯だ。
荷を運ぶ使用人を呼びに行こう、としていたケリの背中のほうから、皮肉めいたメリアメンの呟きが、聞こえてきた。
「――本当に、カエムワセト様がずっと、我々の上でいらっしゃったらなあ」
「え?」
振り返ると、酒壺を見下ろしたまま、男は薄っすらと笑みを浮かべていた。
「ラメセス殿下が即位されたら、我々など、すぐに首を切られてしまうのだろう。…それは、困る。困るのだ…あんな堅物より、気前の良いカエムワセト様のほうこそ、王の器に相応しい」
少しばかり、酔っているのか。目がとろんとして、自分でも何を言っているのか、よく分かっていない顔つきだ。
「だが、皇太子はラメセス殿下だ。陛下が指名された。今も、政治の殆どを任されている。」
「陛下のご意思はそうだ。…ティイ様がどんな手を使っても、悪い噂が流れても、翻意させられなかったのだ。だから…他の手段で…巧くやるしかない。巧く行けば、だが」
「……。」
「なあ。もし巧くいったら、もしカエムワセト様が次の王になられるなら、きっと、俺たちにも良い目が回ってくるぞ。お前も、そう思うだろう?」
振り返ったメリアメンの目には、異様な輝きが宿っていた。酔いのせいなのか、二人だけだという気の緩みからなのか、メリアメンはいつになく饒舌で、ケリは思わず言葉に詰まった。
そんな不敬なことを口にするな、と、叱り飛ばしてやろうかとも思った。
けれど彼は、すんでのところで思いとどまった。
そうだ。
これが、メリアメンの本心なのだ。「同僚たちの懐に入れ」とペレムヘブは言った。それは、――この時のため。この、隠されていた本心を聞き出すための手段だったのだ。
「――そうだな。たった一度の些細な失敗で身分を落とされるような、厳しい上司よりは、楽だと思う」
「だろう?」
「手伝えることがあるなら、何でも言ってくれ。僕はもう、一度は落ちるところまで落とされたんだから」
言いながら、微かに心の奥がちくりと傷んだ。
(嘘は言っていない。誰も、騙すつもりはない。…ただの”フリ”なんだ。これは)
メリアメンは、嬉しそうに笑った。
「ああ。今度、カエムワセト様に言っておくよ。お前ならきっと役に立つ。仲間は、多い方がいいんだから」
「……。」
その時、ケリは既に悟っていた。
彼が触れたものは、密かに練られつつある、口にするのもおぞましい不遜な企ての一端だったのだ。
ただの「横領」などではない。倉庫から消えた物資の裏では、もっと深く、恐ろしい計画が進みつつあるのだということ。
今ならあの時、――御座船に呼ばれた王位更新祭の夜に、ペレムヘブとラメセスが、何を心配していたのかが、はっきりと判る。
曖昧に口にされたことの意味も。
カエムワセト王子は、――皇太子を廃して、自らが玉座に上がろうと考えているのだ。
その日の終わりに、ケリは、ぶどう酒の一部を手に「白い家」を訪れていた。
「残りは祭りの日に」と言ったくせに、カエムワセトは、あの後、執事たちそれぞれに、「家族と楽しむように」と、手持ちの酒壺に入るだけの量を分け与えてくれたのだ。
それだけで、上等なぶどう酒の大壺一つ分は消費されたはずだ。
あまりの気前の良さに呆れるばかりだったが、くれたものを有効に使わない手はない。
家に持ち帰っても、母は酒を嗜まない。生前ほとんど酒を飲まなかった父の墓前に持っていくわけにもいかない。
どうせならと、かつての同僚たちに振る舞うことにしたのだ。
「白い家」の監督官は、相変わらず小太りのネブセニで、ケリの突然の訪問に驚いていた。
「これは、…宰相殿のところの。どうされました?」
「大した用事ではないよ。少し、昔の職場を懐かしく思っただけだ」
以前の、「左遷」されてきた時とは全く違う態度だ。ケリが、ティイ王妃のお気に入りの執事の一人になっていることは、とうに聞き知っているのだろう。落ちぶれている時は対等に、権勢のある時には兎に角、下手に出る。小役人の処世術の一つだ。
「これから、世話になることも出てくるだろう。少し、倉庫の様子を見に、な」
言いながら、彼は、この男ならきっと意味を理解する、と確信していた。
――同じ、ティイの後宮に仕える執事であるメリアメンが頻繁にここを訪れていることは、とっくに調べがついている。
それと同じ用向きで、ここに来ることもあるだろう、と匂わせたのだ。
ネブセニは大きく目を見開き、揉み手を始めてた。
「そいつぁ――ええ、はい。そりゃあもう、存じ上げておりますよ。どうぞ、どうぞ。ご案内致します」
ネブセニに先導されて奥へ向かうケリを、今はもう、誰も馬鹿にしない。聞こえよがしに噂話をする者もおらず、目を合わせまいと、真面目に仕事をしているふりをする。耳に届く会話はない。だが、倉庫の中の様子を観察することは出来る。
「そういえば、少し前、倉庫長のヘルマイが水死したな」
ケリが口を開くと、ネブセニの丸っこい肩が、気の毒なくらい、びくっと跳ね上がった。
「へい、その…。酔払っての事故だった、とかで。仕事のできる、優秀な奴だったんですがね」
「今の倉庫長は? 誰がやってる」
「パレーですよ。あいつが一番ましな書記なんで。」
「…そうか」
あまり話したことのない男だが、名前からして、異国人ではなさそうだ。
(口が堅いな。これ以上は、酒を飲ませてから…か)
自分の考えに、自分でも意地の悪いと思ってしまう。少し前ならば、思いついても試そうとは思わなかったかもしれない。
けれどもう、少なくとも一人が、命を落としている。
ヘルマイが何かを探っていて殺されたのなら、彼の死には、この、「白い家」に居る誰かが、確実に関わっているはずなのだ。
御料地の倉庫にたどり着くと、倉庫の前では、見覚えのある元同僚たちが、相変わらず日向に椅子を持ち出して雑談に興じている。
「おい、こら。お前たち。」
「久しぶりだな」
ネブセニが余計なことを言う前に、ケリは、笑顔で手にした壺を掲げた。
「少し様子を見に寄ったんだ。皆、元気にしていたか? いいものを持ってきた。陛下の即位記念日を祝う酒だ。一緒にどうだ」
気さくな口調で言いながら、あっけに取られているネブセニのほうを横目に見やる。
「監督官も、一緒にいかがです? カエムワセト殿下にいただいた上等なやつですよ。仕事中ですが――なあに、少しくらい構わないでしょう?」
ごくりと、男の喉が鳴った。
「そ、それは…恐れ多くも殿下直々に賜ったものでしたら、こ、断るのも失礼でしょうしなあ。ああ、しかし、仕事中です。ほどほどに…」
騒ぎを聞きつけて、奥から残りの倉庫番たちも姿を表す。どれも、見知った顔ばかりだ。
「さあ、順番にな。」
「おお…ぶどう酒だ」
「はじめて見たぞ」
ほとんどが王家の果樹園で作られているぶどう酒は、庶民の口に入ることなど滅多に無い。物珍しさから、倉庫番たちは持ち出した素焼きの器におっかなびっくり、少しずつの酒を注いで口に運ぶ。
「こりゃあ、美味い…!」
「ほんのり甘いぞ。それに強い。あんまり一気にやると、ひっくり返っちまう」
「これが、ぶどう酒ってやつなのか」
監督官の立場にあるはずのネブセニまで、一緒になって夢中に酒をすすっている。
それを眺め回していたケリは、ふと、端のほうで顔に手をやりながら、ちびり、ちびりと器を傾けている若い男に気がついた。
いつも、倉庫の入り口の階段に腰掛けて羊の足をしゃぶっていたマハバールだ。顔に、ひどい腫れがある。
「どうした。その顔」
「殴られた」
口を開いた時、前歯が何本か欠けているのが目に入った。色男が台無しだ。
目の周りに青く残る痣をさすりながら、マハバールは、悔しそうに呟いた。
「神殿の裏通り、いたら…いきなり、知らない奴らが殴りかかってきた。羊食うのは良くない、神様のけもの、異国人は不信心だから近づくなって」
「ああ、…」
雄羊は、確かにアメン大神の”聖なる獣”だった。大神殿の参道の両脇にも、雄羊の頭を載せた獅子像が、何十も並べられている。
「もうすぐ、大きな祭りがある。潔斎の時期だから、気にする人がいるのかもしれないな。しばらくは、ひと目を気にしたほうがいい」
「……。」
マハバールは、納得がいかないという顔をしながらも酒を口に含んだ。その間も、痛むらしい歯を何度も手で押さえながら。
「旦那も、祭りには出るんですかい」
にやにやしながら話しかけて来た男の名は、確か、パレーだったはずだ。ヘルマイの後任者。
「いいや。目立たないところで準備に追われているよ。晴れやかな舞台には縁がない」
「でも、褒美はたんまり出るんでしょう? ご馳走のおこぼれとか」男は、意味深に笑う。「この、いただいた酒みたいに」
「どうかな」
曖昧に笑って、ケリは、パレーに顔を近づけて囁いた。
「ヘルマイの件では、それなりの褒美は、出たのか?」
「…へ?」
一瞬、きょとんとした顔になった男だったが、次の瞬間には目をむいていた。表情が面白いほどに変わっていく。
(ああ、…やっぱり)
笑みを浮かべたまま、ケリは、内心で悔しさを覚えていた。
ヘルマイの後任者に選ばれたのだ。
物資の横流しのことは勿論、知っていただろう。或いは、それ以上のことまで――。
「あ、あのう」
「言わなくても分かっている。奴は知りすぎた、そうだな?」
「へ、――へい」
パラーは、酒の器ほ握りしめたまま、もじもじと下を向く、呆れるほどに小さな男だ。勢いに呑まれている今なら、きっと、何でも喋りだすに違いない。ケリは、そう踏んだ。
「関わった仲間はあと、何人いる」
「全員です」
「全員?」
「ヘルマイの奴、元は兵士か何かだったらしいんでさ。強くて…そんで、皆で押さえつけた。殴り過ぎたらばれる。水桶持ってきて、顔をつけさせた――」
「……っ」
その様子を想像してしまい、ケリは思わず、吐き気を覚えた。
「ネブセニは…知っているのか…」
「へえ。監督官は、後宮との繋ぎを昔っから…あのう…オレらは、難しいことは何も分からんですよ。偉いさんのことだ。誰が王さまになるとか、王子さまがたの争いだとかは。ただ、若いほうの王子さまのほうが、報酬をたんまり下さるんだ。それだけは分かってます。なもんで、オレらは…」
「…そうだな。それだけ聞ければ、十分だ」
笑みを取り繕いながら、ケリは、周囲の人々を見回して立ち上がる。
「さて、それじゃあ僕はもう行くよ。皆の元気そうな顔が見られてよかった。」
「えっ、もう? お忙しいんですねぇ」
ネブセニは、何も気づかず呑気なものだ。
「ああ。今は『谷の大祭』の準備中だしね。ここに居た頃が懐かしいくらいだよ」
冗談めかして言って立ち去りかけながら、彼は、倉庫のほうに視線をやった。
ネブセニが、残りの酒をすすりながら慌てて立ち上がる。酔っ払っているくせに、見送りについてくるつもりらしい。
「ゆっくりでいい。一回りしてから戻るから」
倉庫の中には、以前と変わらず、御料地からもたらされた品が積まれている。
(…以前と変わりない。ひとり居なくなっても、ここは何も変わらない。「末端は幾らでも入れ替えられる」。ヘルマイの言っていたとおりだ。)
御料地の倉庫番をしている全員が、既に、何らかの形で企みに関わっている。
「白い家」の監督官のネブセニからして、そうなのだ。
そのネブセニを任命したのは誰なのか。――彼に命じているのは、一体誰か?
(そうだ。実際に品を横流ししている者をいくら捕まえたところで意味がない。…その通りだった)
ヘルマイは結局、小役人には身に過ぎる相手に挑んで排除されたのだ。ここでは、過ぎた正義感や好奇心は身を滅ぼすに過ぎないのだった。
「白い家」を後に、大通りに出たところで、ケリは、見知った顔に呼び止められた。
「ああ、やっと見つけましたよ。ケリ坊っちゃん」
彼のことを気安くそう呼ぶのは、伯父の屋敷に雇われていて、子供の頃から馴染みの使用人たち以外には居ない。
「旦那様が、見つけ次第、お屋敷に連れてこいと。何やらお怒りに見えましたが…」
「ああ、あのことだな。心配は要らないよ、用件は分かっている」
ケリは大きく頷きながら、おどおどとしている男に微笑みかける。
「すぐに向かうから、先に戻っていてくれ。」
「はい――」
ついに、その時が来たのだ、と彼は思った。
ケリがこれまでに突き止めたことの、答え合わせの時だ。
今朝、カエムワセト王子と同僚たちの前で、ケリを公然と叱り飛ばしたのも、そのための布石だった。甥との不仲が噂になっている今ならば、この面会は人々の目にも、「不出来な甥を呼び出して叱りつけようとした伯父」という構図でしか映るまい。
だからケリは敢えて、いつものように勝手口からではなく、正面玄関から伯父の家を訪ねた。
「面会の約束があるのですが。宰相殿はご在宅中ですか?」
取り澄ました顔で他人行儀に振る舞うケリに、使用人たちも戸惑いを隠せない。少し気の毒とは思ったが、どこに人の目や耳があるかは分からぬものだ。少しでも、疑われる要素は取り除いておきたかった。
伯父の部屋に通されたケリは、部屋の中に誰もいないのを確かめながら、澄ました調子で口上を述べ立てる。
「伯父さん、僕も忙しいんです。個人的なお呼び立てと伺っておりますが、手短に済ませていただきたいものです」
「ふむ。少しは巧く振る舞えるようになったな」
ペルムヘブは相変わらずの無表情のまま、しかし親しみの籠もった眼差しで、目の前の甥を眺め回す。
「ケリ。お前は実に良くやっているようだな? ティイ様のお気に入りだと、王宮では評判になっているぞ。伯父を裏切って、ラメセス王子からカエムワセト王子に乗り換えた、とな。全く、人の噂というのは身勝手なものよ」
「……。」
「それで?」
ゆっくりと後ろ手を組みながら、男の声色がゆっくりと変化してゆく。
「一体、何に辿り着いた」
「いいんですか? その話を、今、ここでしてしまって」
「構わん。使用人たちには、お前と会っている間は部屋に近づくなと言いつけてある。お前のことだ、そろそろ結論は出せたのだろう」
確かに廊下には、しん、とした静寂が落ちている。窓の外は邸宅の庭だ。ケリの耳にも、人の息遣いや怪しい物音は届かない。ここならば、誰にも聞かれることはないだろう。
意を決して、彼はゆっくりと口を開く。
「…横領の裏にあるものは、ティイ様と、カエムワセト様による、王位簒奪の企みです」
それは、この数ヶ月、「執事」として後宮に仕えるうちにたどり着いた、唯一の答えだった。
「何を見つけた。」
「陛下を呪う蝋人形、呪術師への依頼。それから、貴族や神官たちへの賄賂の記録と、証言。…ティイ様は、陛下も預かり知らぬところで、郊外に私邸を構え、国庫から運び出させた多くの品を蓄えておられます。それらを用いて、いずれ陛下が冥界へ去られた時、ラメセス殿下ではなくカエムワセト王子を後継者として支持するよう、ラメセス殿下の評判を下げ、悪い噂を流し、カエムワセト様を讃えるよう仕向けさせているのです。役人たちの中でも相当数が利益を得て、この件に関わっているようです」
「それから?」
「私兵というべき手勢をいくらか従えておられます。『上の国』の、主にクシュとの国境のあたりの兵たちは、ほとんどがティイ様とカエムワセト王子に友好的な人々で占められています。ラメセス殿下が王位に就く前に反乱を起こし、速やかに都まで制圧してしまえば、カエムワセト様の即位を阻むことは出来なくなる、と言っていました」
報告しながら、ケリの声は僅かに震えていた。
恐ろしいことだ。
まさに天をも恐れぬ、大それた企みだ。けれどそれが、彼の辿り着いた”答え”なのだった。
「――既に何か、具体的に動き出しているようです」
彼は勇気を振り絞るようにして、ペレムヘブの顔をまっすぐに見上げた。
「今朝、ようやくその一端を掴みました。…僕は、彼らの仲間に迎え入れられると思います。ラメセス殿下を失脚させ、カエムワセト王子を王位につける、何かの策があるようなのです」
「ふむ。策、とな」
ペレムヘブは、ゆっくりと窓の外の庭園に目を向けた。
「何を考えているかは分からんが、目先の利しか考えられぬ奴らの浅知恵で思いつきそうなことなど、大方の想像はつく」
ケリは、気持ちを落ち着かせようと試みながら、ゆっくりと、慎重に口を開く。
「…伯父さんは、どこまでご存知だったのですか」
「ティイ殿とカエムワセト殿が、今の処遇に不満を抱き、身に過ぎた野心を抱いているところまでは薄々と、な。切っ掛けは、わしの部下の一人が買収されたことだ。もっとも、それ以来、奴らはわしのほうには手を出して来なくなったが」
「では、『上の国』の宰相殿――カムオペト殿の部下は…?」
「倉庫番も含め、多数が懐柔されておるようだな。ヘルマイには可愛そうなことをした」
背を向けたまま、ペルムヘブは小さくため息をつく。
そして、思いもよらなかった言葉を、口にした。
「ティイ殿が私財を蓄えているだけなら、わしにも手の出しようはなかった。だが、もしも法に触れる不遜な企みを実行してくれるのであれば、それを期に一網打尽に出来るだろう。お前は良い知らせを持ってきてくれた。引き続き、奴らに与した輩を炙り出せ。僅かであれ、関わった者はすべて記録せよ。良いな」
「…え?」
ケリは、思わず聞き返した。
良い知らせ?
謀反とも言うべき、この企みが?
「もしかしたら、暴力沙汰になるかもしれないんですよ? それなのに――良いことなんですか、これが?」
「そうだ。何か起きることが分かっているならば、予め備えられよう。こういうことはな、相手がボロを出さねば断罪することも出来んのだ。いくら王妃と王子といえど、王位欲しさに不遜な企てをしたとなれば極刑は免れん。万事は、わしとラメセス殿下に任せておけばよい。お前は奴らに疑われぬよう、引き続き”執事”として従順に仕えておれ。」
「…はい」
微かな疑問を抱きながらも、ケリは、頷くしか無かった。
(伯父さんは――恐ろしい方だ)
子供の頃から見知っていたはずの男が、どこか、遠く感じられた。
王妃と王子の企みに薄々気づいていながら、そんなことはおくびにも出さず、何も教えずに甥を、敵だらけの場所に送り出したのだ。
(僕も、ヘルマイと同じだ。手駒の一つに過ぎなかった。或いは僕も、運良く生き残れただけなのかもしれない。運が悪ければ、ヘルマイのように…)
叱られた後のように項垂れて宰相の屋敷を後にする彼の表情は、演技などではなく、心情そのままだった。
ペレムヘブとラメセス王子は、どんな手段を使ってでも、反逆者たちを根絶やしにするつもりなのだ。
他にもっと良い方法があるかもしれないと思っても、頭が真っ白で何も思いつかない。あの、巌のような伯父の背中に、反対や疑問の言葉を投げかける勇気は、ケリには湧いてこない。
谷を渡る夏の風、汗ばむ肌に降り注ぐ日の光。
大河の水位は日増しに嵩積みされ、川べりの畑を潤そうとしている。その水位が上がりきった時、祭りの季節が始まる。
――ひとつだけ確実なことに、人々の楽しみにしている「谷の大祭」が、平穏無事に終わることは、決して無いのだった。
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