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第十二話 チェセメト/孤立した玉座
大河の水位は毎年の夏に、決まって増水を開始する。
その水が堤防を越えて畑に流れ込み、土を潤し、穀物を育てる活力を与える。
湿原には水鳥たちが渡ってくる。いけすには魚たちが流れ込む。
水路の奥まで水が通い、普段は通れない荷運びの筏が浮かぶようになる。
照りつける灼熱の太陽の下、人々は玉のような汗を浮かべ、新しい一年の始まりを祝い、大河の恵みに感謝する。
そして、王宮では、ひと月ほど先に迫った「谷の大祭」の最後の準備に追われていた。
その日は、祭りのために仕立てた立派な衣装に袖を通す衣装合わせが行われることになっていた。
鮮やかな糸で染め抜いた衣装を身につけた王は、終止不機嫌そうで、王妃の後ろに控えて見ているチェセメトは、はらはらしながら見守っていた。
「余が表に出るのは夕暮れになってからだというのに。どうせ見えもしない。このような派手なものを身につけてどうする」
「だからこそ、です。地味では、お姿が闇に紛れてしまいますわ。」
「衣装が重い。それに笏は、前のもののほうが手に馴染んだぞ。王位更新祭の時のだ。前のものを探して来い」
「いつもなら、珍しいものをお好みでしょうに――」
ティイの苛立った気配が、いやというほど伝わってくる。
(陛下の格好は、とてもいい。似合ってる。…王さまらしくて)
心からの言葉で褒めたいけれど、チェセメトには、この場で発言する立場はない。
部屋の隅には、今朝、下流の街から到着したばかりの皇太子ラメセスが、父と同じようにむっつりとした表情のまま、自分用に仕立てられた豹の毛皮の衣装を眺めている。
「これは、…南の国でしか得られぬもののはずだな。」
低い声で、彼は、自分とほとんど年の変わらない義理母のティイのほうに、じろりと視線をやる。
「いつの間に持ち込んだのだ。」
「祭りの前ですよ。最近は、プントとの交易も盛んにやっていますの。」
「象牙にべっ甲も…か。贅の限りを尽くしたものだ。父上、いつまで好き勝手にさせておくのです。」
「余は命じておらぬ。ここまで飾り立てろなどとは、一言も」
王と皇太子の口調に、風向きが悪いと見て取ったのか、ティイは甲高い声で泣き喚き出した。
「何ですか、お二人とも! 祭りの準備をわたくし一人に任せておいて、よくもそんな…。わたくしは、ただ、お二人が恥ずかしくないようにと装いに気を遣っただけだというのに! 準備にどれだけ時間がかかったと――わたくしの気遣いが無用だったと仰るの?!」
目元の黒いくまどりが涙とともに流れ落ちて、まるで鷹神の目尻の模様ようだ。慌てて、侍女たちが駆け寄って布を差し出す。
ラメセスは、もう沢山だとでもいわんばかり、小さく首を振って退席する。入れ替わるように、カエムワセト王子が姿を表した。
「おやまあ、これは一体、何の騒ぎなんです? どうして母上が泣き叫んでいるんです」
「聞いて頂戴よカエムワセト。ラメセス殿が――」
「ええい。やかましい」
ついには、王も我慢の限界が来たようだった。
「さっさと出てゆけ、ティイ。もう用は済んだのだろう? カエムワセト、連れて行って落ち着かせて来い。はあ…どうして、いつもこうなのだ」
「はいはい、分かりましたよ。さ、行きましょう。母上」
若い王子は、苦笑しながらティイの腕をとり、部屋を出てゆく。侍女たちと、それに、チェセメトも出てゆこうとした。
だが。
「おい、黒いの」
振り返ると、王がチェセメト手招きをしていた。
「…はい?」
「手伝え。この、上着の紐を外してくれ」
言いながら、背中のほうに回っている、上着の掛け紐のほうに手をやっている。
(陛下に…触れても、いいのだろうか)
戸惑いながら辺りを見回したが、侍女たちも、他の召使いたちも、ティイの大騒ぎに釣られてどこかへ姿を消してしまっている。
仕方なく、チェセメトは指し示されるままに老人の背中に周り、肩と首の間に固く結ばれている紐に指をかけた。
近くで見るのははじめてだったが、痩せた老人の首のあたりには、若かりし頃の名残だろうか、太い筋肉の束がまだ、いくらか付いている。
「…とれました」
「おお、すまんな」
豪華な上着を脱ぎ捨てると、王は、ふーっと息をついて椅子に腰を下ろした。
「まったく。余は見世物のお飾りではないのだぞ。履物にまで金糸を使いおって」
ぶつぶつ言いながら、履物の糸も解いて放り投げる。
「そこの、元の履物を取ってくれ。」
「はい」
擦り切れた革の履物を取り、チェセメトは、膝まづいて王の足に履かせた。
(この足も、がっしりしてる。…とても、強そう)
考えてみれば王は、今まで病気一つせず、高齢にしては壮健そのものだった。
王位更新祭でも、歩いているかと見まごうほどの遅々たる歩みだったが、それでも、長い距離を杖もなしに一人で巡りきっていたのだ。
「余が、心配か?」
チェセメトの眼差しに気づいて、老人はにやりと笑った。
「なに、年はとったが、まだまだこのとおり。衰えてはおらんわ。」
「あ、あの…もうしわけ、ない…ございません」
「ふん。謝らずともよい。余がいつ倒れるかと、心配するふりをしながら、何ぞ期待する者たちがおるのは、よく知っている」
骨ばった大きな手を膝の上にやりながら、王は、挑むような眼差しを、どこか遠くへ向けた。
「確かに余は老いたが、飛べぬほどではない。まだまだだ。まだ飛べる。ひよっ子どもに託せるものか。そうだとも――かつてのように戦場を駆けることは出来ずとも、まだ……」
いつもと同じだ。
老人の昔物語。過ぎ去った、遠い記憶の中の時代を、とめどなく語り続ける。
物語の中に出てくるのは、若かりし頃の自分。そして、今はもういない仲間たち。
輝ける日々を思い出している時だけ、王は、かつての力強き眼差しと口調を取り戻す。
――けれど、それも長くは続かない。
いつしか、言葉が途切れがちになり、やがて、老王は静かに寝息を立て始める。語り疲れてしまったらしい。
そうっと立ち上がろうとした時、チェセメトは、部屋の入口に人の気配があることに気がついた。
「あっ…」
見覚えのある、若い執事だ。――いつだったか、一緒に荷物を運んだ。
チェセメトは大急ぎで立ち上がり、叱られるものと思って壁際に飛び退いた。ティイ王妃に仕える、しかも下級の侍女である自分が、恐れ多くも王の側に侍ることなど、許されるものではないと知っているからだ。
けれど、その若い執事は、苦笑しながら小さく首を振っただけだった。
「お話を遮ってはいけないと思って待っていた。だけど、眠ってしまわれたご様子だから…また、後で伺おう」
それだけ言って、踵を返す。
「ティイ様は奥の部屋においでだ。君も、早く行ったほうが良い」
「…はい」
ぺこりと一礼すると、チェセメトは、さっきティイの出ていったほうの出口へと駆け出した。
そして、部屋を出ながらふと振り返った時、執事の向こうに立つ、もうひとりの人物に気がついた。
(あれは…)
ラメセス王子だ。柱の陰で、若い執事と何か言葉を交わしている。
その彼が、ちらと王のほうに眼差しを向けた時、チェセメトは、思わず目を疑った。
ぞっとするほどに、冷たい眼差し。
実の親子のはずなのだ。それなのに、息子が老いた父親に向けるものとは、到底思えなかった。
見てはいけないものを見てしまったような気がして、彼女は、大急ぎでその場を立ち去った。
(きっと、待たされたのに眠ってしまったから、腹を立てていただけ…何かの、かんちがい)
そう、思いたかった。
幸い、チェセメトが姿を消していたことには誰も気づいておらず、ティイは、まだぶつぶつと文句を言いながら化粧を直していた。
息子のカエムワセト、それに、お気に入りの執事のメリアメンも一緒だ。
「まあ、陛下が頑固なのは今に始まったことではありますまい。それに、ラメセス殿下が乗り気でないのも分かっていたこと」
「それは、そうですけれど。これだけ苦労してお膳立てをして差し上げたというのに、あんな風に二人して、わたくしを責めるなんて」
王妃は、まだ腹を立てているようだった。
「普段は、ろくに言葉も交わさないあのお二人が。」
「気質は似ておいでなのですよ。どちらも軍人ですからね。いっそ、戦車を飾ったほうが良かったんじゃないですか? それなら、お気に召したかも」
陽気な声で言いながら、カエムワセトは、窓際で干したナツメヤシの実をつまんでする。
「久しぶりにお会いしたけれど、兄上、随分と元気そうだったなあ。…あの方も、長生きしそうだよね。父上のように」
「ええ。呪われたって死にやしなさそうなくらいに、ね。」
毒づいた言葉の端に、微かに暗い影が落ちる。
三人が、意味深な視線を交わすのが見えた。
「…母上、段取りに変更は?」
「ええ、少しだけ。ラメセスには、昼間から陛下の代理で神官役として神像に付き添ってもらうわ。その後は、夜明けまで儀式が続く。陛下は夕刻に神殿にお出ましになったら、その後は、すぐに王宮にお戻りになるそうよ」
「なるほど。儀式の重要なところはすべて、兄上に任せるというわけですね。では、その後は、父上はお一人に?」
「わたくしが、陛下とともに王宮に戻ります。お前は、ラメセスの動きを見張…見届けなさい。」
「仰せのままに。」
カエムワセトは、白い歯を見せて爽やかに笑った。
「兄上のことは、こちらで引き受けますよ。お任せ下さい。」
(…?)
会話を聞き流しながら、チェセメトは、微かな違和感を覚えていた。
祭りの段取りを相談しているはずなのに、どうにも、そうは思えない妙な雰囲気がある。
「そうだわ、メリアメン。例の協力者たちの手配は、どうなの」
「は。準備してあります。ルッカ人にシェルデン人、それにヘテから流れ着いた異国人。元が傭兵の一族ですし、たっぷりと報酬をはずんでありますから、必ずや、良い働きをしてくれるでしょう」
「そう。異国人というのは良い考えね。後腐れがないし、畏れというものを知らないから」
「それに、ああいった連中というものは、報酬さえ貰えれば何だってしますからな」
執事のメリアメンの悪意の籠もった笑みは、チェセメトには酷く邪悪なものに思えた。もっとも、あからさまに異国出身の使用人を見下す態度は、彼に限らない。あの、ケリとかいう若い執事のように、名前を覚えて普通に話しかけてくれるほうが珍しいのだ。
ティイの化粧直しが終わると、侍女たちは次の仕事のために引き下がってゆく。
「さて、それでは私は、手配の続きを」
「ええ。お願い」
メリアメンが去り、ティイのほうも、カエムワセトを連れて立ち上がる。
「船の準備を見に行きましょう。それから、お前には新しい剣を準備しておいたのよ」
「へえ。それは楽しみだなあ」
父子の仲も、腹違いの兄弟仲もどこかギスギスしたものに思えたが、この母子だけは一心同体のように仲が良い。
ただ――
既に成人した息子と母親との関係にしては、いささか親密すぎるような気もする。
微かな違和感と、胸騒ぎ。けれどチェセメトには、目の前で起きていること、起きようとしていることが何なのか、分かっていないのだった。
女主人の不在の間、残された侍女たちは屋敷の掃除をしたり、縫い物や織物をしたりと様々だ。
高いところの拭き掃除や、天井から窓辺に垂らす日除け布の取り付け、取り外しなど、大量のいる仕事は大抵がチェセメトの役割にされている。
その日も彼女は、日よけ布の向きを変えるため、柱によじ登っていた。
夏の盛りだ。
日差しは強く、窓辺に入ってくる僅かな日差しでさえ、漆喰の壁に反射すると眩しく感じられる。ティイが気づいて文句を言う前に、日除けをきちんと取り付けておきたかった。
柱の上で縄をよじっている彼女の眼下では、裏口に集まった侍女たちが、何やら深刻そうに額を突き合わせている。
(…何を、しているんだろう?)
チェセメトは、そろりと体の位置をずらし、少女たちのほうに身を乗り出した。
「本当なの? それは」
「しっ。声が大きい」
侍女たちは、頭上に突き出された黒い顔に気づくこともなく、熱心に話し合っている。
「あたし――、見たの。王妃様がいつも大事にしてる物入れの中に、陛下と、ラメセス王子の名前を書いた蝋人形が入っていたのよ。髪の毛が埋め込んであった…。あれ、呪いの人形よ」
一人が言うと、残りの全員が小さく息を呑む。
「いやだあ、怖い」
「どうして、そんなことするのよ。義理とはいえ息子と、夫でしょう?」
「決まってるじゃない。お二人が亡くなれば、次の王は…。」
淀んだ沈黙が、辺りに落ちる。
「…誰にも言わないほうがいいわ。聞かれたら、殺される」
「恐ろしい…恐ろしい」
「大丈夫よ。何もないわ。だって、陛下も、ラメセス様も、とてもお元気じゃない。呪いなんて効かないのよ。ね? きっと、いつもの癇癪の続きよ。そうに違いないわ」
「でも…」
「最近、執事のメリアメンと、やけにコソコソしているじゃない。まさか…ねえ」
少女たちは、なおもひそひそと、深刻な表情で、最近見かけたことや、噂話に聞いたことなどを話し合っている。
(呪いの、人形…)
チェセメトにも、思い当たることはあった。
いつだったか、一緒に荷物を運んだ若い執事が見つけた、あれのことだ。
「君も殺される」。
彼は、すぐさま人形を元通りに隠しながら、真剣な表情でそう警告した。ということは既に、誰か殺されたことがあるのを知っていたに違いない。
だとしたら、侍女たちの恐れも、根拠のないものではなさそうだ。
(王妃さまが、王さまを呪っている…)
あまりに現実離れした事態に、チェセメトには、それが現実の出来事とは思えなかった。
(本当に、そうなの? 死んで欲しいと思ってる? そしたら…わたしは、どうしたら…?)
相談する相手など、思い使いな。けれど、誰か、王さまに警告出来る人、心配してくれる人に話せば、もしかしたら。
急いで布を取り付けてしまうと、彼女は、後宮の外壁のほうへと駆け出した。王妃づきの侍女たちでは何も出来ない。執事たちなら…或いは、兵士なら。
厨房に続く出口までやって来たとき、ちょうど壁のあたりで、執事たちが、何やら壺をロバの背に積み込んでいるところに出くわした。形からして、油壺らしい。
「ふう。このくらいあれば、十分だろう。――当日、騒ぎを起こすのには足りそうか?」
「しっ。声が大きいぞ。ラメセス殿下も戻ってきているんだ。耳聡い皇太子に悟られたら、何もかもおじゃんだぞ」
一人が警戒するように周囲を見回したので、チェセメトは、とっさに物陰に飛び込んだ。
執事たちは、何をしている?
いま、話していることは…一体…。
「上手くいくのか? もし、失敗したら、我々も…」
「いくに決まってる。もう、引き返せないんだ。もしも、ティイ様かカエムワセト様が捕まりでもしたら、全員の名前を言うに決まっている。そうなったら、良くて生き埋めか、縛り首だ」
「…うう」
気弱そうな執事が、小さくうめいた。
「こんなこと、本当にしなくちゃならないのかい」
「当たり前だ。どっちの殿下につくか、って話なんだぞ。やらなきゃ、何か理由をつけて体よくクビにされるだけだ。ラメセス様は都に寄り付かない。下々の者にも興味はない。助けてくれまいよ」
「も、元はといえば、まともに玉座に座ってもいられないくせに、いつまでも座り続けようとしている陛下が悪いんだ。王位更新祭でまともに走ることすら出来ない。ラメセス様は都に戻っても来られない。下々の者に目を向けて、施しを下さるのはカエムワセト様なんだ。太陽神の後継に、鷹神の玉座にふさわしいのは、あのお方なんだ…」
壁に背を押し当てたまま、チェセメトは、口元に手をやった。声を上げないよう、耐えているのがやっとだった。
(あの人たちも? ――あの人たちも、何かしようとしている…?)
知らず知らず、体が震えだしていた。
王妃も。
王子も。
執事たちも。
チェセメトの知る、狭い世界に暮らすほとんどすべての人たちが、暗い企みに加担して、――彼女が大切に思う、役に立ちたいと願う人のことを、害そうとしている。
ここに味方は誰もいない。
彼女は、それを悟ったのだった。
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