第十三話 ケリ/密告者

1/1

11人が本棚に入れています
本棚に追加
/19ページ

第十三話 ケリ/密告者

 ケリがラメセス王子と再び面会したのは、王子が都に戻ってきて直ぐのことだった。  皇太子の久方ぶりの都への帰還だ。王族はもちろん、並み居る重臣、貴族たちも面会を求めていたはずなのに、それらの人々に先んじてケリを、しかも伯父ペレムヘブの同伴なしに呼び出した。  一体、何の用なのか――とは、疑問に思わなかった。  用向きといえば、一つしか思い当たらない。だが、この数ヶ月、「ラメセス王子の不興を買って左遷された」という世間の評判に振り回され、いつしか自身でも、本当にそうだったのではないかと思いはじめていたケリにとって、呼び出しは、意外なことのようにも思われた。  内密の召喚を受け、宵闇に紛れて向かった先は、普段あまり使われていない郊外の離宮だ。  一人で来るようにと言われたのも、宰相であるペレムヘブまで出かけたのでは、誰かに怪しまれないとも限らない、という配慮からだったのかもしれない。  通された先は、奥まった、静かな応接室だ。酒や珍味、豪華な宴席があるわけでも無く、カエムワセト王子の呼び出しとは全てが正反対だ。召使いすら侍っておらず、本当に「二人きり」の面会だった。  「人払は済んでいる。お前が今日、ここに来ることは、私の副官しか知らぬ」 言いながら、ラメセスは自らの手で水差しを取り上げ、杯に注ぐ。  「酒の席、というわけにもいかぬからな。これで我慢してくれ」  「――いえ。勿論、分かっております」 かしこまって向かいの長椅子の上に腰を下ろしたケリは、油燭台の朧げな光の中に浮かび上がる、黒々とした眉と髪。日焼けした、引き締まった顔立ちは、ウセルマアトラー王に良く似ている。軍人らしい減り張りのある機敏な仕草、指先まで引き締まった体躯。軍の司令官にして、王の共同統治者。威厳に満ちた、文句なしの王国の世継ぎだ。  だが今、脅かされようとしているのは、その、ラメセスの継ぐべき玉座なのだ。  黙っているわけにも行かない。ケリは、当たり障りのない世間話から始めた。  「北の国境の警戒は、相変わらずなのですか」  「うむ。未だ国境の先は安定しておらず、父上がかつて平定したあたりにも、定期的に難民が流れ着いては勝手に住み着く。治安は良くないままだ。いずれ、難民共が再び、徒党を組んで波の如く押し寄せる時があるやもしれん。――気は抜けないのだ。祭りにうつつを抜かすような余裕もな。」 杯を手に、男は、暗がりの向こうに、睨むような視線を投げかけていた。  北の街から長旅をして来たばかりだというのに、ラメセスにはいささかの疲れも見えない。気力も、体力も漲っている。  それは、力強い口調にも現れていた。  「――お前が調べたことについては、ペレムヘブから全て、報告を受けている。」 雑談もそこそこに、ラメセスは本題に入った。  「私が知りたいのは、義母と義弟らが実行しようとしている具体的な策だ。連中は、どのようにして私を追い落とし、父上の跡継ぎの座を手に入れるつもりなのだ? 既に調べはついているのだろう?」  「…はい。ある程度までは」 研ぎ澄まされた言葉は、まるで槍のようだ。うっかりすると刺し貫かれてしまいかねない。  ケリは言葉の盾を掲げるようにして、おっかなびっくり、ラメセスに対峙する。  「ティイ様は、公の場で陛下に、皇太子の座をカエムワセト様に譲ると言わせたいのです。そうすれば、翻意もたやすくなくなるはずだと。そのための舞台が、『谷の大祭』。アメン大神殿の神官たちの多くは買収済み、祭りの当日に、ティイ王妃の行列を出迎える場には、懇意にしている者たちが並びます。ティイ様とカエムワセト王子が陛下を出迎えた時、それらの者たちが『カエムワセト様、王の後継者、万歳』を叫ぶのです。大衆に人気のあるのはカエムワセト様のほうですから、雰囲気に釣られて、一緒になって万歳を叫んでくれれば、陛下が流されてくれるだけの雰囲気が作れると持っているようです」  「ほう。だが、私が居るぞ。まさか私の目の前でそれをやるのか?」  「ラメセス様の、神像とともに歩まれる行列のほうは、途中で”問題”が起きて到着が遅れることになっています。陛下が迷ったとしても、その前に買収された神官たちが、カエムワセト王子を皇太子と認める儀礼を行い、祝辞を述べる。ラメセス殿下は、そこへ到着するのです。…既に廃嫡された、ただの『北方の軍司令』として」  「はははっ! 笑えぬ冗談だ」 ラメセスの手の中で、強く握りしめられた杯が、みしりと音を立てた。ケリは思わず首を竦め、身を固くする。  だが、男は冷静ものものだった。  目の奥には怒りが燃え上がっているものの、声を荒げるほどではない。これほどの屈辱的な事実を知らされてもなお、ぎりぎりのところで、己を律して表に出さずに耐えている。恐ろしいまでの精神力だ。  「――策は分かった。しかし、何とも幼稚な茶番だな。そんなもので、あの父上を心変わりさせられる、とでも? しかも、この私を、ただの軍司令にする、だと? 出来るとでも思っているのか。一体どれほどの者を買収出来たかは知らぬが、見返り欲しさに舌を売った者など、またすぐ別の者に寝返るに決まっている」  「…この一件に関わっている者たちの名簿は、伯父に提出してあります。必要ならば、殿下にも写しを」  「ああ、そうしてくれ。」 微かな苛立ちとともに、ラメセスは、無言のまま天井を振り仰いだ。  怒りを鎮めようとしているのか。それとも、これからどう手を打つべきかを考えているのか。  「――あの」  「下がってよい。お前は引き続き、連中の懐を探れ。決して間者と悟られるな。分かったな」  「…かしこまりました」 深く頭を下げ、ケリは、そろりと退出する。  部屋の入口で振り返ると、ラメセスはまだ、どこか虚空を睨んだまま、深く考え込んでいた。  離宮の外に出ると、涼しい夜風に少し、ほっとする。  知らず知らずのうちに、緊張で体がこわばっていたらしい。気が抜けると同時に、軽い頭痛とめまいを覚えた。  (殿下は怒っていらっしゃったな。無理もない。――でも、何が起きるのか分かっていれば…防げる)  これから何が起きるのか、ケリにも分からなかった。  関わった者たちの中には、大貴族や王族の末端、大神殿の神官、執事、それに、「上の国」の宰相の部下の役人たち、警備の兵など、多数の、多岐にわたる職業、階級の人々がいた。それらを一度に粛清することは、たとえ皇太子の権限を持ってしても無理だろう。王ですら、出来るかどうか分からない。  確固たる証拠をもって断罪出来るのは、せいぜいが、神官や執事、役人たちくらいだ。王族、ことにティイ王妃やカエムワセト王子ともなれば、嫌疑くらいでは失脚させられまい。  (そうだ。これは、どちらにとっても分の悪い企みだ…) 目立たぬよう頭からすっぽりと頭巾を被り、ひとけの無い葦の茂る川べりを歩きながら、ケリは、さっき自分が報告した筋書きを思い出していた。  ラメセス王子の言うとおり、いくら祭りの高揚した雰囲気の中だとしても、王が雰囲気に流されてカエムワセト王子を皇太子として祭り上げるなど、するとも思えない。  大衆は面白がるかもしれないが、王は、ウセルマアトラー陛下は、そのような茶番に流されるほど意思が弱くはない。  それに、既にティイも薄々感づいているだろうが、カエムワセト王子は、後継者の器とは看做されていないのだ。  世間では「いつもカエムワセト王子が王の側にいる」と噂されているが、それはただの、息子としての親しみだ。孤独な王が、臣下の礼を伴わず気さくに接することの出来る、数少ない身内だというだけなのだ。  (ティイ王妃に誤算だったのは、どれだけ悪い噂を流しても、何をしても、都に寄り付かない皇太子が陛下の寵を失わずに居続けたこと。――陛下も元は軍人だからだ。軍を率いる力を持たず、王宮で派手な暮らしをしている王子では、陛下の関心を惹けない。)  ケリは、思い出していた。  日だまりに椅子を持ち出して午後を過ごすウセルマアトラー王が、戯れの話し相手に選んだ異国の黒い肌の少女を相手に、楽しげに昔の武勇伝を語っていた時のことを。  孤独な老人に必要だったものは、真剣に、相槌を打ちながら、自分の話に耳を傾けてくれる”誰か”だった。  ただそれだけだった。  (ティイ様は、やり方を間違えた。この企みは、きっと成功しない。でも、立ち止まることもしないだろう。たとえ今回は失敗しても、次の機会を狙う。何度でも、…多分) そして、ラメセスが王位を継がない限り、それはずっと続くのだろう。  王妃と王子を追放する権限を持つのは、王ただ一人なのだから。  しかし、その数日後、事態はケリの思いもよらなかった方向に動き出した。  「おい、ケリ! 大変だ」 いつものように出勤した彼のもとに、同僚執事の一人、ピベスが血相を変えて駆け寄ってきた。  「どうしたんだ、そんなに慌てて」  「メリアメンが、ラメセス殿下に呼び出されたんだ。その…王の許可を得ずに『白い家』から搬出した品の、使いみちについての事情聴取だって」  「…えっ?」 意外すぎた。  あの思慮深いはずのラメセスが、まさか、そんな直接的な手段に打って出るとは。  (そんなことをすれば、他の連中が警戒する。…まるで、感情に任せてやっているみたいじゃないか) 焦りと驚きは、表情に滲み出ていたに違いない。ピベスは、きっと相手も自分と同じ理由で驚いているに違いないと思い込み、大きく頷きながらケリの腕を引いた。  「ま、まさか、オレたちまでしょっぴかれるってことは、ないよなあ? ティイ様にお仕えしているんだし…忙しいって断れば、呼び出されても行かなくて済むよな?」  「落ち着け。いくら皇太子だって、執事を勝手に牢屋に放り込むなんて出来やしないさ。カエムワセト殿下が…その、きっと何か、口を利いてくださるだろう。」  「ああ、そうだ。きっとそうだ。それに、オレたちは別に、直接何かしたけじゃないんだからさ…」 ピベスは気の毒なほど、うろたえている。  (この調子なら、呼び出して少し脅すだけで全部吐き出してしまいそうだ) ケリは内心で少し呆れながらも同僚を落ち着かせ、自分は後宮へと向かった。  そこでも朝から大騒ぎで、様々な噂が飛び交っていた。  「ティイ様のいとこの旦那の、衛兵隊長が解任されるかもしれないって。勝手に身内ばかりを衛兵に採用して、兵の練度を著しく下げた…職務怠慢だって」  「恐ろしい。皇太子殿下の改革よ。これだから、あの方が都に戻ってくるのが嫌なの」  「身内贔屓なんて、どこでもやってる。言いがかりだよ」  「もう即位したおつもりなんじゃないのかい」  (……。) ケリは、黙って噂を聞きながら通り過ぎてゆく。  衛兵隊長は、ケリが提出した名簿にも名前の載っている人物だ。ラメセスはどうやら、祭りの当日に王妃たちの企みに従って動く手はずになっていた中心人物を、片っ端から吊るし上げるつもりらしかった。  (先手を打っているつもり…なのか? あまりに急すぎる。それに…事情を知らない人々の評判は、最悪だ。) しかも、それだけではなかった。  噂話は、日を追うごとにどんどん増えていく。  「『白い家』の監督官が、懲戒処分になったそうよ。人妻と浮気して街の風紀を乱した、とかで。莫大な賠償が要求されてる」  「大神殿の神官が何人か、聖務をサボって酔払って出歩いているとこを捕まって、向こう一ヶ月は謹慎だって。祭りに出ることも許されないそうだ」 まるで、別件逮捕か、口実をつけて隔離するために罠にでも掛けたかのような手際の良さだ。  ケリの周りでは、ティイ王妃やカエムワセト王子と懇意にしている執事たちが、次は自分たちの番かと震え上がる。  王は相変わらず政治のことには無関心。  さしもの王妃も、自分に仕える執事のことならいざ知らず、表向きは無関係となっている神官や役人ほ援護するわけにもいかず、手をこまねいているしかない。カエムワセト王子も、下手に関わって兄の槍玉に上げられることを恐れて、目立つ動きは見せなかった。  ――そうこうしているうちに、祭りの日は、数日後にまで迫っていた。  「谷の大祭」。  短い夜に天に星々の輝くこの季節、大河の水位は一年のうち最も高い場所まで上がり、黒々とした水の流れは、赤茶けた荒野と崖に挟まれる谷の両岸を、広く潤している。  真夏の太陽。照りつける日差しの下に白く輝く大神殿。  祭りの準備は既に整い、参道には神の印がはためき、羊頭の獅子たちの首には花輪がかけられている。出店が並び、大通りは、あちこちの街から集まった見物人や巡礼者たちでごった返す。  だが、晴れやかな日を前に、後宮の空気は何処か暗く、沈み込んだままだった。  仲間の執事たちの表情も硬い。軽口を叩くこともない。壁の向こうから、下位の王妃たちがあれこれと用事を言いつけてくることもない。 やや手持ち無沙汰のケリに唯一、声をかけてきたのは、いつだったか、王の側に侍って、真剣に話を聞いていた、あの、黒い肌をした異国人の少女だった。  「あのう。…ケリ、あなたですか? ティイ様、お呼びです。探してこい、言われました」 おどおどした様子で、自信なさげに訛りのある言葉を話す。  「確かに、僕がケリだ。王妃様はどちらにいらっしゃるんだ。」  「この先、庭のあずま屋です」 少女は、離宮の外壁に近い場所にある中庭のほうを指差した。  (珍しいな。今日は自分の屋敷じゃなく、共有の庭に出ているのか) 壁の向こうに視線をやってから、彼は、頷いた。  「――分かった。すぐに行く」  他に急ぎの用事もない。  自分で言ったとおり、ケリは、その足でティイのもとへ向かった。呼びに来た少女は、ついては来ない。何か他にも、言いつけられていた用事があるのかもしれない。  後宮の外にある中庭は、ふだん、専用の屋敷を持たない下位の王妃たちが来客を迎えたり、仲間同士で気晴らしに集まるための場所だった。  けれど今日は、ティイ王妃が陣取っているとあって、他の王妃たちの姿は見当たらない。  ティイはたった一人、遠目にも判るほど不機嫌な顔をして、木陰の長椅子に腰を下ろしている。侍女たちは遠巻きにして、王妃の癇癪に触れまいと縮こまっている。顔や腕に痣のある侍女もいるから、よほどこっぴどく当たり散らしたあとなのだろう。  ケリが近づいていくと、ティイは、濃い隈取をした眼差しをキッと上げ、彼を睨みつけた。  「遅かったわね」  「申し訳ございません。」 それだけ言って、口を閉ざす。  下手な言い訳など無意味なのだ。機嫌が悪ければ、どんな理由があろうとも詰られる。  けれど、今日の王妃は、既に他のものに当たり散らした後のようで、小さく鼻を鳴らしただけで本題に入った。  「メリアメンが投獄されたわ。聞いているでしょうけれど」  「はい。」  「わたくしやカエムワセトが幾ら取りなしても、ラメセス殿は聞く耳を持たないの。陛下も、我関せずだし…。――全く、この時期に、余計なことをしてくれたもの。祭りの段取りは、全て執事たちに任せているというのに」 成程、それでティイは機嫌が悪いのだ。  平時なら、執事の一人くらい幾らでも替えを立てられる。けれど今は祭りの直前で、「裏の」段取りまで了解している執事は、そう何人も居ないのだ。メリアメンは、計画の実行者の一人だった。このままでは、せっかく練り上げた企ての指揮を取る者がいない。  それだけではない。ラメセスの行列を邪魔するために、ボヤ騒ぎや乱闘騒ぎを起こすはずだった警備隊長も、神殿前で、カエムワセトを讃える声を上げるはずだった神官たちも、もはや動けない。  ラメセスは、事前に計画の中心にいる、主だった人々を捕らえさせている。  既に計画はばれているも同然なのだ。それは、ティイにも、カエムワセトにも、十分に判っているはずだった。  だからこそ、――次に出てきた言葉は、ケリにとっては、全く信じがたいものだった。  「このままで、済ませないわ。ラメセス殿がそのつもりなら、わたくしにだって覚悟というものがある」 細く整えた親指の爪をきつく噛み、ティイは、重々しく言った。  「陛下には、ここで玉座を降りていただかなければ。」  「…え?」 我ながら間抜けな声を出してしまったものだ、と思う。  けれどそれ以外に、反応のしようもなかったのだ。この状況で、何故、そんな言葉が出てくる?   「退位していただく…ということですか? ですが、陛下がそれを呑まれるとは思えません。王は命ある限り、その座にとどまる習わしです。譲位する場合には、皇太子を共同統治者として立てることに――」 馬鹿げたことを言っているとは、自分でも思っていた。そのくらい、目の前の王妃が知らないはずもない。  ティイは薄く笑みを浮かべ、困惑しているケリのほうに、凄みのある眼差しを向けた。  「まだ、分からないの? のですよ」  「……!」 ティイの言わんとしていることを理解した途端、ケリは、思わず一歩、後すさっていた。  それは、口にするのも恐ろしいことだった。  「まさか、――陛下を…こ、こ、」  「祭りでお疲れになり、寝所で倒れられて――という筋書きは、どうかしらね」 くっくっと小さく笑うティイの白い横顔には、もはや自制という言葉は何処にもない。何もかもが常軌を逸しているように思えた。王を、玉座にある鷹を暗殺する?  (一体、どうやって。出来るはずがない。毒でも盛るつもりなのか? それとも、口元に布でもあてて窒息させる? いや。何をしても不自然すぎる。第一、ラメセス殿下が都にいるんだぞ。すぐに調査される。)  「そ、それでも――もし、陛下の身に何かあったとしても、皇太子殿下がいるのです。即位されるのは、ラメセス様ですよ」  「その前に、カエムワセトが即位を宣言すればいいことだわ。同時にラメセス殿の身柄を拘束する。陛下暗殺の嫌疑は、ラメセス殿にかぶっていただくのよ。なかなか王位が回ってこないことに痺れを切らして手を下した、とね。良い考えでしょう?」  (無茶だ…) ケリは、思わず頭を抱えそうになった。もしも自分がメリアメンで、ティイ王妃と一蓮托生だったなら、どんなに絶望しただろう。それとも彼には、王妃の思いつきを諌めながら、少しでも現実的な方向に誘導するだけの頭は、無かっただろうか。  短気で気分屋。  追い詰められると、自棄としか思えない策を選ぶ。  ティイは、そういう人物だった。  (この人は、あまりにも…浅慮に過ぎる。…ラメセス殿下や、伯父さんの敵ではない。勝てるわけがない) けれど、ここで望まれている役割は、彼女の無謀を諌めることではない。  黙って聞き、受け入れるふりをしながら、後で伯父たちに報告することなのだ。  「頼れる執事はもう、お前くらいしかいないの。」 王妃は、まだケリを疑っていない。自分たちの忠実な仲間だと、信じ切っている。  「…判りました。出来る限り、お手伝い致します…段取りを教えて下さい。私は、何をすれば良いでしょうか」  「お前には、メリアメンが当日こなすはずだった役割を任せます。陛下が王宮に戻られる時、わたくしに随伴しなさい。」 ケリの心中にある複雑な思いなど気づきもせず、ティイは、恐ろしい計画を淡々と口にする。  「王宮の裏口に、手を下す者たちを待たせてあるの。当日は衛兵も居ない。陛下がご寝所に入られたら、お前はその者たちを呼びに行き、寝所まで案内なさい。それで、全てが終わる」  「カエムワセト殿下は? その後、どのようにして玉座に就かれるおつもりですか」  「お前が陛下の寝所に向かった後、大神殿にいるラメセスを捕まえにゆくわ。ラメセスの部下の一人が王宮に侵入したと、何人かに証言させる。祭りのあとすぐに裁判を開くのよ。そして有罪を言い渡す」  「……。」  「わたくしたちにはもう、お前だけが頼りなのよ、ケリ。」 ふいに声色を変え、ティイは、媚びるような眼差しをケリに向けた。  「お前だって、ラメセス殿には煮え湯を飲まされてきたのでしょう? カエムワセトが王になれば、報酬も、地位も、望むがままよ。見返りは用意する。だから、…ね?」  「…心得ております、ティイ様。何事も、仰せのままに…カエムワセト様に栄光のあらんことを」 頭を垂れながら、ケリは、僅かな憐憫の情を覚えていた。  偉大な父親のもとに育った、才気に恵まれた先妻の息子と、野心に富みながら凡俗な、どう足掻いても家督に預かれぬ後妻の息子。  貴族の名家や有力家系でも在りそうな構図だ。そう、家を継ぐに当たっての兄弟間の確執など、世の中の何処にでもある。カエムワセトとて、俗物ではありこそすれ、無才というわけではなかった。或いは別の場所でなら、その才能を発揮できたかもしれない  問題は、――彼らの継ぐべき「家」というのが、この国そのもの――大いなる家(ペル・アア)だった、ということなのだ。  ティイのもとを辞したあと、ケリは、胸の奥にどこか虚しさを覚えながら、王宮へと向かっていた。  そこに滞在しているはずの皇太子ラメセスに、ティイたちの企てを伝えるために。
/19ページ

最初のコメントを投稿しよう!

11人が本棚に入れています
本棚に追加