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第十五話 チェセメト/黒犬は駆ける
川の対岸の賑やかさとは裏腹に、王の滞在する王宮のある西の対岸は、静けさの中にある。
ひっそりと川を渡り終えた御座船からは、船の中ではや重たい王冠を脱ぎ捨てた老王が、王妃ティイに手を取られながら、ゆっくりと降りてくる。
「陛下、足元にお気をつけて」
「うむ。」
岸辺に到着すると、すぐに待っていた輿が王の身を載せて王宮に向かって進み出す。先導役の侍従や、王妃についてきた侍女たちの翳す灯りが、行列となって川べりの道を続いている。
王宮に到着すると、王妃は、ついてきた侍女たちを解散させた。
「お前たちはもう、いいわ。先に後宮に戻っていなさい。わたくしは、陛下がお休みになられてから戻る」
「はい」
侍女たちは、硬い表情で頭を下げる。チェセメトもその一人だ。
王妃は、今日はほとんどの侍女たちに暇を出していた。自由に祭りを見て回ってよい、朝まで戻らなくても構わない、と言って。
王宮までついてきたのは、チェセメトのような異国人や、仕えた年月の長い者、王妃の親戚から採用された者たちばかりだ。
そのことは、特に疑問にも思っていなかった。誰だって、一生の一度の特別なお祭りを楽しみたいと思うはずなのだ。気難しい王妃は、ここのところ、いつにも増して気難しく、何か考え込んでいることが多くなっていたが、今日くらいは、気前のよいところを見せたいのだとばかり。
けれど、ティイが王とともに寝室に消えたあと、付き添ってきた侍女の一人が、たまりかねて震える声を上げた。
「ねえ、…まさか、王妃様がやるんじゃないわよね? 幾ら相手が御老体でも、女の手じゃあ無理よね」
気がつくと、他の侍女たちにも一様に、怯えた色の表情が浮かんでいた。
「飲み物は、私が用意したわ。た、ただの果実入りの水よ。毒じゃない…」
「何か隠し持っていたかもしれない…どうしよう。もし、ティイ様が出てこられた時に、陛下がもう…亡くなられていたら、私たち…疑われる」
「どういう、ことですか」
一人、何も分かっていないチェセメトは、思わず口を挟んだ。
普段なら、そんなことはしない。他の侍女たちも、訛りのある異国人とは話したがらない。
けれど今夜ばかりは、この異様な夜の王宮で不安を共有しているという連帯感が、差別意識も、身分や出自の壁も、一時的に取り払わせた。
「今夜、陛下が殺されるのよ。ただの噂じゃなくて…ティイ様がそう言っているのを聞いた」
「私たちも協力者にされるのよ。断れない。断ったり逃げたりしたら、あとで殺される…」
「怖いわ。一体どうなるの? わたしたち、もう後宮に戻りたい。何も知らなかったことにしたいのに」
堰を切ったように、侍女たちの口から言葉が流れ出してくる。頭を抱えて震えている者もいる。
チェセメトは驚いて、青ざめた同僚たちの顔を見回した。
「だれかに、知らせ、しなかった? どうして」
「知らせるって、誰に言えばいいの?! 相手は王妃様なのよ。カエムワセト様だって関わって…。どうやって告発するの? 私たち、ただの侍女なのよ。偉い人たちは話なんて聞いてくれないわ」
「誰が敵で味方か、わからないのよ。どこにティイ様の仲間がいるかも分からない。執事たちだって、衛兵隊長だって協力している。他に誰に言えばいいというの」
「……。」
そう、チェセメトだけではない。彼女たちもまた、壁に区切られた、狭い世界に暮らす仲間だったのだ。
壁の外側と内側を繋ぐ者は、執事や、衛兵や、限られた人々だけだった。その彼らがティイに協力しているのなら、他に、味方は何処にも居ない。
チェセメトは、ごくりと息を飲んで、王の寝室に続く廊下のほうに視線をやった。
(王さまが、…殺される)
体の奥底から、かつて感じたことのない震えが沸き起こる。
それとともに、日だまりで楽しそうに昔の武勇伝を話してくれた、あの、笑顔が蘇ってくる。
(わたし、力もちだ。役にたてる。きっと)
考えているうちに、王妃が廊下の向こうから戻ってくるのが見えた。
「陛下は、一人でお休みになりたいそうよ。わたくしたちも、離宮に戻りましょう」
「はい」
ほっとしたような、どこか不安げな返事。
廊下を照らす松明の光はまばらで、衛兵や、ほかの使用人たちの姿もない。
皆、祭りのために出払っているのだろうか。これほど静かで人の気配のない王宮など、初めてかもしれない。
だから、チェセメトがティイの後ろに続く侍女たちの列からそっと離れ、闇に紛れて柱の向こうへと駆け出しても、誰も、見咎めることは無かったのだった。
巡回の兵の間を縫って、彼女は、もと来た道を駆け戻っていた。
誰かに見つかった時のためにと、体に纏っていた布を顔に巻きつけ、――とはいえ、黒い肌の少女など何人もいるものではなく、ほとんど意味がないことと思えたが――、それでも、挫けそうになる自分の気持ちを奮い立たせるには、十分に思われた。
さすがに、入り口には衛兵が立っている。
彼女は足音を忍ばせ、庭へと回り込んで、窓の下に身を潜めた。窓は、大人が立ち上がっても届かないほどの高さにあるが、身軽な彼女ならば一飛びだ。
窓枠に手をかけ、ほとんど音もなくするりと部屋の中に侵入する。
寝台の側に灯された火が、微かに揺れた。寝台に垂らされた薄い布の奥で、人影の動く気配があった。
「何者だ」
「…チェセメト、です」
少女は、正直に名乗った。自分の名など覚えてくれているものかは分からなかったが、少なくとも、それだけが自分が正直であることの証を立てられる方法だと思っていた。
寝台の側に寄って、床にすりつけるようにして頭を垂れながら、彼女は、たどたどしく口を開いた。
「やぶん…おそく、すいません。申し訳ありません。言うこと…あります。」
「口上はよい。何事だ」
「陛下、命、ねらわれてる。…今夜、殺されます。」
意を決して告げたのに、寝台の上にいる人物は、微動だにしない。
疑われているのかもしれない。チェセメトは、顔を上げた。
「ほんとう、です! だから…だから」
「そうか。」
意外なほど冷静な声が、ぽつりと言った。
薄い布を手で持ち上げ、老王は、その向こうからじっと、チェセメトの黒い眼差しを見つめた。
「側に寄れ」
招かれて、チェセメトは、恐る恐る寝台へと近づいた。
「もっとだ」
敷布の上に身を乗り出すようにして、灯りの下に、布に覆われたままの顔を突き出した。
「ほう。」
王は、ようやく腑に落ちたと言わんばかりに目尻に皺を寄せた。
「お前だったか、黒犬よ。――お前は、ティイの侍女だったな? ということは、ティイの企み、ということか。」
「……。」
「思っていたよりも、ましな方だったな。」
「え?」
「誰よりも余を亡き者としたいのは、ラメセスのはずだからだな」
意外な言葉だった。
硬直しているチェセメトの前で、老王は静かに唇を歪める。
「余が気づいておらぬとでも思っていたか? そうとも、知っていた。皆が、余の死ぬ日を待っていた。ティイなど取るに足りぬ、野望も欲望も見え透いた、浅はかな女よ。だがな――あれの思い通りにはならぬ。余が身罷れば、後を継ぐのは皇太子なのだ。そして、あれ以外にこの国を任せられる器を持つ息子はおらぬ。」
「王子さま、は…どうして…」
「余が生きておる限りは、いつまで経っても玉座に就くことは叶わぬからだ。あれも、あれを支持する有能な家臣どもも、既に余を邪魔者のように思いはじめている。この国のため、という大義を掲げて…。ティイが手を出さずとも、いずれ他の者がやって来る。…分かっておるのだ。玉座に必要なのは、より若い鷹だ。
そのためには――鷹の首は、獲られねばならん。」
低く、重々しい掠れた声が耳元に響く。
「逃げて…ください。そうすれば」
「いいや。余は逃げぬ。」
「そっ、それなら、わたし…戦う。ここで!」
「それも許さぬ。余に、女子供を盾にして死んだなどという汚名を着せようとするのか?」
強い言葉に気圧されて、チェセメトは、僅かに後すさる。
「どうしても、ですか」
「どうしてもだ」
「――…。」
王は涙ぐむチェセメトの黒い瞳を見つめて微笑むと、指にあった指輪の一つを外し、彼女の手の中に滑り込ませた。
「これを授ける。」
「…?」
「余の侍従の証だ。たった今をもって、お前は余の従者であることとする。余に仕えよ。余の命が尽きる、その時まで」
顔を上げると、強い意思の光を宿した眼差しが見つめている。
手の中にある硬い感触の上から、強く握り締める大きな両手がある。
「…はい」
「よし。では、その資格を持って余の身支度を手伝え。これから来客があるのだ。夜着のまま、寝台の上で出迎えるのでは、まるで寝たきりの病人のようではないか。王には、王に相応しい装いというものがある!」
ウセルマアトラー王は、どこか楽しげに立ち上がった。
「上着をこれへ。冠もだ。それから、そこの櫃を開けよ。中にまだ剣が入っているはずだ。久しく手にしたこともないが、――ああ、そうだ。その剣だ…」
朧気な闇の中に、影が踊る。
王宮は静けさに包まれたまま、善良なる人々はまだ、何も気づいていない。
空には星々の形作る銀の大河が流れ、地上の大河のほとりにも、人々の灯す祭りの光がきらめいている。
夜の片隅では”その時”が、静かに訪れようとしていた。
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