第十六話 謀略の果て

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第十六話 謀略の果て

 侍女たちを連れて退出してゆく時、ティイは、意味深な眼差しをケリのほうにくれた。  小さく頷いて、ケリは、重い足を引きずって、王宮の裏口へと向かう。  既に手はずは整えられている。彼自身が整えたのだ。――今日は特別に、待機の使用人たちも祭りの見物に出ても良い、という触れを出し、最低限の人員だけを王宮内に残した。それらの人々は、予め選んでおいた、ティイ王妃の身内や、カエムワセトの息のかかった人々ばかりだ。  皆、何が起きるのかを薄々と察している。  それでいて、恐ろしくて声を上げることも出来ないでいる。  皇太子ラメセスは、今頃、神殿で夜を徹した祭りに付き合っている頃だろう。そして二人の宰相たちも、この国のほとんどの重鎮たちも、その場に同席しているはずだ。  王宮の外には、一般の警備兵たちが巡回している。中に入り込んだ賊を、一人も逃さないためだ。  その点はラメセス王子も、ペレムヘブも抜かりはない。ケリが呼子を吹けば、彼らが外からなだれ込んでくることになっている。  だが、…その時にはもう、ウセルマアトラー王は。  固く閉ざされた裏口の前には、見張りはいない。  ケリは木戸の向こうをそっと伺い、予め決めておいた合言葉を口にする。   「夜の闇は暗い。この夜に(おとな)う者は、何者か」  「西の地平へと沈む太陽の船を追いかける星」  「…よし」 閂を引いて、扉を開くと、頭からすっぽりと布を被った数人の男たちが塀の中に滑り込んでくる。いずれも、がっしりとした体格の若者たちだ。  「あれ、あんた…?」 入ってくるなり、一人がケリを見て声を上げた。  「手引の執事って、あんただったんですかい」 被っていた布をとると、その下から現れたのは、見覚えのある顔――「白い家」の、ヘルマイの後を継いで倉庫長になったという、パレーだった。  よく見れば他の者たちも、皆、かつて御料地の倉庫で一緒に務めていた倉庫番たちだった。  マハバールにペルッカ。後腐れのない異国人を多く雇った、とは聞いていたが、まさか顔見知りとは思わなかった。  「やあ。」 マハバールは、相変わらずの気の良さそうな笑顔を向ける。ケリは唖然としたまま、ようやくのことで言葉を絞り出した。  「どうして、こんな? 君たちは倉庫番だったじゃないか」  「首になったんだよ。監督官が捕まったあと」 パレーが、吐き捨てるように言った。  「いい仕事だったのに、皇太子のせいだ。」  「奥さん食べさせていけない。泣かれた。けど、この仕事すればたくさん報酬入る。また仕事戻してくれる聞いた」 にいっ、と欠けた歯を見せてマハバールが笑う。  「もうひとりの王子様、いい人。」  「……。こっちだ、早く顔を隠せ」 ほんの僅か、彼らが本当に、これからの仕事のことを理解しているのかという疑問が浮かんだ。人ひとりの命を奪いに来たとは、到底思えないほどの陽気さだったからだ。  けれどふと、かつて「白い家」を訪れた時のパレーの言葉が思い浮かんだのだ。  ヘルマイを殺したのは「全員」だと、彼は言った。  (そうだ。彼らは既に一人、――少なくとも一人は、確実に殺している) そう思った時、心の奥に夜の冷たい風が吹き込んだ気がした。  彼らに罪悪感はない。  頼まれた仕事、実入りのいい依頼、自分たちの生活を守り、家族に良い暮らしをさせるために、…そのために、何の呵責もなく、この国の秩序と正義(マアト)を乱してゆく。  それが、彼らの”当然”なのだ。  足元から這い上がってくる冷気を振りほどくように、ケリは、暗殺者たちに背を向けたまま、足早に廊下を歩き出した。  王宮の中など初めてのパレーたちは、物珍しさからたびたび足を止め、まるで、見学にでも来たかのような気楽さだ。  (判っているのか? お前たちが今からしようとしていることは、前代未聞の大悪事なんだぞ) 歩きながら、ケリは知らず識らず腹を立てていた。  (どうして、こんな仕事を受けたりしたんだ? 一体どんな報酬を約束されたんだ。ヘルマイを殺すのとは、わけが違う。相手は――この国の、神聖なる玉座におわす御方なんだぞ) それと同時に、そんな悪事に加担しようとしている、自分の身の虚しさを思った。  心の奥から、咎める声が響くのだ。  理性では他に選択肢がないと分かっていながら、どこか納得していない自分がいる。  だが、もはや考え込んでいる暇は無い。  目の前の廊下の先に、王の寝所へと続く扉が現れた。  足を止め、ケリは、後ろをついてくる寄せ集めの男たちのほうを振り返った。  「あの先か?」  「…そうだ」 ここまでの間、誰一人、出会う者はいなかった。当たり前だ。自分を含む何人かの執事たちが結託して、そのように仕向けておいたのだから。  「よおし」 パレーは、何の躊躇もなく腰の剣に手をかけながら歩き出す。  「いくぞお前ら。とっとと片付けて、とんずらだ」  「へい」  (あっ…) あまりにも、軽すぎる。  ケリは呆気に取られたまま、恐れ知らずにも王の寝所に向かってゆく男たちの後ろ姿を見ていた。彼自身、一度も近づいたことがなく、今も、近づくことが出来ないでいるその場所に、彼らは、何の畏れも罪悪感も抱くことなく向かってゆく。  (待て…) 王は部屋の中にただ一人。既に眠っているかもしれない。  武装した若い男たちにとっては、簡単すぎる獲物だ。  このままでは――  考えるより早く、ケリの手は動いていた。  ペレムヘブは、「賊が陛下の寝所に潜り込んだら」と言った。けれど、それを待つことなど出来ない。  渡された呼子を懐から取り出し、素早く口に当て、思い切り吹き鳴らす。肺の中の空気の全てを注ぎ込んで、あらん限りに。  甲高い音が二度、三度、王宮の壁を越えて夜の闇に響き渡る。  「!」 寝所の入り口に手をかけようとしていたパレーが、ぎょっとした顔で振り返る。  「てめ…! 何を」  「まずい、誰か来たら」  「うるせえ、分かってる! 急ぐんだ」 それでも尚、男たちは留まらない。乱暴に扉を押し開き、整えられた寝室の中へと土足でなだれ込んでゆく。  けれど部屋の中には、空っぽの寝台が一つ。  「おい! 居ないぞ」  「隣の部屋だ! いた、あそこだ」 粗っぽい足音が、寝所と続きになっている控室のほうへと消えてゆく。  「ま、待て…」 ケリは、必死に辺りを見回した。遠くから人の声が、それに足音が近づいてくるのが聞こえるが、まだ遠い。  (止まれ…思いとどまるんだ。今なら、まだ…!) 自分でも何をしようとしているのか、はっきりと意識しないまま、彼は転がるようにして駆け出した。  寝室の奥のほうからは、争い合うような罵声と物音が響いてくる。壺が割れ、家具が引き倒されている。  驚いたことに、パレーたちと向き合っているのは、王衣を身につけ、冠さえ頂いて見事な装いで立つ老王の姿だった。足元には、王の剣に倒されたらしい男が一人、ぐったりとして蹲っている。  黒々と目を輝かせ、ウセルマアトラー王は高らかに吠えた。  「愚かなり、愚かなり。老いた鷹の首ならば、鵞鳥のように容易く絞め殺せるとでも思っていたか?!」 窮地にありながら、どこか楽しげなその声に、生き生きとした表情の輝きに、ケリは、どこかで聞いた遠い昔の武勇伝を思い出していた。  若かりし日の王が、いかにして押し寄せる蛮族たちを打倒し、海の彼方から来る滅びの波を押し留めたのかということ。  失われた父祖の地を再び平定するため、東の平原にも、海の向こうの鉱山にも、遥かな南の地にさえも兵を送り、自ら先頭に立って戦ったと――。  「余は鷹神の化身なり。力強きラー神の正義(ウセルマアトラー)なり! 小鳥(レキト)に過ぎぬ者どもが、我に食らいつけると思うな!」  「ひるむな!」 パレーが、唾を飛ばしながら醜く喚いた。  「相手はただの老いぼれ。見ろ、あんなにふらふらして。さっきのはまぐれだ。まともに剣が振れるものか! 行け! さっさとやれ!」 はっとして、ケリはとっさにパレーに飛びかかった。  「やめろ!」  「邪魔だ!」 殴りつけられて、ケリは壁際にある飾り壺まで吹っ飛ばされた。体ごとぶつかった衝撃で、陶器が砕ける。  額から流れ出た血で、視界の端がどす黒く染まっている。  王が剣を振り上げる。  そこへ、数人の男たちが殺到して、腕をひねり上げ、壁に押し付けて武器をもぎ取る。  「やめ…ろ…」 風景は見えているのに、音だけが遠い。意識はあるのに、体が動かない。  どこか遠くから、駆けつける衛兵たちの足音が聞こえた気がした。  パレーたちの悲鳴、揉み合う声。  それから――  「しっかり、大丈夫ですか? 気を確かに」 頬を叩かれて、ケリはうっすらと目を開けた。  一瞬、気を失っていたらしい。視界の端で、パレーたちが衛兵にこっびどく殴りつけられながら引き立てられてゆくのが見えた。  起き上がろうとすると背中が酷く痛み、割れた陶器の破片に傷つけられた腕は血だらけになっている。  どうやら、ケリの吹いた呼子で駆けつけた衛兵たちは、不埒な暗殺者たちを無事に引っ捕らえることが出来たようだった。  ほっとしつつ辺りを見回したケリは、ふと、衛兵たちが決して部屋の隅を見ようとはしないことに気がついた。  「これは酷いな…」  「誰か、布を。早く。お姿を隠すんだ。このような状態で人目に晒しておけないだろう」 背筋を冷たい予感が走り抜けた。  「まさか…」  「あっ、まだ立たないほうが」 よろめきながら立ち上がる彼を、慌てて衛兵の一人が支えようとする。その手を振り払い、ケリは、這うようにして壁に近づいた。  そして、見た。  赤い血溜まりの中に、踏み壊された王冠が落ちている。  大きく切り裂かれた喉元から流れ出した血が、乱れた王衣の胸元を濡らしている。  「あ、ああ…」 彼は床に崩れ落ちると、喉元から絞り出すようにして叫んだ。  「ああああ…!」 間に合わなかったのだ。  鷹の魂は既に肉体を離れ、西の地平を目指して飛び去った後だ。  壁にもたれかかるようにして虚空を睨む瞳はもう、この世の何者も写してはいなかった。 ******  夜明けの光。  チェセメトは、西の高台に腰を下ろして、地平線から挿してくる光に身を委ねていた。  気がついたらそこに来ていたのだ。長い哀しみの夜が早く明けてくれるように祈りながら、冷え切った体に少しでも早く暖かな日差しを浴びたくて。  後宮に戻る気には、なれなかった。また、戻ってもおそらくは無駄だだろう。  高台から見える王宮の周囲には、既に多くの人々が集まっている。後宮からは、白い夜着のままの王妃が、何か騒ぎ立てながら引っ張られてゆくところだった。侍女たちも一緒だ。  (…あたた、かい) 日差しの中で、握りしめた手を開く。そこには、老王に賜った、神聖なる印と王の名を刻んだ指輪が金色に輝いている。  一筋の涙が、黒い頬を伝い落ちる。  (王さま…。) 生き残った、とは思えなかった。予感があったのだ。あの優しい声、穏やかな笑顔の人は、もう――この世界の何処にもいない。  日だまりに椅子を持ち出して、うとうとしていた横顔が目に浮かぶ。  (今回のお話は…いつ、聞けますか。いつかまた、お話してくださいますか、王さま?)  膝を抱え、チェセメトは、声を上げて泣いた。葬儀に付き従う泣き女のように、兄弟である豊穣の神を失った二女神のように。長い髪を振り乱し、砂埃を被りながら泣き叫んだ。  鳶のような長く尾を引く哀悼の声は、西の谷間にずっと響き渡っていた。
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