終話 斜陽

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終話 斜陽

 報せを受けるや否や、ラメセスとペレムヘブは恐るべき手際の良さで容疑者の身柄を拘束していった。  企みに加担した者たちは、ケリが名前を記してペレムヘブに渡しておいた人々だけでなく、ケリの知らない人々に至るまで、全て、夜が明けないうちに捕らえられた。  そして最後には、首謀者であるティイが引き立てられた。  後宮には女たちの悲鳴が響き渡り、侍女たちは正気を失ったように泣き喚いていた踏み込んだ兵士たちは、立てこもって抵抗しようとしていた王妃を乱暴に引きずり出し、夜着のままで離宮へと連れていった。国王暗殺の濡れ衣をラメセスに着せるどころでは無くなったカエムワセトは、旗色が悪いと見て南の国境へ逃亡しようとしていたところを、従者たちともども捕まった、という。  後で聞いたことだが、ラメセスは、事前に有力貴族たちに王妃の企みをほのめかし、今のうちに手を切るならば罪には問わないと脅して、忠誠を誓わせていたのだという。  彼らもまた、祭りの夜に王の命が狙われるということを知っていたのだ。知っていて、本気で阻止しようとはしなかった。  玉座に登る新王の姿を側に眺めながら、ケリは、一抹の虚しさを覚えていた。  ――今はまだ若き王も、いずれは老いて飛べぬ鷹となる。  そしてまた、不要なものとして排除されてゆく。  王が神の写し身であるとか、神の血を引くとかいう伝説を、心から信じる者は、もはや多くはないだろう。  けれど少なくとも、かつては、玉座は「聖なるもの」であり、神に賜った特別なものと看做されていた。  それが、人の手で、人の意思でその玉座の上にあった者を引きずり下ろした今となっては、王位は、もはや臣下によって左右される、ただの役職でしか無くなった。  神話の時代はとうに過ぎ去り、そして今、最後の聖域が汚され、失われた。  もはや「王」は、鷹神の化身でない。  ただの「人」なのだ。  襲撃の夜に負った傷は幸いにして深くはなく、ひと月もしないうちにほぼ癒えた。けれど傷跡は完全に消えることなく、額に目立つ跡を残したまま、ケリは職場に復帰した。  勿論、執事としての職場のことだ。  ほとんどの執事たちが陰謀に加担したとして裁判にかけられている今、仕事に就ける者はそう多くはない。同僚たちの数は、かつての一握りにまで減ってしまっていた。  もっとも後宮の住人たちも、以前とは一変していた。  王が崩御すれば、その妻たちは地方に送られるかのが習わしだ。代わりに今は、新たな王となったラメセス――即位名としてヘカマアトラーを名乗る王の妻たちがそこにやって来ている。ティイのもとで贅沢に慣れた侍女たちもみな解雇され、全員が新たに雇い直しとなった。  ケリが、まだ仕事に慣れていない彼女たちに仕事を教えるのに骨を折っている間に、王暗殺の裁判は進み、多くの者が極刑に処された。  比較的軽い罪の者は、毒杯を仰ぐか首を吊ることで自ら命を断つことを許され、そうでないものは、もっと恐ろしい刑罰を与えられた。ティイは最後まで罪を認めず、こともあろうか裁判のさなかに裁判員を買収しようとして発覚し、余計に罪を重くした、という。  処刑の行われる日、ケリは、意を決してその場所に立ち会いに出かけた。  かつての同僚たち――「白い家」の監督官や倉庫番たちが、首を吊る日だと知らされていたからだ。  一瞬で命を奪われるという処刑方法は、王の身に直接、手をかけた大罪人にしては慈悲に満ちた判決だと、誰もが噂していた。最も新王も、あまりに罪人の数が多すぎて、手間のかかる処刑方法で苦しめる人数は減らしたいと思っていたのかもしれない。  「わあああ、マハバール! あなた!」 柵に取り付いて泣きわめく若い女性が、衛兵に無理やり引き剥がされ、どこかへ連れて行かれる。  「嫌だ…! しにたくない…!」 後ろ手に縛られた若い男が、槍に突かれながら青ざめた顔で喚いている。目の前に垂らされた縄に、どうしても首を入れようとしない。  「こいつ。早くしないか」  「言われた仕事、しただけなんだ。それなのに…嫌だあ!」  「黙れ! 陛下に刃を向けた大罪人が」 しまいには、兵士たちがよったかって男の首に無理やり縄をかけ、踏み台を蹴飛ばして吊るしてしまった。  (……。) 奥歯を噛み締めながら、ケリは、目をそらすまいと努力した。彼らの結末を、見届けなくてはならない。それが自分の務めだと思っていた。  暴れていた体が次第に力を失い、痙攣し、やがてぴくりとも動かなくなる。  並んだ他の縄に吊るされた、血の気を失った白い体と同じように。  (ああ…。)  ケリは小さくため息をつき、吊るされた体の上に自分を重ねて見ていた。  彼らは確かに罪を犯したが、悪党ではなかった。  自分と家族の幸せを願い、与えられた仕事と報酬に満足していただけの、善良な市民の一人でしかなかった。ティイやカエムワセトのように大望を抱くこともなく、過ぎた欲望も持ってはいなかった。  (…本当は、僕らだって同罪なんだ。陛下を見殺しにした。知っていて、見逃したのだから…。) 風に揺れる処刑場の縄を後に、彼はそっと、見物人の群れに背を向けた。  裁かれる者と、裁かれない者。  その間にあるものは、ほんの薄っぺらな区切りでしかない。  罰を受けた者たちの遺体は、家族のもとに返されることはなく、砂漠に運ばれて捨てられる。それどころか、一族の墓に名を刻むことも、人前で口にすることも禁じられる。裁判記録の中ですら、本名では記されず、いずれも呪われた名に置き換えられたほどだ。  罪も、罪人も、忌まわしい出来事も。全ては存在しなかったことになる。罪の汚れは死を持って祓われる。  誰もがこの気の滅入る事件を、一刻も早く忘れてしまいたいと願っていた。他ならぬ新王自身さえ。  ――秋を過ぎ、太陽の輝きは日ごとに短くなってゆく。  冬へと向かう道すがら、斜陽の季節が訪れる。  川の水位が下がり、田畑には畝が作られて、これから種苗の季節だ。農村では、既にその準備が始まっている。川の流れと同じく時もまた留まることなく、日々は淡々と過ぎてゆく。  死せる王の魂は、一部が大神となって天へ登り、一部が冥界へ下って冥界の王となる。  そして肉体は、職人たちの手で永遠を宿す”聖なるもの”となり、西の谷の墓所へと収められる。  葬儀が行われてから何日か経ったある日、ケリは、新王に命じられて西の谷の職人村を訪れていた。  運んでいるのは特別報酬だ。急な葬儀のため、職人たちに夜を徹して働かせた、その労いのための品。  給与の遅配や未払いの問題は、既に解決しているはずだった。「上の国」の宰相、カムオペトは更迭され、「白い家」の監督官も、倉庫長たちも全て入れ替えられた。財を浪費しようという後宮の王妃たちも、もう居ない。  久しぶりに辿った西の谷への道は、以前とは違い、今は、秋の草花がまばらに咲いている。  「あんた、前にも来たお役人じゃないのかい」 赤ん坊を抱いた女性は、やって来るケリと荷運び人を目ざとく見つけて、真っ先に家を出て来た。彼が、以前がここを訪れた時のことを覚えていたのだ。  「ええ、そうですよ。今日はヘカマアトラー陛下からの特別報酬を届けに来たんです。前陛下の葬儀をつつがなく終えたことへの感謝として」  「そいつは有り難いねえ。新しい王様になってから、給料もきちんと支払われてるし、いいことづくめだよ。――おーい、皆! 王様からの支給品だそうよ!」 呼ばれて、村に残っていた職人たちが集まってくる。  その中に、見覚えのある黒い肌の少女がいることに気づいて、ケリは、思わず目を疑った。  「君は、チェセメト…?」  「あ、はい」 少女が、なぜ自分の名を知っているのかと訝しむように顔を上げた。そして、ケリを見て、あっという顔になる。  「どうして君が、ここに」  「……。」  「おっ、何だい。こいつと知り合いかい」 チェセメトが黙っていると、脇から、かくしゃくとした老人が口を出した。  「こいつぁな、西の谷をふらついてるとこを見つけたんだよ。何でも、王妃様んとこから逃げて来たってんでねえ。変わった見た目だが、力はあるし、よく働くんで、うちで雇うことにしたんだよ。」  「そうなのか」  「…はい。わたし、ここで働く。王さま…近く、いるから」 もじもじと下を向きながら、少女は、はにかむように言う。  「そうか」 ケリは、それ以上は何も聞かないことにした。  王妃の侍女たちのほとんどは、企てを聞き知っていながら報告しなかった、として罪に問われている。その意味では彼女も罪人の一人に数えられるべきなのかもしれないが、裁判がほぼ終わった今となっては蛇足になる。それに、逃亡中の容疑者の名簿にも、彼女の名は入っていなかった。  王妃の側仕えの一人でありながら、誰ひとり、下級の使用人に過ぎなかったチェセメトこそが、最後まで先王の側にいた人物だなどとは、想像もしていなかったのだ。  「あの」 チェセメトは、伺うようにしてケリに尋ねる。  「王さま、陛下、は、ちゃんと戦えましたか? わたし――衣装、手伝ったので」  「君が?…」  「はい。最後、お客は王さまらしい格好で迎える、と言って」 ケリは、襲撃者たちを出迎えた時のウセルマアトラー王の格好を思い出していた。  冠に王衣、剣まで帯びて、まるで戦場に立つような出で立ちだった。あの時は無我夢中で疑問にも思っていなかったし、裁判でも、祭りの後でまだ夜着に着替えていなかったのだろうと結論づけられていたが、そうではなかったのか。  (陛下は――ご存知だったのか。ご自分が狙われていること…) そして、心を許した少女に命じて、密かにその時を待っていたのだ。  神の鷹は、最後まで鷹のままだった。  無力な老人としてむざむざ殺されるつもりなどなく、かつての”英雄”として、劣勢であれど一人でも最後まで戦い抜くと決めていた。  ケリの口元は、自然と綻んでいた。  気を失う前に見た絶望的な光景も、罪悪感も、全てが意味を変えてゆく。  「…ああ。凄かったよ、たった一人で五人も相手にしてね。二人倒して、一人に傷を負わせたんだ。最後には倒れてしまったけど、――物凄く、強かったよ…」  「よかった」 チェセメトは、明るい声で笑い、満面の笑みを浮かべた。  「いつか、そのお話も聞かせてもらう。わたしが死んだあと。楽しみ」  「…そうだな。…それはきっと、まだ誰も聞いたことのない、…誰も知らない、武勇伝なんだろうな」  あれから何度も、「どうすれば良かったのか」を繰り返し、繰り返し考えてきた。  もっと早く笛を吹いていれば良かったのか。  それとも体を鍛え、剣術の一つでも学んでおけば変えられたのか。  答えはいつも出なかった。もしもウセルマアトラー王を助けられたとして、もしもその後、王が長く生きていたら、どうなっていたことか。  腐敗した都の役人たちは、新王の即位によって一掃された。ラメセスはもちろん、カエムワセトも先に寿命尽き、後に連なる無名の王子たちのいずれかが即位する事態となっていたら、果たして、それまで国政は保っていたのかどうか。  結局は、ペレムヘブの言ったとおりなのだ。  「もしも」など無い。鷹の首は、――どうしても、獲られねばならなかったのだ。  それが、自分たちの選んだ正義(マアト)だった。  ケリも、チェセメトも、まだ、知るよしもない。  多くの血と首をもって保たれたはずの平穏は、その後、長くは続かない。  即位して名を変えた皇太子ラメセスーー新王ヘカマアトラーは、父王ほどの長寿に恵まれず、その後は、凡庸な王たちが有能な家臣に左右される時代となる。  家臣たちの権勢が王のそれを凌ぐものとなり、聖なる玉座の権威は、家臣や神官たちによって支えられるものとなる。  王の権威が単独で機能する時代は、最後の神鷹とともに終わりを告げた。  失われた太陽の輝きは、二度と戻らない。  栄光の「新王国時代」の終焉。  それから僅か五十年後には、複数の王たちが名乗りを上げて国土が分裂する、長き混迷の時代、後の時代に言う「第三中間期」が始まることになる。 <了>
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