第一話 ケリ/「嘘」と「まこと」

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第一話 ケリ/「嘘」と「まこと」

 はっ、はっと荒い息を吐きながら、老人が足を引きずって歩み去ってゆく。  朱と白に塗り分けられた、いささか大き過ぎるようにも見える儀式用の冠に古風な腰布だけを纏い、上半身はあらわ。陽を遮るもののも殆どない砂地に履物をとられながら懸命に歩んではいるものの、その歩みは遅々として進まず、手にした錫杖さえ今にも取り落してしまいそうだ。  居並ぶ重鎮家臣や貴族、神官たちは見るに耐えかね、半数ほどは視線を反らしている。忍び笑いをこらしている者、天を振り仰ぐ者、何やらひそひそと会話を交わす者、と、反応は様々だ。  今日は王位更新(セド)祭。  治世三十年を迎えた王が、その玉座に健在で在ることを示すための、晴れやかな舞台のはずだった。  だが、即位した時には既に中年を過ぎていた老体にとって、三十年目の体力の要る儀式は難題だった。  本来は健全さと統治能力が維持されていることを示すため、聖なる広場を「走って」一周せねばならないのだが、歩くのがやっと、それも、じりじりするほどに時間をかけている。  ケリは微かな苛立ちを感じながら、隣に直立不動の姿勢で立つ、硬い表情の男に視線をやった。  彼の母方の伯父であり、宰相の一人でもあるペレムヘブ。  この国には、宰相が二人いる。ペレムヘブは、国土のうちの半分、「下の国」――大河の流れを基準として、下流にあたる地域の民政全般を監理している。  上下の国、それぞれに一人ずつ居る宰相は、この国の実質の政治を行う重鎮中の重鎮だった。  その彼の立場ともなれば、大事な王家の儀式の舞台で、感情を露わにすることは流石に許されない。実に見事な無表情を貫いて、じっ、と王の姿を見つめている。  その横顔からは、男の心中を察することは出来なかった。  「はあ、…はあ」  荒い息をつきながら、老人が、ようやく最後の地点であるあずま屋へと辿り着いた。  椰子を組み合わせて作られたその小屋は、かつてこの国の初代の王たちが造っていたという原初の宮殿の形を模してあり、従者たち、王妃と王子たち、それに祭司が待ち受けている。  「お疲れさまでした」 美しい王妃が艶やかに微笑んで水を注いだ盃を差し出し、代わりに、祭司が前に進み出て、高らかに宣言する。  「ここに、陛下は聖なる努めを果たし、上下二つの国の王権を更新された! 活力を取り戻したる王を讃えよ!」  「万歳、ウセルマアトラー陛下! 生ける神よ、讃えられよ!」  「万歳!」 方々から、ようやくこの長い儀式が終わるという安堵の色を含んだ万歳の声が湧き上がる。中には、既に老いた王の姿など眼中になく、この後の祝宴で振る舞われるご馳走のほうに意識が飛んでいそうな者もいる。  老体を酷使して義務を終えた王は、従者たちに扇で仰がれながらぐったりと椅子に座り込み、年若い王妃と何やらぼそぼそと会話を交わしている。  ケリの目にはどうしても、「統治を続けるに値する活力と健在さを示す」という、この祭りの当初の目的は、十分に果たされたとは言い難く見えていた。  王位更新(セド)祭の舞台なる聖なる広場を後に、祝宴の席が設けられた離宮へと向かいながら、ケリは、憮然とした顔で上司の背中を見上げていた。  「不満そうな顔だな」  「それは、そうでしょう。趣味の悪い見世物のようです。こんなに人を集めて、大々的にやる必要があったのか。」  「……。」 日頃から無表情な男は、抑揚無い声でぼそぼそと言う。  「確かにな。だが、この儀式は古えより続けられて来たものだ。即位して三十年を経過した王は、必ず務めねばならぬ。そしてその後も、三年ごとに繰り返さねばならぬ。」  「だとしても、結果がこれなら、もっと人を絞ることだって出来たでしょうに。古来の儀式では、走れぬ王は、統治の権威を失ったと看做され、廃位されるのが習わしだったはず」  「そうだ。本来なれば」  「走ることも叶わぬ姿を見せつけて、努めは果たされた、などと…。これでは、王の威光をいや増すどころか、減ずるだけです」 そもそもが、ケリには全てが不満だった。  確かにウセルマアトラー王は、かつては幾多の戦場を切り抜け、「英雄」と呼ばれたこともある偉大な王だった。攻め寄せる外敵を退け、失われた北の国境の向こうの領地を取り戻した。かつて栄光の頂点の時代を築いた「大王」、――同じ「ラメセス」の生まれ名を持つ、過去の王になぞらえて見られたこともあった。  けれど今や齢六十をとうに過ぎ、いつ冥府へ呼ばれるやもしれぬ域に達している。  そして王は、年経るにつれ政治から興味が遠のき、街へ出ることも億劫になり、朝一番の宰相からの報告も半ば眠ったように聞き流し、重大な判断はいつも曖昧にしか下されない。  王宮内のことは執事たちに任せきりで、年甲斐もなく後宮の若い娘たちを侍らせては与太話を繰り返し、日がな一日、何をするでもなく食って寝てを繰り返して過ごされているという噂だった。  それでも国が破綻していないのは、宰相以下、官僚たちは日々、与えられた各自の仕事をこなしているから、――なのだが、不平不満の種は幾らでも湧いて出る。  そんな時に行われた王位更新(セド)祭で、本来の意味では「失格」と看做されるはずの王が、裏で人々の嘲笑を受けながらも表向きは大々的に讃えられているのを見るのは、ケリにとっては、道理に合わないことと思えた。  ペレムヘブは小さく溜息をつき、生真面目な顔で見上げてくる甥を見やった。  「わしの前ならばまだ良いが、そのような言葉、他の者の前では、ゆめ口にするでないぞ。」  「もちろんです。流石に(わきま)えてはおります。反逆罪に問われるようなことは――」 言いかけたケリは、ふと言葉を切り、足を止めた。ペレムヘブがそうしたからだ。  理由は、すぐに分かった。  向かいから、もう一人の宰相である「上の国」――大河の上流地域を管轄する宰相、カムオペトがやって来る。  痩せぎすで高身長、常に顔色の悪い男だ。  そのせいで、遠目に見ると、柳の木が歩いているように見える。  二人は会釈しながら、一言も言葉をかわさず、するりとすれ違う。  「あの、木偶の坊めが」 ペレムヘブは、相変わらずの、感情を押し殺した抑揚の無い声で呟き、カムオペトが遠く歩み去ってから、ようやく歩き出す。  二人の宰相は、本来ならば上下の国それぞれを、協力し、分担しあって管理する立場にあった。しかし、今代の二人は、どうにも性が合わない。  カムオペトの管轄である「上の国」、ことに都ウアセトの近辺では、ここのところ、問題が続出している。  一つには、都から川を挟んで対岸にある、王家の聖なる墓所に務める墓づくり職人たちの起こした暴動だ。  適正な給料が支払われていないか、支払いが遅れているというので、「大王」の葬祭殿を占拠して座り込みを行った。「大王」とは、今代の王と同じくウセルマアトラーの即位名を持つ、王家の祖先に当たる過去にも比類なき偉業を成したる偉大な王のことだ。その葬祭殿、王家の聖所でもある場所が卑賤なる者たちの土足で踏みにじられた。  さらには、川の水位が上がらぬ渇水の年、税の取り立てに不満を抱いた農民たちが起こした暴動に、一部地域で起きた流行病の広まりに対する初動の不手際。  それらを責め立てられても、カムオペトは、部下に任せているから、と、のらりくらりと言い逃れをするばかり。  職権を越えることゆえ過度な口出しは出来ないとはいえ、何をするにも決断が早く、決して部下任せにしようとはしないペレムヘブからすれば、腹立たしいことこの上ないのだった。  「あのような者をのさばらせておく余地はない。陛下には何度も奏上したのだがな」 吐き捨てるように言い、カムオペトは、足早に歩き出す。  宰相の解任は、王自らのみが為しえる。その王が報告にも進言にも無関心となれば、もはや手立ては無かった。  祝宴の場には、既に人々が集まっていた。  先程、聖なる広場を囲む観覧席にいた役人や神職、それに、王家の一族に連なる人々だ。日陰にいたとはいえ、乾いた風の吹き付ける中で儀式の間じゅう立っていたのだ。今は、給仕の配る水で喉の乾きを潤しながら、ほっとした顔で世間話に花を咲かせている。  「それにしても、随分と久方ぶりだなあ。王家のご家族が一堂に会されるのは」  「ああ。北の前線に行っておられた皇太子殿も戻って来られていたな。珍しい」 人々の話題の中心となっているのは、先程、王が最後に辿り着いたあずま屋に待ち受けていた、王妃や王子たちらしかった。  年老いた国王のかつての正妃はとうに亡く、もうけた子供も、長男は既に冥府に下っている。  今の皇太子であるラメセス――かつて王もその名を持っていた――は次男で、脂の乗った男盛りにある。普段は北方の国境に近い、下流の街にある王宮に暮らしている。  王家に特有の頑強の体格と長身を持ち、人混みの中にいてもよく目立つ。だが、軍人気質で生真面目な性格と噂に聞く通り、ほとんど笑顔さえ見せず、挨拶に訪れた臣下たちに重々しく頷いているばかりだ。  対して、もう一人の年若い王子、遅くに迎えた第二妃のティイの生んだ王子カエムワセトのほうは、実に朗らかだ。小柄で、やや軟弱な印象を受けるものの、人好きのする雰囲気の持ち主で、今も、陽気な冗談を言いつつ周囲を笑わせている。  (貴族や民衆に人気のあるのは、あの王子のほうだ) ケリは、上司であり、伯父であるカムオペトの後ろに目立たぬようくっついて秘書の役に徹しながら、注意深く人々の様子を伺い、言葉に耳を傾けた。  (だが、親族の後見も、軍事や政治の実績も、明らかに皇太子殿下のほうが優れている。いつか王が冥界(ドゥアト)へ引き下がられる時、支配者の杖をお取りになるのは、間違いなくあの御方だ) ざわめきを形作る、無数の会話。人の声。それらを聞き分け、組み立て、理解しながら、彼はそう判断する。  「百の耳のケリ」。  家族や親しい友人は、ケリのことをそう渾名する。  どんな雑踏の中であれ、仕事中であれ、注意の一部を他所に向け、周囲の情報を集めることが出来る。それが、彼の生まれ持っての才能なのだ。  雑踏の中にあっても、彼は、そこで交わされる会話の大部分を瞬時に聞き分けた。会議中の雑談は、誰と誰が何を囁きあったのかを認識することが出来た。  それゆえにカムオペトは、成人したての甥を重宝し、お抱え書記官という名目で、いつも連れ歩いているのだった。  すれ違う人々からの挨拶を受けながら、ゆっくりと人混みの中に歩を進めていたペレムヘブは、いつしか王家の人々の談笑している一段高い奥の座の前へと辿り着いていた。  彼を目ざとく見つけ出した王子カエムワセトが、朗らかな声を上げる。  「おお、これは。『下の国』の宰相殿ではないか。お勤めご苦労。ささ、杯を」 召使いの一人が、睡蓮の花を意匠に象った、驕奢な杯に赤い酒を注いで差し出す。それをうやうやしく受け取り、軽く頭を下げて一口飲んでから、ペレムヘブは、杯を高く掲げて周囲にも聞こえるようはっきりと祝辞を述べた。  「お心遣いに感謝いたします、殿下。この度は、儀式の完遂、おめでとうございます」  (「おめでとうございます」、か。) 伯父に合わせて頭を下げながら、ケリは、心の中に苦い思いを抱いていた。  そう、本来ならば晴れやかな日のはずだった。儀式は完遂され、王位は更新された。  けれど、聖なる広場を走り終えたはずの王の姿はここには無く、王妃もまた、戻ってきては居ない。  (おおかた、息を切らせてお倒れになっているに違いない。――体力の限界だっただろうから…。) 形骸化した儀式には、王を廃位するだけの権威は無い。どれほど年老いていようとも、体に不具を抱えようとも、…そして(まつりごと)を行う能力が衰えようとも、王冠を戴く鷹は、命尽きるまで玉座にとどまる。そして、共同統治者という名目で、皇太子が実質の権威を担い、宰相なり他の役職者なりが、国政をこなしてゆくのだ。  この時代、「王」の権威とは、そういうものだった。  ただ、玉座にあれば良い。玉座の上から照らす輝きが衰えようとも、その座を担ぎ上げる腕が足りている限り、何者にも汚せぬものであるはず…なのだった。  いつしか、日は大きく傾いていた。  王家の人々に挨拶した後は、無数の来客たちとの接見が待っていた。「下の国」の宰相であるペレムヘブのもとに挨拶にやって来る人の列はひっきりなしで、ケリは、上司のために飲み物や食べ物を運び、人の列を裁くのに大忙しだった。  こういう時は、伯父と甥ではなく上司と部下として振る舞わねばならない。そのくらいは、ケリも十分に承知している。自分が楽しんでいる暇など無いし、上司を差し置いて、目の前のごちそうに手を伸ばすなどもってのほかなのだ。  そうして、宴は終わりに近づいていた。  姿の見えなかった王がようやく戻ってきて、皆に挨拶したのも束の間のこと。  それからほどなくして、王と王妃は奥の間へと引き上げていってしまい、宴もお終いとなった。  実に、あっさりとしたものだった。  離宮に集まっていた客たちも、いつしか大半は引き上げ、帰宅の途につくか、酔いつぶれて客間に担ぎ込まれるか、或いは気心の知れた仲間たちと飲み直すために別に設けた場へと引き上げた。  ペレムヘブのもとを訪れる人の列も途絶え、ケリは、ようやく一息つくことが出来た。  「どうだ、疲れたか」  「はい…。」  「そうか」 杯を手に、白髪交じりの男は、じっと宴の席の端を見つめた。  その視線の先には、部屋の端で、残った数人の男たちと談笑している。輪の中心には、「上の国」の宰相、カムオペトがいる。  話の相手は、へりくだった表情で揉み手をしている、妙に脂の乗った顔の小男だ。その様子からして、耳が痒くなるようなおべっかの言葉を紡いでいるだろうことが、離れていてもありありと見て取れた。  「あれは執事の一人で、後宮の管財人を務めているメリアメンだ」 ぼそりと、ペレムヘブが呟く。  後宮、というのは正妃のみならず愛妾や、政略結婚によって貢がれた女や見目麗しい戦利品まで、王の所有物と看做された女たちの暮らす場所のことだ。  さすがに、王の老いたここ十年ばかりの間は、新たにやって来る者はいないが、それでも、いまだ数十人を数える女性たちが暮らしている。  「後宮の執事が、何故?」  「後宮へ入る財は全て、『上の国』で徴収された税から払い出されているからだろう。大方、後宮へ回す割合を増やしてくれと交渉しているといったところか。」 無機質な声に、僅かに不快さが入り交じる。  「なんたる無駄。後宮の女たちをいたずらに着飾らせ、贅沢三昧をさせたところで何の意味があるというのか。おまけに、あれらの有象無象の害虫どもが群がり、上前をはねて懐に入れている。それを良しとするとはな」  「陛下が止めさせよと言われぬ限り、それは、どうにもならぬことでしょう」  「その通りだ。だが、――」 言葉を切り、ペレムヘブは杯を置いてゆるりと席を立った。  「ケリ。場所を変えるぞ」  「あ、はい」 慌てて、ケリも後を追う。  離宮を出たペレムヘブが向かっている先は、どうやら、川べりのようだった。そこには、都から、祭儀の行われる、このアブジゥの地まで川を下って来る時に乗ってきた立派な御座船が、数隻係留されている。葦の川辺の一部が切り開かれ、仮ごしらえの桟橋が作られているのは、高貴な人々が下船の際に使った足場なのだ。  河川の作る渓谷の北より吹いてくる砂漠の砂混じりの風は、昼間の熱を手放して、酒の熱を帯びた肌には心地よい。  船を見張る兵士たちが、近づいてきたペレムヘブの顔を見て、何も言わずに軽く頭を下げる。さすがに都からついて来た兵が、王宮に日参している宰相の顔を知らぬということはあり得ない。  「殿下は、もう戻られているか。」  「はい。中でお待ちです」 驚いたことに、ペレムヘブはいつの間にか、誰かと待ち合わせの約束をしていたらしい。  (いつの間に…。今日は、そんな話は一言もしていなかったはずだけど。それに、”殿下”?) 仕事中はほとんどの行き先に同行しているにも関わらず、ペレムヘブは、ケリの預かり知らぬところで行動を起こしていることがある。一体いつ、どうやって人と話をつけているのか、ケリには、未だにそれが不思議だった。  兵が掲げる松明の灯りに足元を照らされて、宰相と付き人は、居並ぶ御座船のうち川の下流のほうにつけている、頑丈な軍船へと向かった。舳先には王家の印が掲げられているが、飾り立てただけの他の船とは違い、実用優先に作られている。  見覚えのある船だ。確か、かつて「大王」が下流に作った街、ペル・ラメセス(ラメセスの街)の波止場でも見かけたことがある。  「これは、皇太子殿下の?」  「そうだ」 ペレムヘブは、岸から渡された板の上を歩いて、ゆっくりと船の中程まで歩いてゆく。  船の真ん中には御簾をかけた室が作られており、その中に、足の低い寝椅子と机とがしつらえてある。  川の上を通り過ぎてゆく涼しい風が御簾を揺らし、月明かりに人影を照らし出す。  船室では、つい先程まで離宮の宴に参加していたはずの皇太子、ラメセスその人が待っていた。  「失礼いたします。」 ペレムヘブは、頭を低くしながら御簾をくぐり、ラメセスの向かいの席に腰を下ろす。ケリは一歩下がり、御簾の外に膝をついた。  ラメセスは、ちら、とケリの黒い頭に視線をやる。  「そのほうが、宰相の甥のケリとやらか」  「…はい」 次期王となる人物が自分の名を知っていることに驚きながら、ケリは、かしこまって頭を下げる。  「噂は聞いている。何でも、人混みの中であらゆる会話を聞き分けるほどに耳聡い、とか。そうだったな? ペレムヘブ」  「は。」  「して、今日の祝宴では、一体何を聞いた」 ケリは言葉に窮したまま、視線をそろりと伯父のほうに、それから、硬い表情をしているラメセスのほうへと向ける。  「父上について、誰が何を言っていた?」  「あ、――え、しかし、」 ペレムヘブは、小声で助け舟を出す。  「此処ならば、他には誰も聞いておらん。正直に申してみよ」 ごくり、と息を飲み、ケリは、頭を下げたままで口を開く。  「その、…『見るに耐えぬ祝祭だ』と、多くの者たちが言っていました。『老人を走らせるべきではない』と」  「もっと具体的に言え。誰が、どう口にしていたのか」  「…『老いた馬に鞭をくれたとて、早く走ることは叶わない』。それを言っていたのは、父の配下ではなく、私の同僚でもない役人たちです。『陛下は、”大王”の如く、齢九十まで生きることを望まれているとか。』『それでは、王の代替わりまで我々も生きてはいられますまい』。そう笑っておられたのは、都にお住まいの貴族の方々でした。名までは存じ上げておりません。それから…」 記憶をたどり、ケリは、慎重に言葉を選んでいった。  「『陛下が何にも興味を示されないので、ティイ様は変わった物を集めている。異国の珍しい動物に、黒い肌の南国人』、『老いた親を都に放り出して、皇太子殿下は北の街から戻らない。近頃では、カエムワセト王子のほうがお側に長く居る』と…」 ラメセスの気配が微かに変わったのを察して、ケリは、首を縮めて身を固くした。  「も、申し訳ございません! 言ったのは、私ではございません。それを言ったのは――」  「――察するに、後宮の執事どもだな?」  「は、はい…」 深い溜息をつき、ラメセスは、長椅子に背をもたせかけた。微かに籐が軋む。静けさが落ちるとともに、どこかから、賑やかな弦楽器と女たちの嬌声とが聞こえてくる。川の対岸にいる、灯火を掲げたどこかの貴族の船のほうからだ。どうやら、船上の宴と洒落込んでいるらしい。  皇太子の船には、楽団も踊り子の女たちもいない。辺りは静まり返り、夜でも舳先と船尾には見張りが立ち、数人の召使いだけが控えている。  もとより遠征のための軍船を改装した船だ。甲板には弓兵の控える衝立があり、速度を増すための長い櫂が物々しく控え、華やかな宴には不向きの造りとなっている。  それは、船の持ち主である目の前の男の性格と、傾向そのものでもあった。  「いかがでしょうか、殿下」 沈黙を破るようにして、ペレムヘブが口を開いた。  「甥はまだ若く未熟者ではありますが、このとおり正直者です。そして、わし同様に、今のこの国の有り様に危機感を抱いております。王宮に上がってまだ日も浅く、顔は知られておれど、何がしかのしがらみも、ありません」  「では、この者に任せるつもりなのだな。」  「はい。」 何のことやら分からず、ただ二人を恐る恐る見比べているだけのケリの頭上から、重々しい伯父の声が降ってくる。  「ケリよ。お前はこの祝宴の後、都に戻り、わしに解任されることになる。」  「え…解任?!」  「そうだ。表向きは、祝宴に浮かれて酔っぱらい、殿下の不興を買った、とする。そのためにお前は解任され、『白い家』の倉庫番とされる」  「……。」  「そんな顔をするな。あくまでも表向きは、だ。――やって貰いたいことがあるのだ」 ペレムヘブは、ちら、とラメセスのほうに許可を取るように視線をやった。ここからが話の本題、ということらしい。  相手が頷くのを待って、宰相は、言葉を続けた。  「『白い家』に、王家の財を横領する者たちが居る。おそらくな。だが、幾ら下っ端を捕らえて断罪したところで、首謀者の真意まで遡らねば意味がない。とはいえ、『白い家』は『上の国』の宰相、つまりはカムオペトの管轄下にある。わしでは調査の手が及ばぬのだ」  「そして私も、普段は『下の国』に居て、都にある『白い家』の内情を継続的に探るだけの手駒は不足している。信頼の出来る、耳聡い駒が必要だ。あらゆる疑わしき者を洗い出し、噂話の中から真実を拾い上げ、不正の糸がどこに繋がっているかを見定められる優秀な駒が」  「ですが…」ケリは、不躾と思いつつもラメラスの言葉に口を挟む。「もしそうであれば、カムオペト殿の監督不行き届きを断罪し、解任なされば宜しいのでは」  「厄介なことにな、首謀者は、おそらくカムオペトではないのだよ」 咎めることもせず、ラメセスは、そう言って手にしていた杯を静かに置いた。  「あれは、ただ人が良すぎる、無能なだけの男だ。大それた陰謀など企む器はない。これには後宮が…絡んでいる可能性もある。」  「後宮が? 妃殿下たちのお住まいのことですか」  「今は、はっきりとは分からん。余計なことを言って先入観を持たれるよりも、先ずは己の耳で確かめよ」  「これは、他ならぬ皇太子殿下より直々の依頼なのだ。」 重ねるように、ペレムヘブが言った。  「この所、西の谷の墓所の墓作り職人たちが給与不払いを訴えて騒ぎを起こしているのは、知っておるな?」  「はい」  「職人たちへの給与は、『白い家』の国庫より支払われる。それが滞っているとなれば、横領はおおっぴらに、しかも、深刻な程度で行われている可能性がある。何者かが民を煽り、内乱の兆しすらある。もはや、陛下のご聖断を待っている猶予は無いのだ。」 ペレムヘブの言葉は珍しく熱を帯び、それだけに、切羽つまった危急の事態であることが、ケリにもはっきりと理解できた。  「――このままでは、この国が割れてしまう」 重々しくそう言って、宰相は、じっと甥の目を覗き込んだ。  「やってくれるな」  「…分かりました」  「よし」 ペレムヘブが大きく頷き、甥の手に杯を渡す。  「飲め。陛下からの賜り物だぞ」 ケリが杯を干すのと同時に、ラメセスが、おもむろに尋ねた。  「それで、最初に問うたことだがな。」  「はい」  「祝典で、誰が何と申していたのか。もう一度申してみよ。老いた馬が、とは?」  「は…『老いた馬に鞭をくれたとて、早く走ることは叶わない』と…」  「この、無礼者めが!」 突然、声を張り上げると、ラメセスは机を蹴って立ち上がった。  卓上にあった杯が大きな音を立てて転がり落ち、酒瓶を手に控えていた召使いが、驚きの顔で振り返る。  「老いた馬、だと?! 貴様、我が父上を何と心得るか!」  「…へっ?」  「ご無礼を、申し訳ございませぬ、殿下!」 ペレムヘブが急いで立ち上がり、ぽかん、としているケリの頭を無理やり押さえつけながら床に平服する。  「どうか、お許しを…お手打ちだけはご容赦を…」  「ええい、貴様。甥だからとて庇い立てする気か? このような物言い、ただでは済まさぬぞ!」  「どうかご容赦を…ここは、わしめの顔を立てていただきたく…」 顔を真っ赤にして怒鳴りながら、その実、ラメセスの口もとは笑っている。隣を見ると、平服している伯父のほうも、やれやれというような顔で床に額をつけている。  これは演技なのだ。  ケリは、先程言われたことを思い出していた。――「表向きは、祝宴に浮かれて酔っぱらい、殿下の不興を買った、とする」と…ペレムヘブは、そう言ったのだった。  意を介したムリは、慌てて杯を取り落し、伯父に倣って床に額をつける。  「も、申し訳ございません…私はただ、人の言うことを口にしたまで…」  「不愉快だ。とっとと出てゆけ! 誰ぞ、こいつらをつまみ出せ」  「殿下、後ほどお詫びに伺います。どうか…」  「出てゆけと言っているだろう!」 その頃にはもう、見張りに立っていた兵たちが、何事かと駆け集まって来ている。  「さ、ゆくぞ。ケリ」 ペレムヘブに腕を取られ、ケリは、半ば急き立てられるようにして船から降ろされた。  振り返って見上げると、月明かりに照らされた御簾の向こうに、こちらに背を向けて立つ、長身の男の後ろ姿が影となって見えていた。  賽は投げられたのだ。  これより、「下の国」宰相ペレムヘブの甥、ケリは、宰相づきの書記官の任を解かれ、「上の国」の宰相管轄下にある「白い家」の倉庫番へと、”降格”されることになる。
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