第二話 チェセメト/黒い肌の少女

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第二話 チェセメト/黒い肌の少女

 はっ、はっと荒い息を吐きながら、老人が足を引きずってこちらに歩み寄って来る。  その姿を、チェセメトは固唾を呑んで見守っていた。  朱と白に塗り分けられた、いささか大き過ぎるようにも見える儀式用の冠は斜めにずれ、古風な腰布は今にもはだけ落ちてしまいそうになる。若かりし日には逞しく引き締まっていたであろう上体も、今では、染みだらけで灰色にたるんでいる。  (普通なら、あのようなお年寄り、ひとりで歩かせることはしない) チェセメトは眉に皺を寄せたまま、強い日差しの中を人々に取り囲まれながら一人、足を引きずって歩く王の姿を見つめている。  (それも、こんなふうに、ばかにして。よくないことだ) 目の良い彼女は、遠巻きにしている貴族たちの何人かが、指をさすまではせずとも半笑いに、何かを囁きあっているのを見咎めていた。おおよそ、小馬鹿にしているとしか思えない表情だった。  かつて彼女にも向けられていた、そして今も時折向けられることのある、侮蔑の入り混じった視線。  けれど、いくら助けに入りたくとも、勝手に持ち場を離れることは許されない。祭儀を台無しにしてはならない。それに、この儀式は、王位の更新という大事な、とても大事な儀式なのだと聞いている。だからきっと、ああして、息を切らせながら必死で歩いているのにも、何か意味があるはずなのだ。  チェセメトは、目の前に立つ彼女の主――きらびやかに着飾り、召使いたちに駝鳥の羽根扇で仰がれている、王妃ティイの背中を見やった。  王は齢六十を過ぎているが、王妃のほうは、まだ四十の手前。遅くに娶られ、かつては下位の王妃だった。だが、第一王妃はとうに亡く、他の上位の妃たちも西の地平の向こうにあるという死の世界へと去った。今や王の隣に立てる女たちの中では、この王妃こそが最上位なのだった。  「ああ、王がまもなく着かれますぞ」 王妃の傍らに立つ神官、この祭りを取り仕切る灰色犬の神(セド)の神官が、ほっとした表情で言う。  「そう」 答えるティイの反応は淡白そのもので、夫の身を気遣っているようには思えない。用意された豪奢な椅子に優雅に腰を下ろしたまま、彼女の表情は明らかに、もううんざりだという色を浮かべている。  「はあ、…はあ」 息を切らせ、汗を流しながら、老人がようやく、あずま屋の前に辿り着く。  「お疲れさまでした」 先程まで飽き飽きした表情だったはずの王妃は、いつの間にやら席を立ち、にっこりと微笑んで水を注いだ盃を王に差し出している。代わりに、祭司が前に進み出て、高らかに宣言する。  「ここに、王は聖なる努めを果たし、上下二つの国の王権を更新された! 活力を取り戻したる王を讃えよ!」 同じように、先程まで嘲笑うような素振りさえ見せていた貴族たち、上級役人たち、神官たちも皆、いつの間にやら表情と体裁を整え、みな一様に両手を上げ、王を讃え始める。  「万歳、ウセルマアトラー陛下! 生ける神よ、讃えられよ!」  「万歳!」 これが、この国の――いや、宮廷の、当たり前の日常なのだった。  誰もが皆、偽りの顔をして生きている。腹の中で何を思っていようとも、それを表向きは見せずに、王家に忠誠を誓い、従順に、ただひたすらに善良なる家臣を装って、生きている。  だが、注意して見ていれば、そんな演技の綻びは、幾らでも見つかる。  一分の隙もなく仮面を被って暮らせる者など、ほとんど居ない。実際には、老いた王が「耄碌した厄介者」と言われていることを、チェセメトは知っていた。  ――目の前で、疲れ切った王を元気づけるような愛想のよさを見せている、王妃ティイにでさえも。  儀式の後、儀式の行われた聖なる広場を後に、祝宴の席の設けられている離宮のほうへと去ってゆく。  だが大役を努め終えたばかりの王はというと、あずま屋の中で王妃に支えられてぐったりと椅子に座ったまま、まだ、動けないでいた。  「輿を。陛下のために」 ティイが、きびきびとした声で侍従に告げる。  「は。」  「ほら、もっと扇を動かして。風を送りなさい。」  「は、はい…」 召使いたちは、慌てて扇をあらん限りに振り始める。  「まったく、だから申し上げたのです。儀式の場に観客など入れず、一部の者だけを招待すれば、と」 ため息交じりに言うのは、王の嫡男であり、現皇太子であるラメセスだ。王子の立場とはいえ、衰えた父王に変わり多くの重要な政務をこなしている。ただ、普段は北の国境の守りを務めるため、大河の上流にある都には、滅多に姿を現さない。  「でも、これで、父上は神聖なお勤めをこなされましたよ。いにしえの習わしに沿うならば、誰も文句は言えないでしょう?」 朗らかに言うのは、年下の王子で、ティイの子であるカエムワセト。その名は、既にこの世を去ったラメセスの兄から取られている。  ――王は、王家の祖先である「大王」に憧れ、自分の息子たちにも、「大王」の子らの名をつけることを望んだのだ。だから、先に死んだ息子の名が、後から生まれた息子に順繰りに付けられている。  「いにしえの習わし、か。王位更新(セド)祭。”道を指し示すもの”、民衆の先導者たることを表すために、国土を模した聖なる広場を一周すること――…」 皮肉めいた呟きとともに、唇の端を僅かに動かして、ラメセス王子は背を向けた。  「先に行って、客人たちを歓待ております。父上は十分にお休みになってからお越しを」  「うむ。」 この祭儀のために戻ってきたラメセスとは、久方ぶりの再開のはずだったが、父子の会話はどこかそっけない。  去っていったラメセスと入れ替わるようにして、輿を担いだ召使いたちが到着した。  「陛下をお載せするわ。カエムワセト、手伝って頂戴」  「はい」 王妃と下の王子は、一緒になって老人を椅子から立ち上がらせ、輿に乗せようとしている。  「離宮の、控えの間へ。あそこなら、涼しいはずだから。お召し替えの準備を。それから、冷たい水を汲んできて頂戴。早く」 あれこれと指図するティイの声が、かしましく響いている。  輿に引き上げられる間じゅう、疲れ切った王は一言も発することはなく、自分から何かを命ずることもしなかった。  チェセメトが、同族の仲間たちとともに「貢物」として王妃ティイの元にやって来たのは、物心ついたばかりの頃だった。チェセメトという名も、この国に来てから与えられたものだ。  彼女は、南方人の一人だった。  この国の南に位置する広大な荒野、大河をはるかに遡った先にあるその場所は、「ワワト」と呼ばれていた。黒檀のように黒い肌と、黒曜石のようにきらめく瞳。それに、固く縮れた髪の毛に、すらりと伸びたガゼルのような体躯。  この国では珍しいその容姿と、特有の生真面目さを買われ、幼い頃に後宮の使用人として取り立てられた。  そして、ほどなくして王妃ティイの目に留まり、おそらくは物珍しさから、下級の侍女として召し抱えられるに至ったのだ。  だから彼女は、ひと目でそうと判る外国人で、ある意味では、どこの場においても「部外者」だった。  輿が動き出すと、王妃は、それについて歩き出す。  チェセメトも、女主人の後を追う。一定の距離を起き、彼女がいつもの如く思いつきで何かを言いつける時のために、いつでも注意を向けたまま。  「あの距離をお一人で回れたのですから。自信をお持ちになって下さいな、陛下は、まだまだお若いですわ。」 ティイが、輿の上の王に向かって話しかけている言葉が聞こえてくる。  「…です。そう、この祭儀が終われば、次は夏の終りの大祭が待っているではありませんか。その頃までには、きっと…。」  (大祭…。) それは毎年、大河の水位が上昇しきった頃に、まる三日もの間、都で行われる「谷の大祭」と呼ばれる祭りのことだ。今年は王の在位が三十年を越えた節目を祝うため、いつもの年よりも盛大に執り行われると聞いている。  「陛下は何も心配なさらなくとも、万事が巧くいきますわ」 何を話しているのかまでは分からないが、王妃は終始、愛想よく、王はただ黙って頷いているばかりだ。  この夫婦の会話は、いつもそうだった。  王妃が一方的にまくし立て、王はただ、相槌を打つばかり。  チェセメトが後宮に仕えるようになった頃にはもう、第一妃は亡くなっていたから、かつての第一妃との夫婦関係も同じだったのかどうかは分からない。ただ言えることは、王は、ティイを拒絶こそしないものの、決して楽しそうにも見えないことだった。  世間では、王は耄碌したとか、無気力だとか言われている。  だがその実、周囲からどう見られているのかも、どういう陰口を叩かれているのかも、既に知っているのではないかと思える時がある。  知っていて、――それで、自らも「無反応」という名の仮面をつけて、本心を見せぬようにしているのかもしれない。  その仮面の下にあるものを見せるのは、同じように、仮面をつけずに接してくる者に対してだけなのだ。  チェセメトのように。  彼女と王との最初の出会いは、ほんの偶然だった。  ティイに召し抱えられてまだ日も浅い頃、お供に連れられて初めて王宮を訪れた時、あまりの広さに、うっかりして道が判らなくなってしまったのだった。  台所に水差しを取りに行くようにと頼まれて、庭を突っ切れば早いはずだと思ったものの、その先で道を間違えてしまったらしく、気がつけば見覚えのない一画に迷い込んでいた。  まだ、この国に来て間もない頃で、言葉もあまり覚えていなかった。  着慣れない侍女の服装を引きずりながら、おろおろと廊下を行ったり来たりする異国人の少女には、その辺りに立っている見回りの兵に道を尋ねることすら出来なかった。見ている者たちも物珍しさにくすくす笑っているばかり。  そうこうしているうちに、廊下の向こうから、いかにも偉い人のような雰囲気を纏った老人が、杖を付き、伴を従えてやって来た。  チェセメトは慌てて道を譲ったものの、礼儀作法もままならない。こんな時はどうすればいいのか。会釈なのか、お辞儀をすべきなのか。  台所で借りた水差しを両手で抱きしめて、柱の影に縮こまるようにして立つ黒い肌の少女を見て、老人は、ふと足を止めた。  「こんな所で何をしている。誰の侍女だ?」  「ティイ、様。あの、あの…わたし」  「ほう。ティイのか」 老人は自分のあごをひと撫でし、柔和な笑みを浮かべ、優しい眼差しを彼女に向けた。  「察するに、道に迷ったというところか? ならば丁度よい。余も、今からティイに会いに行く。付いてくればよかろう」  「は、…はい」 相手が誰なのか、どうして王妃である人を呼び捨てに出来るのかにすら考えが及ばないまま、助かったと思いながら後をついていった。  それが、この国の王だと知ったのは、ティイのもとに辿り着いてからのことだった。  それからというもの、ティイとともに王宮に上がるたび、チェセメトは、老王の姿を間近に見るようになった。  人前では話を聞いていないような顔をしているくせに、人が居ない時には明朗快活で、チェセメトにも気軽に話しかけて来る。王妃が中座して人の目が無くなると、いたずらっぽい笑みを浮かべながら、菓子を一つ二つ、手渡してくれたりもする。老いて持続力が無くなったとはいえ、いまだ頭脳は健在で、茶目っ気たっぷりの、人の良い人物なのだ。  けれど、普段は本当に、ぼんやりした無気力な老人そのもので、明瞭に話せる時間は、年を追うごとに少しずつ減ってゆく。  まだ若い彼女には分からないが、きっと、老いとはそういうものなのだ。――少しずつ、意識の端から侵食して、一日の時間を奪うようになる。  けれど、一日のうちのほんの僅かな時間でも、老王の瞳には、若い頃のままの、何者にも抗いがたい輝きが宿っていた。  「あっ」 ふいに、輿がぐらついた。輿の四隅を支える召使いの一人が手を滑らせたのだ。  チェセメトはとっさに駆け出して、両手を伸ばし、崩れかけた輿の端をしっかと受け止める。  「一体、何をしているの!」 ティイの甲高い声が飛び、手を滑らせた召使いは首を竦めてもぞもぞと言い訳の言葉を呟いた。その間、少女は微動だにせず、平然とした顔で輿の一端を支え続けている。  ふいに、輿の上の王の表情が綻んだ。  「相変わらずの剛力だな、お前は」  「…はい。褒める。うれしいです」  「さて、行こうかの。進め」 輿の上から、王が手を振った。召使いたちは、チェセメトを加えたまま、何事もなかったかのようにしずしずと歩みだす。  その間、後方からは、不始末をしでかした召使いを叱りつける、王妃のかまびすしい声が耳に突き刺さるように響き渡っていた。  同じワワトから来た部族の者たちは皆、体格が良く、力持ちだった。チェセメトも、少女にしては背が高く、男並みの膂力がある。そのために、後宮では力仕事の出来る貴重な侍女としても、彼女は重宝されていた。  「それにしても、こんなに長く歩いたのは久しぶりだ。どうだったかな? チェセメトよ。」 王妃が後方に離れているのをこれ幸いにと、輿の上から、老王は、チェセメトに気安く話しかける。  「陛下お元気、なによりです。ぶじ、わたし、よろこぶ」  「そうか、そうか。ならば良い。だがなあ、流石に三年後の、次の更新祭ではもう走れまいなあ。どうしたものか」 輿が離宮の端の大部屋に入り、入り口に降ろされる。待ち構えていた侍従たちが王に駆け寄って、立ち上がらせ、水浴びのために奥の浴室へと連れてゆく。  王の体と、王が身につけるものに直接触れられる者は、王家の人々か、お側に使えて身の回りの世話をする侍従のみと限られている。その身が浴びた水、唾液や髪の毛や爪ですら、呪術に使われることのないよう厳重に処分される。  王の居室に立ち入ることは許されていないチェセメトは、輿を担いできた召使いたちとともに、入り口に立ったまま、王妃からの次の指示を待っていた。  祝宴は、既に始まっている。  王子たちは先に会場へと向かい、王妃ティイも、王が身支度を整え終わるのを待って、共に会場へと去っていった。  使用人たちのもとには束の間の休息の時間が訪れている。国の重鎮たち、有力貴族たちの集まる晴れやかな場を覗くことの許されないチェセメトは、控室の窓辺に腰を下ろし、夕闇に沈みゆく外の風景を眺めていた。  「今日のあれは、ほんとうに酷かったわね」  「ええ。あんな御老体を走らせようだなんて。いくら決められた儀式だからって、ねえ。いつ息切れして倒れてしまうか、冷や冷やしていたわ。」  「まるで悪いことをしてるみたいな気分だったわ。何も私たちに見せつけなくてもいいのに」 闇に溶け込むようにして立つ黒い肌の少女の存在など気にしてもいないのか、後ろでは、ティイに仕える侍女たちが、さざめくように笑い合っている。  今日の祭りのことを言っているのだ、とは、すぐに分かった。口やかましい王妃が近くにいないせいか、誰も遠慮もせずに言いたい放題だ。  「知っている? 陛下は、かの有名な『大王』に憧れていらっしゃるの。何しろ、在位三十年めのお祭りを迎えられたのは『大王』いらいのことだから、盛大にやりたかったらしいわよ」  「その話、聞いたことある。『大王』って、あの、クシュとの国境に岩掘りの大きな神殿を立てて、東の国々まで征服した、ウセルマアトラー大王のことでしょう?」  「そうよ。百歳まで生きて、百人の妃と百人の息子を持った。」  「まあ。お盛んだこと」 くすくすと、女性たちの間から忍び笑いが漏れる。  「無理よ。今の陛下は、もう子供は作れないでしょ」  「妻と子供の数で競うの? それとも、建てた神殿の大きさで?」  「長寿で競うおつもりなら、あと四十年近くは生きなければね」  「まさか。それじゃあ私たちより長生きじゃない。ありえると思う?」  「ふふっ。そうなったら、皇太子殿下もお年寄りね」  「あら。それはあり得ないでしょ。だって――」 年若い侍女たちのお喋りは、ふいに、ぴたりと止まった。  互いに目配せしあい、不自然に咳払いをして、誰からともなく別の話題を振った。  「ねえ、そういえば今日、久しぶりに『下の国』の宰相さんを見かけたわよ。可愛い男の子を連れてた」  「えーっ、なにそれ。いつも仕事仕事でマジメなほうの宰相さんが?」  「付き人じゃないわよね。」  「確か、甥だか何だか、親戚らしいわよ? そういう噂を聞いた。後継者として育てるつもりかもね」  「年、幾つなのかしらね。まだ婚約してないなら、狙えると思う?」  「いやだ。あんたとじゃ釣り合わないわよ」 キャーっという嬌声と、笑い合う声。  後宮に仕える侍女たちの話題はいつも、こうした噂話と、男女関係の空想話。それから、主である王妃や仕事に対する愚痴と、買い物や衣装やお化粧の話。  どれもこれもチェセメトにはちんぷんかんぷんで、面白いとも思わない。言葉はそれなりに覚えても、話相手も、親しくする友達も居なかった。  彼女は沈黙を保ったまま、闇と同化するようにして、時の過ぎるのを待っていた。  窓から見下ろす先には、離宮の広間の入り口がある。  もう、日もとっぷりと暮れかかり、先程から、入っていくよりも出てくる人の数のほうが多い。広間で奏でられる賑やかな音楽はまだ続いていたが、どうやら、そろそろ宴も終わりに近づいているようだ。  (そろそろ、ティイさまが戻ってくる) チェセメトは音もなく立ち上がり、まだお喋りに花を咲かせている侍女たちの脇を通り抜けて、廊下へ出た。  朧気な月明かりが、柱の間から廊下に射し込んでいる。  足音も立てず歩く影は、ふと、漏れ聞こえてくる話し声に気づいてぴたりと立ち止まった。一人は女性、もう一人は男性。どちらも声を潜め、周囲を気にするようにして話し合っている。  「――では、策はあるというのですね?」  「はい。『谷の大祭』までには、準備致します」 ティイの声だ、と、チェセメトは思った。だがもう一人のほうは、誰なのか思い出せない。  光に僅かに照らし出される横顔。後宮で何度か見覚えのある男だ。確か、王妃のもとにも何度か、謁見に来ていたはず。  「飛べぬ鷹には存在価値がありませぬ。陛下は良く戦われ、良く治められた。が、しかし――最早、よいお年だ。これ以上の余生は、必要ありますまい」 呟いて、男は口元を釣り上げた。  「ええ、その通り。かの『大王』の如き長命を望まれては、その間に、後を継げる王子の寿命のほうが尽きてしまいます。民が求めているのは、若き鷹のはずですからね」 会話の内容は、はっきりとは分からない。けれどチェセメトは、何故か、胸のざわつくのを覚えた。  きっとこれは、聞いてはいけない会話なのだ。  そろりと後すさり、足音を立てずに大急ぎで元の部屋に駆け戻る。  ほどなくして、王妃が部屋に入ってきて、騒がしくお喋りに夢中になっていた侍女たちは、大慌てで居住まいを正した。  「陛下はご寝所へ入られました。お前たち、残っているお客様たちを丁重にお見送りしなさい。それから、会場の片付けを手伝って」  「はい」  「かしこまりました。」 皆、瞬時に居住まいを正し、従順な侍女の表情に変わっている。仮面をつけたり、外したり、自在に出来ること。それは、この国で王宮や後宮に仕える者たちに必須の、特技のようなものらしかった。  「それから――」 ティイは、部屋の隅に立つチェセメトのほうに、ちらと視線を向ける。  一瞬、立ち聞きに気づかれていたのでは、という考えが脳裏を過ぎったが、そうではなかった。  「チェセメト。お前は、わたくしとともに来なさい。執事たちの準備が悪くて、陛下のご寝所がまだ整っていないの。家具を動かさなくては」  「わかりました」 ほっとしながら、チェセメトは女主人の後を追う。  だが、胸の奥には先ほど廊下で聞いた言葉が、川面に起きるさざ波のように揺れて、わだかまったままだ。  ”これ以上の余生は、必要ありますまい”  ”民が求めているのは、若き鷹のはずなのですからね”  あの時、王妃は一体、何を話していたのだろう。  王に、何をするつもりなのだろう…?
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