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第五話 チェセメト/おぼろなる願い
後宮での使用人の暮らしは、大方の貴族の家に仕えるのとほぼ同じだ。毎朝決まった時間に目を覚まし、女主人が目覚める前に食事と掃除を済ませておく。ただ、違うのは、後宮の中には普段、女性の使用人しかいないというところだ。
後宮は女たちの園だから、男の使用人はよほどの用事が無ければ奥までは入って来られない。歩哨に立つ兵でさえ、外壁の内側には入って来られない。
壁の塗り直しや屋根裏の大掃除、樹木の剪定のために職人たちを入れる必要がある時は、見張りの兵がついて、その区画から女性たちを退避させることになっている。
だから、壁の内での日々の力仕事となると、それなりに力もちの女性使用人が駆り出されることとなる。
チェセメトが重宝される理由は、ここにあった。
力のある女性で、しかも縁者や後ろ盾の居ない、しがらみのない存在。寡黙で私利私欲の無い彼女なら、任された品の一部を横領しようなどと夢にも思うまい。
「今日は、上等な香油が届くの。運んでおいて頂戴」
王妃ティイは、チェセメトにそれだけ言いつけて、自身は侍女たちと一緒に、いつもの如く念入りな身支度を始める。
貴婦人たちは、大抵、長い時間をかけて身支度を整える。
ことに、最も高位の妃であるティイともなれば、それは顕著だ。
まず顔を洗い、長い髪を丁寧に櫛って整え、飾りを結わえ付ける。それから真新しい亜麻布を纏い、豪華な装身具を一つずつつけてゆく。腕輪に指輪、首飾りに腰布、流行りの耳飾り、宝冠。そうして濃い色で目尻に隈取をして紅を引き、ようやく昼前に全てが整えられる。
来客と接見するか、自身が何処かへ出向くのは、大抵、それからだった。
荷物の受け取りのために裏口へと向かうチェセメトは、慣れた足取りで、後宮の幾つもの区画を通り抜けていく。
後宮の中でも、高位の王妃たちの居住区は一棟ずつ離れのように分かれている。ティイの小さな屋敷は後宮の一番奥にあり、裏口までは他の下位の王妃や使用人たちの住まいを通り抜ける必要がある。
その途中で、彼女は、兵を従えた若い男性がやって来ることに気がついた。
(あれは…)
すれ違う女性たちに、にこやかに手を振りながら歩むのは、ティイの息子であるカエムワセト王子だ。
男性禁制の場所といえど、実の母親に会うことくらいは許されている。
チェセメトはさっと脇に退いて、軽く頭を下げた。ここに来てから覚えた、宮廷の作法だ。
だがカエムワセトは、そんな彼女の方には目もくれず、さっさと奥へ向かっていく。
いつものことだ。
彼が愛想を振りまくのは、意味があると思う時だけ。後宮の女たちの中でも、何の力も持たない異国人の下位の使用人など、彼の中では取るに足りない存在なのだ。
王子の一行が去って行った後、チェセメトは、頭を上げて足早に歩き出した。カエムワセトが来たということは、これから何処かへ出かけるつもりかもしれない。香油は身支度に使うはずだ。
気の短いティイに叱られないうちに、急いだほうが良さそうだった。
高級品の香油の入った大きな壺をティイの屋敷まで運び終わった頃、女主人のほうは、上機嫌に身支度を終えようとしていた。
「新しい亜麻布が手に入ったのよ。どうかしら?」
居間の方から、話し声が聞こえてくる。息子に新しい掛け布を自慢しているらしい。
「ええ、良いものですね。御料地からの品ですか?」
「そう聞いているわ。メリアメンが良くやってくれているの。あの者は仕事のできる執事よ。言えば直ぐ手配してくれる」
大きな壺から、小さめの飾りつきの壺に注ぎ分けた香油を並べながら、チェセメトは、ちらと柱の向こうを見やった。侍女たちが、美しく飾り立てた王妃の長い髪に、香りの良い香油をふんだんに塗りつけて艶を出している。王子の方も、金細工の鞘に包まれた剣を腰に下げ、洒落た薄手の肩布を羽織ってめかしこんでいる。これから、二人でどこかに出かけるつもりかもしれない。
「陛下は? 外でお待ちなの?」
「いいや。父上はいらっしゃらないそうだ。気分が乗らない、とか何とか」
「まぁ! 三人でアメン大神のお宮にお詣りに行きましょうって、何度も念押ししていたのに…あの方ときたら。いつも土壇場で出不精になるんですから」
「仕方がないさ。もうお年だ。体調が悪いのかもしれないよ」
「どうだか。口ではもう年だとか言い訳しながら、王位更新祭では皆の前で走るんだとか、頑として言い張るんだから。おまけに、病気の一つもしやしない。」
「頑丈な方なんだよ。健康と長生きの秘訣は、必要のある時以外は家から出ないことなのかもね」
「だからって、たまには都の民に姿を見せてもいいでしょう? わたくしたち、親子三人の晴れ姿を…」
ティイが、王の居ないところでは夫の悪口ばかり言っているのも、いつものことだった。
彼女は、何かにつけて、王と自分が並び立つところ、或いは王とカエムワセトが共に居るところを見せびらかしたがるのだ。
それが何のためなのか、どういう心境なのかチェセメトには分からなかったが、仲良くしたいというよりは、仲良くしていると思われたいように思われた。
お化粧をして、きらびやかに装うのも、誰かに見せたいがため。
ティイは常に、誰かの――家族や親しい人々ではない、他の誰かの視線を気にしている。
「ああ、そうだわ。チェセメト!」
「! はい」
前置きもなく名を呼ばれ、チェセメトは、あわてて脂に汚れた手を後ろに隠しながら柱の向こうに駆け出した。
「わたくしたち、これから大神殿へ出かけるの。もし陛下がお気が変わってお出ましになるつもりなら、大神殿で落ち合いましょうと伝えておいて頂戴。」
「分かりました」
チェセメトは大きく頷いて、頭を下げた。
「では参りましょうか。母上」
「ええ」
王子と王妃は手を取り合い、兵を従えて屋敷を後にする。
女主人の姿が見えなくなると、侍女たちは、ほっとしたように口を開く。
「ああ、疲れた…。記念日でもお祭りでもないのに、たかが神殿のお参りくらいで、あんなに飾り立てる必要がある?」
「神様に色目でも使うんじゃないの。お祈りの時に」
「やだぁ」
女主人に負けず劣らず、侍女たちの陰口のほうも中々のものだ。ティイが留守にしている時、留守番の侍女たちの間ではいつも、王妃や王宮の出来事の噂話でもちきりだ。
「それにしても、いい香油ねえ。少しくらい使ってみても、いいかしら?」
「やめときなさいよ。ティイ様ったら、妙なところで細かいんだから。ばれたら両手を切り落とされるわよ」
「あの亜麻布もそうだけど、ここのところ、少し贅沢が過ぎるんじゃない? 欲しいと言えば、メリアメンが何でも持ってくる。他の王妃様たちも競って新しい品を欲しがっているとか」
「問題ないでしょ。どれもこれも、陛下のものなんだから。それに、欲しいと言って持ってくるってことは、足りないわけじゃないってことよ。無ければ出てこないもの」
「それも、そうね」
「あーあ、あたしも、新しい腕輪欲しいなー…」
侍女たちの口さがない雑談が続く中、チエセメトは、己に言いつけられた役目を果たすべく、後宮を後にした。
チェセメトの向かった王宮は、離宮より少し離れた川の上流にある。足の早い彼女なら、ほんの目と鼻の先の距離だ。
厳密に言えば、王の滞在する館の全てが”王宮”であり、そうした場所は都の近くだけでも幾つかある。中でも、最近新しく装い直し、王のお気に入りの館が、そこなのだった。
入り口はもちろん厳重警戒なのだが、既によく顔の知られている王妃の侍女ともなれば、特に誰何されることもない。
「ティイ様からの言伝、陛下に持ってきました」
そう言うと、衛兵は小さく頷いて道を開ける。本当なら、武器など隠し持っていないかも調べられるはずなのだが、それすらも無い。
通い慣れた王宮の奥、庭園に面した日当たりの良い縁側に、ウセルマアトラー王は、背もたれのあるゆったりとした長椅子を持ち出して、ぼんやりと過ごしていた、
「失礼します。」
チェセメトが現れたのを見て、老人は、嬉しそうに目尻に皺を寄せた。
「おお、おお。黒い番犬が来おったわ。どうした? 今日は飼い主と一緒ではないのか」
「ティイ様は、神殿のほう、行ったです。王子様と一緒に」
「ほお。そうか」
「それで、陛下、後から来るか、と――」
「行かぬ。ほれ、どうだ。菓子でも食わんか」
たった一言でチェセメトの用事を終わらせ、目の前の皿の上から小麦粉を固めて作った菓子をつまみ上げる。
「…ありがとう、ございます」
「そこに座れ。どうせ戻っても、ティイは不在なのだろう? ならば、ゆっくりして行け。余の相手でもせよ」
「……。」
暇なのなら、なぜ王妃とともに出かけなかったのだろう。
そう思いながら、チェセメトは、いただいた菓子を口に運ぶ。甘くてとても美味しい。本来なら、彼女のような下級の使用人が一生、口にすることのないような上等の食べ物だ。
広々とした庭園には色とりどりの花が咲き誇り、小さな池には魚が泳ぐ。鳥たちの囀りも聞こえてくる。
差し掛けられた扇の下の日陰は涼しく、心地よい春の風が緊張感を解きほぐしてゆく。
「そういえば、お前がこの国に来てからどのくらい経つかね」
「十年くらいです、陛下」
「お前は、この国が好きかね?」
ふいに投げかけられた、思いも寄らない質問に、チェセメトは眉を寄せた。
「…わかりません」
正直に、そう答える。考えたこともない。そもそも、「人」ではなく「国」を好き、とは、どういうことなのだろう。
「故郷に戻りたいとは思わんのか」
「覚えてないです。どんなところかも分かりません。小さい頃に、この国に来たので」
「そうか」
老人は、どこか遠い目をして柱の向こうの空を見上げている。
「余の国は、良いところだろう?」
「はい」
「そうだろう、そうだろう。良い国なんだ。餓えている者はおらん。首に縄をつけられて働かされる奴隷もおらん。太陽の光は暖かく、風は心地よい。水が枯れることもない。…他所の国で餓えて流されて来た者たちも、この国で、まっとうに暮らせておる」
さわさわと、風が木々の間を通り過ぎてゆく。
「…昔は酷い時代だった。痩せて目をぎらぎらさせた連中が、ぼろを纏って、武器を手にして、海の向こうや東のほうから沢山、押し寄せてきた。山が火を吹いて、太陽が消えて作物が育たなくなったり、水が枯れて、飲水も無くなったりな。かつて『大王』が同盟を結んだ、ずっと東にあるヘテの国も滅びてしまった。だがこの国は生き残った。余が守ったのだ。戦ってな、この国を…」
声がゆるゆかに消えてゆく。
そして、長い、長い沈黙が落ちた。
「陛下」
顔を上げ、そろりと腰を浮かせてみると、王は目を閉じたまま、すうすうと寝息をたてている。
「陛下?」
呼びかけても返事はない。
チェセメトは立ち上がり、ぺこりと一礼して踵を返した。
「…失礼、します。お菓子、とても、おいしかた…です」
従者が、眠っている老人の肩に毛布を掛けにやって来る。入れ違いに、チェセメトは庭を出た。
いつも、こうなのだ。
いつ来ても、年老いた王は一人で、どこか寂しそうに座っている。
(家族がいるのに、どうしていつも一人なのだろう。)
チェセメトには、それが不思議だった。それに、家族が側にいる時は、チェセメトが会いに来た時のようにあれこれ喋らないのだ。いつも黙りこくったまま、話しかけられた返事さえ曖昧なことが多い。
聞かされる話は、いつも、遠い昔のことだった。
若い頃の戦場のこと、戦場を雄々しく駆け抜け、いかにして敵をやっつけたかということ。祖先である偉大な「大王」の如く、戦勝を記念碑に刻み、威光を示したということ。
チェセメトの故郷である南の国へも行ったことがある、と言っていた。そこは暑く、緑も少なく、ただ滔々たる川の流れだけが真ん中にある、地の果てのような場所だとも話してくれた。
そんな話の内容は、理解できるものも、出来ないものもあったが、彼女は、ただ頷きながら聞いていた。
まともに話しかけてくれる者、目を見て話してくれる者など、王宮にも離宮にも、ほとんど居ない。
年老いたひとりぼっちの王だけが、彼女を無視せず、話しかけてくれる。
(国、のことは分からない。だけど、わたしは、王様のことは好きだ。…ティイ様や、王子様がそうでないとしても)
(だから、わたしは、あの人のためになることがしたい。)
黒檀のような黒い、細い腕を眩しい陽の光にかざしながら、彼女は、真っ白に輝く漆喰塗りの王宮の壁を振り返る。
――ただ純粋な、おぼろ気なその願いが、どのような形で報いられるかなど、想像することも無く。
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