第七話 ケリ/過熟の果実

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第七話 ケリ/過熟の果実

 翌日、ケリは、少し早く職場に出た。  まだ誰もいない、しん、と静まり返った書庫。夜の間、倉庫の番に立っていた見張りたちが、朝の当番に交代しようとしている。  (――やっぱりだ…) 先月と今月の台帳を引っ張り出し、墓づくり職人たちに支払われているはずの給料を確かめる。  給料の中身は、一定量の大麦、小麦、豆、肉、亜麻布、塩と油。一般的な家庭でも消費される細々としたもの。  その量は村人の人数によって多少変動するだけで、ほとんど変わっていない。払い出された記録はある。それなのに実際は、職人たちの手元には届いていない。  台帳には、払い出しを担当した書記の名が記されている。  (今月は…ヘルマイさんだ) 過去に遡って、記録をたどる。  (先月も、その前も。) ケリは、ごくりと息を呑んだ。うっすらと抱いていた疑惑が、確信へと変わる。  倉庫の外から、微かなざわめきが聞こえてくる。誰かが出勤して来たようだ。  こんな時間から熱心に台帳を眺めていては、怪しまれるかもしれない。手元の巻物を丸め、立ち上がろうとした、その時だった。  「よう――」 いきなり、肩に手を置かれ、ケリは思わず声を上げそうになった。  人の気配など、無かったはずなのに。  ぎこちなく振り返ると、そこに、ヘルマイのにやにやした顔がある。  「仕事熱心だな、ん? こんな時間から」  「お…おはようございます。いえ、昨日休んでしまったので…」 だが、口調はいつもどおりなのに、ヘルマイの目は笑っていない。  体格のいい男の影が、ケリの体を覆い隠すように目の前にそそり立っている。外から聞こえてくる声はまだ遠く、見張りは交代の真っ最中で、周囲に人の気配は無い。  「何を嗅ぎ回っている?」  「え…」  「昨日、港にいただろう。声もかけずに、こそこそ隠れていた。」 まさか、それも気づかれていたのか。  それでもケリは、平静を装うようにして答える。  「それは…体調不良でお休みをもらっているのに出歩いていては、不自然かと思って。それだけです」  「ふうん…本当に、それだけか?」  「……。」  「妙だとは思っていたんだよな。宰相殿の甥っこがさ、ちょいと不始末をしでかしただけで、こんな場末の職場に送られてくるなんてさぁ」 低い声で言いながら、男は周囲にそれとなく視線を巡らせた。  「あんた、何か探りに来たんだろう? 差し詰め――横領疑惑の調査、とか?」 にやりと笑ったヘルマイの目が、怪しく光った。  「知られちまったからには、どうするかな…」  「――!」  「なあんて、な」 体をこわばらせているケリの目の前で、男は突然、表情を崩してクックッと笑い出した。  「冗談だよ、冗談。あんた、嘘が下手だなぁ」  「…え?」  「ま、頭がキレるのは確かだな。俺が半年かかったところまで、ほんの数週間で辿り着いた」 言いながら、ヘルマイは側の座椅子に腰を下ろし、表情を変えた。  それまで見せていた、浮ついた倉庫番のものではない。鋭利に研ぎ澄まされた、何か全く別の本質を表す顔つきだ。  「そう、あんたが思ってることは正しい。で、昨日、港で話をしていたのは後宮の執事、メリアメン殿。――俺ぁ、執事殿に依頼されて、巧いこと物資の横流しをするよう求められてる。そこまでは、とっくにペレムヘブ様もご存知だ」 ぽかん、としたまま思考を巡らせていたケリは、ようやく我に返った。  「そうか! ――貴方も、伯父さんに言われてここに潜入していた一人なんだな?」  「ご明察。飲み込みが早くて助かるぜ。」 男は、我が意を得たりとばかり口の端を吊り上げる。  「俺はな、元は従軍書記なのさ。二年ほど前まではラメセス殿下のところにいた。それが、怪我をしちまってな。引退後の仕事をペレムヘブ殿に世話してもらった。そのご縁だ」 言いながら、男は大きな傷跡の残る片膝を撫でる。  「でも、あなたが先に答えに辿り着いていたなら、どうして伯父さんも、ラメセス殿下も、何もしないんですか」  「何もしていないわけじゃあない。俺にたどり着けたのは、ここの倉庫長と、執事の一人までだ。だが結局、そいつらは末端の一人でしかない。――実際、そうだった。俺が密告した後、ここの倉庫長と、癒着していた執事はクビになった。で、すぐにまた次の倉庫長と執事が任命され、同じことが繰り返されている。それが、今だ」  「……。」  「末端は幾らでも入れ替えられる。そいつらの先にいるのが何者なのか、どれだけの人間が関わっているのか、何をしようとしていいるのか――もっと、根本的なところを突き止めなきゃあ、意味がない。」 ケリは、思い出していた。  確かに、ペレムヘブもラメセスも、言っていたのだ。――「幾ら下っ端を捕らえて断罪したところで、首謀者まで遡らねば意味がない」と。そして、「首謀者は、おそらく『上の国』の宰相、カムオペトではない」とも。  「だとしたら…後宮の中にいる誰かが、横領の糸を引いている…?」  「ああ、恐らくな。だがなぁ、後宮の中までは、流石に、俺じゃどうにも入り込めん。俺なんざ所詮は下っ端よ。だがな、坊っちゃん、『左遷された宰相の甥』という肩書を持つあんたなら、どうだ? 巧くすれば、後宮の中におわす、やんごとなき方々も引っ掛けられるかもしれん。あんたの切れ者の伯父上がお考えなのは、ま、そんなところだろう」  「……。」 思い浮かんだのは、大神殿の前ですれ違った、カエムワセト王子の顔だった。  「困ったことがあれば頼れ」。  あれがただの社交辞令だったとしても、今ならば、あの記憶が新しい今のうちならば、まだ、利用する手立てはある。  「――分かった。やってみるよ」  「お? 流石だなお坊ちゃん。何か妙案が思い浮かんだのかい」  「まあね。巧く行くかは分からないけど」 ケリは、ちょっと肩をすくめた。  そろそろ、他の同僚たちも出勤してくる時間だ。  「さて、と」 ヘルマイは、ゆっくりと腰を上げた。その表情は、いつしか、普段どおりのへらへらした軽薄な雰囲気へと戻っている。  男がぶらりと倉庫の外へ歩き出すのと同時に、別の入り口から、同僚たちがやって来る。  「お、あんた。元気になったのか。」  「気絶してひっくり返ったと聞いたぞ。まぁ災難だったな」  「おはよう。お陰様で」 当たり障りのない挨拶をかえしながら、ケリの内心は、複雑な思いで一杯だった。  疑いの最前線にいたヘルマイは、まさしく横領の実行犯の一人だった。だが、突き止めるべき相手は、彼では無かった。  本当に突き止めるべき首謀者は彼でも、執事の一人でもない。もっと――手の届かない何処かにいる相手…。  そしておそらくは、昨日、ヘルマイが執事に引き渡していた物資が、本当なら西の谷の墓づくり職人たちに支払われるはずの給料だったに違いないのだ。  (首謀者にたどり着くのが遅れるほど、彼らのように、困窮する人々が増える。王家や政治への不満も溜まる。)  内乱の兆し。  この国が割れる、とまで言ったペレムヘブの言葉は、杞憂ではないのかもしれない。  ケリが行動を起こしたのは、その日のうちだった。  そしてほんの数日後には、離宮へと招待されていた。  離宮は、王家の人々が使う接客用の施設で、川べりに面した高台にある。  すぐ目の前には王族専用の波止場があり、川遊び用の小舟が停泊している。白い漆喰塗りの二階建ての建物の屋上は、日除けの布が張られただけで壁の無い、見晴らし台になっていて、宴会用の小卓や長椅子が並べられていた。  ケリが通されたのは、その見晴台だった。  「やあ、よく来たね」 気さくな笑みとともに出迎えるカエムワセトの前で膝を折り、ケリは、形式通りに平服する。  「私のように取るに足らぬ者をお招きいただき、誠に恐悦至極でございます。このような栄誉に浴することの出来る我が身の幸運に、感謝致します」  「ははっ、堅苦しいな。そういうのも、ペレムヘブ殿の教育の賜物かい? お前のような真面目な者が、どのようにして兄上の不興を買ったのかは興味があるな」  「…それは、…ご容赦下さい。私としてももう、忘れたいことなのですから」  「そうかい? まあ、座りたまえ」  「はい」 卓の上に並べられているのは、色つき硝子の高価な杯。控える使用人が手にしている酒瓶から注がれているのは、上質な葡萄酒だ。炙った鵞鳥肉に、香辛料をたっぷり入れて煮込んだ豆料理、それにきめの細かい生地で焼かれたパン。  こんなご馳走は、祭りの時でも滅多に口にしたことがない。  だがカエムワセトは、これが普通だと言わんばかり、特段自慢することもなく、平然とした顔で杯を手にとる。  「さあ、乾杯しようじゃないか。」  「ありがたく、いただきます」 杯に形だけ口をつけ、ケリは、小さく溜息をつきながらその手をおろした。  「どうした。酒は飲まないのか」   「いえ。…この先のことを考えると気が重く、どうにも、食べ物が喉を通りません」 その態度も、口上も、予め考え抜いてきたものだった。自分が、嘘を付くのも演技するのも苦手なことは、分かっている。ならば、いい。  「ご存知のとおり、私は伯父に解任され、今は倉庫番を…『白い家』の御料地の倉庫の帳簿の管理をしています。ひどい仕事です…ほとんど何もすることがない。ただ数字を書き込むだけの、下級書記だって出来るような仕事です」  (それは事実だ。あそこにいる書記たちは、倉庫に入っている品目の読み書きすらままならない)  「しかも、あちこちへお使いにやらされるのです。倉庫番を引き連れて、物資の配達を。治安の悪い地域にも行かされますし、揉め事にも巻き込まれる。先日など、倉庫の前にいた無頼の輩に因縁をつけられて、殴り倒されました。それで目を回して、家に担ぎ込まれたんです。あんな目に遭うなんて、思ってもみませんでした。」  (そう、これも本当のことだ。とっくに噂になっている。それに、あれは狙ってやったわけじゃない)  「――こんな屈辱にはもう、耐えられません。一体いつまで、あの酷い職場で働かねばならないのか。母にもひどく心配されています。ああ、慈悲深いカエムワセト殿下。どうか、お力添えいただけませんか? 元の職場には戻れぬとしても、少しでもましな職場があるはずなのです。どうか」 ケリは、出来るだけ哀れっぽく、声に真実味を帯びた切実さを載せて訴えた。  これは、カエムワセトに気に入られるための演技ではない。  彼の自尊心をくすぐり、気前の良さを示させ、恩を売ったと思わせるための作戦だ。何より、ここで失敗すれば全てが終わってしまう。その意味では、”切実”であることに何ら、偽りはない。  杯を置いて、カエムワセトは、しばし考え込んだ。  「――話は分かった。そうだな。お前は優秀で真面目な書記だった、と聞いている。それを倉庫番に落としてしまうなど、勿体ないことだ。酒の席での出来事で、兄上は少しばかり厳しく当たりすぎだ」  「……。」  「だが、どうしたものかな。兄上の手前、王宮内の官職に戻すことは叶わぬだろう。何か、希望の職はあるのか?」  「いえ…。ただ、治安の悪い場所や、品のない下賤の者たちと関わる仕事はもう、嫌です。表に出ずに済む仕事でしたら、何なりと。ラメセス様とお顔を合わせることのないような職を…」 声を押し殺して訴えかけながら、その実、ケリの頭の中は冷静そのものだった。  狙った場所に潜り込むため、事前に、幾通りもの条件を考え抜いて来たのだ。  (そうだ。この条件で、貴方の裁量で僕に授けられる官職なら、選択肢は幾つもない) 頭を垂れ、杯の中に揺れる赤黒い液体を見つめたまま、ケリは、時を待った。  「…では」 カエムワセトが、ゆっくりと口を開く。  「後宮の執事、というのはどうだろうな。西の後宮は、我が母上が取り仕切っている。これから大祭の準備もあって、人手が足りないと聞いている。丁度いいだろう」  この瞬間、ケリは、己の企みの成功を確信した。  それとともに、与えられた使命の本当の始まりを知った。  「ありがとうございます…それならば、きっとお役に立てることと思います!」  「よし。では、祝いの宴といこうではないか」 王子は、笑みを浮かべて酒の杯を干した。  「お前も飲め」  「いただきます。ああ…とても美味しい」 ほっとしていられるのも半分だけ、これから本番なのだ。  後宮ともなれば、行動も振る舞いも、今以上に制限される。果たして、そんな中でどれだけのことが探り出せるのか。  「ところで、どうだ? 私の宴は」 ぼんやりしかかっていたケリは、意思せぬ問いかけに、はっと我に返った。  「ええと…そうですね、私のような庶民に、まさかこのような立派な持て成しをしていただけるとは」  「お前は、兄上の宴にも出たのだろう」 目の前に、何やら思わせぶりなカエムワセトの笑顔がある。「どう違うのだ。」  「それは…王位更新(セド)祭の夜ことを仰っているのでしたら…。」 どういう意味だろう。  いや。意味ならば分かっている。酔ったふりをしているが、目の前の若い男は、至ってしらふだ。  ケリは慎重に口を開き、言葉を選んだ。  「…酒だけでした、あの時は。それも麦酒だけで、少しばかりのつまみだけが。場を盛り上げる楽師も見世物も無く、御座船の上は少し肌寒うございました」  「ははっ、そうか。それで?」  「何とか盛り上げようとしたのです、…私は。あの…その時の失態の話を、ご所望ですか?」  「いいや。」 カエムワセトは、愉快そうに目の前の皿から肉を一切れ、取り上げた。  「兄上は少々、発想がケチ過ぎるのだ。勿体ない、とか必要ない、とか直ぐに言う。上のものが振る舞ってやらねば、下々の者まで行き渡らない。気前よく褒美を与えなければ、人は動かない。そういうものだろう」  「…そう、ですね。カエムワセト殿下は、ラメセス殿下とは違います」  「違う? 勿論だとも! あのような堅物と一緒にしてもらっては困るのだ。まったく、二言目には国が、国民が、責務が、と。難しいことばかり言って煙に巻こうとする」  「……。」  「お前の伯父上もそうだぞ、何かにつけて説教ばかり。息苦しくてかなわん。舟遊びに出るだけで許可をとれ、などと言ってくる。少々の宴ですら、世間体がどうの、意味が、時期が、と。つまらん連中だよ。お陰で、今日も楽団無しだ。客をもてなすのに、酒と料理だけだぞ? この私が。王の嫡子が。」  (…この人は) ケリは、驚きと呆れを抱きながら目の前の若い男の言葉を聞いていた。  カエムワセト王子の性格など、これまで、ほとんど意識して来なかった。皇太子である兄に比べ軟弱だ、とか、愛想が良く人好きがするが浮ついたところがある、とか、そんな伯父の評判をただ、何とはなしに聞いていただけだった。  けれど今、実際に目の当たりにして接したケリの脳裏には、一つの言葉が浮かんでいた。  (――”俗物”…) 嫌悪感よりも憐憫が先に来るほどの、小さき器。  この人は、王になるべきではない。  …たとえ、天の恵みを得て兄以上の長寿を賜るとしても、だ。  次第に熱っぽくなってゆくカエムワセトの語りに相槌を打ち、曖昧に話を合わせながら、ケリは、見晴台の向こうにゆっくりと西へ傾いてゆく、太陽の軌跡を眺めていた。  人知れずこの国を蝕もうとする腐敗と、凋落の兆しの一端を、確かに側に感じながら。
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