第八話 チェセメト/巡る企み

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第八話 チェセメト/巡る企み

 日は高くなりはじめ、昼の日差しに触れた肌が焼け付くように感じられる。  川面を渡る風の匂いが変わり、夏の近づく気配がする。  その日、チェセメトは主人である王妃ティイとともに、王宮の中庭に面した部屋にいた。ティイの傍らには数人の執事が立ち、向かいには、気乗りのしない顔で庭の小鳥たちを眺めている王がいる。  「――という段取りです。いかがでしょう、陛下」  「面倒だ。何故、余が表に出ねばならん? 神像の先導は、ラメセスがやれば良い」  「陛下…。」 ティイが、不満げな声を上げる。  さっきからもう、何度目の繰り返しだろう。  彼らは、「谷の大祭」の準備をしているのだった。祭りの大まかな進行は、こうだ。――夜を徹しての祭りの後、大神殿から神像が担ぎ出され、大行列とともに都に外れにある「神々の離宮」、もう一つの神殿へと像が運び入れられる。それとともに、王宮を出た王と王妃も船に乗り、神殿へと入って祭儀を執り行う。  問題は、王妃が王の行幸をも派手に飾り立てようとしていることだった。  「要らん、要らん。そんな大仰な行列など。民の前に出るならば、神殿の前だけで良かろう。ただの移動に行列など」  「それでは、体裁というものが成り立ちません」 ティイは引き下がらない。  「陛下のおん身もまた、現世の神なのですよ。アメンの大神は陛下の魂の父上であらせられます。それが、この目出度き大祭に、こそこそと川を渡るなど在り得ません。人が集まるのです。王の威を示していただかねば」  「だから、それはラメセスがやればよいのだ」 ウセルマアトラー王も、頑として聞き入れない。  「それとも、お前はラメセスと並んで立つのが嫌なのか?」  「な、…」  「ラメセスは次の王なのだ。王家の威を示すために大神の聖家族を模したいというのなら、あれに頼んで、あれの妻と息子も祭りに寄越して貰うが良い。それで事足りよう」  「そんな……。」 ティイの顔が、怒りに赤らむのが判る。周囲で、柱の陰に立っている他の侍女たちが笑いを押し殺しているのが分かった。  「それでは、カエムワセトの立場が無いではありませんか。わたくしと、カエムワセトは、一体どこに居ればよいのです?!」 甲高い声が、部屋の中をこだまする。  チェセメトは、内心苦い思いとともに、黙って後ろ手を組んでいた。  王妃が王とともに派手な行列をしたいのが、「王家の威を示す」ためではないことなど、王はとっくに気づいているはずだ。  王の隣に立つ美しい自分を、より多くの人々に見せつけたいのだ。そして出来れば、皇太子ラメセスではなく自分の息子カエムワセトを、共に並べたい。  「口を挟むことをお許し下さい、陛下。これでは、段取りが進みません」 見るに見かねて、一人の若い執事が口を出す。  「妃殿下には、カエムワセト様とともに行列に出ていただき、陛下は神殿前で落ち合う、というのはいかがですか? 元々、祭りは大神が奥方なる女神の住まいを訪れるもの。であれば、妃殿下が先に到着し、大神の化身であらせられる陛下が出迎えを受けても、何ら不自然はございません」  「ふむ。ならば良い」  「陛下…!」 ティイは不満げに口を尖らせたが、これ以上言い争っても無駄だと思ったのだろう。傍らに侍らせた執事にも促され、彼女は、渋々と首を縦に振った。  「分かりました、分かりましたわ。では、そう致しましょう。」 溜息とともに、立ち上がる。  「ラメセスの意向も聞くようにな。ただ、あれは派手嫌いだ。賑やか過ぎる場には出たがらぬと思うが」  「ええ、心得ております。行くわよ、メリアメン。」  「は」 執事を従え、王妃は部屋を後にする。女たちの立ち去った後には、きつい香水の匂いが後に残されている。  侍女たちとともに後に続きながら、チェセメトは、ちらと振り返って王の背中を眺めやった。  椅子に腰を下ろしたまま、黙って庭を見つめているその背中は、まるで、時の中で一人、取り残されているようにも見えた。  王の居室を退去したあとも、ティイは、真っ直ぐに後宮へは戻らなかった。  川べりを見渡せる明るい部屋に陣取って、打ち合わせの続きを始めようとしている。  「まったく、陛下ときたらもう」 人目もはばからずに大きな溜息をつき、不機嫌そうに足を組む。  「何か飲み物を。少し暑いわ、(あお)いで頂戴」  「はい」  「そこの日除けの角度を変えて。気が利かないわね、もう」  「すいません」 侍女たちがかいがいしく動き回り、王妃のために快適な環境を作ろうとする。声がかかるまで特に役割のないチェセメトは、柱の影の一部となって立っているだけだ。  「予想されたことではございませんか。いつもどおりの」 向かいに立つ執事が、苦笑する。  「ええ、本当に。他のことは好きにしろだとか言うくせに、どうしてこうも、儀礼ごとだけこだわるのかしらね。面倒な」  付いてきているのは、メリアメンと呼ばれていたお気に入りの執事だけ。よく後宮にもやって来る、見知った顔だ。他の執事たちは、決められた段取りを他の者たちに伝えるために先に去っている。  「あまり、人前に出たくはないのでしょう」  「そのわりに、王位更新(セド)祭は人を集めてやりたがったわ。あんな暑いところで、わたくしを長時間待たせて。全く、あの気まぐれには付き合っていられない。」 小さく溜息をつく。  「――そうだ、例の件。どうなの? 素材は渡しておいたでしょう」  「は…」 王妃と執事は、何故か視線を当たりに彷徨わせた。  「少し、小腹が空いたわね」 ふいに、ティイは声を上げた。  「お前たち。厨房へ行って、何か作らせて来なさい。それから、お酒も少し。」  「は、はい」  「何をぐずぐずしているの。皆で行くのよ。そうすれば少しは早く片付くでしょう? それと、もっと大きな扇を持ってきなさい。そんな小さなので扇がれたって、ちっとも涼しくない」  「はい…」 侍女たちが、慌てて駆け出していく。  全員だ。  チェセメトは、あたふたと辺りを見回した。王妃は、彼女にだけは指示を出さなかった。残しておくつもり――では無かったのだろう。ただ、純粋に忘れていた。影の一部となって立つ、ほとんど気配も存在感もない、黒い肌の使用人の存在など、頭の中からすっから抜け落ちていたのだ。  (厨房に、ついていくべきだったんだろうか) 思ってみても、もう遅い。  柱の陰から出る機会を逃したまま立っていた彼女の目の前で、二人は、顔を突き合わせて何やら内密の会話をはじめてしまった。  「陛下の御髪を手に入れるのには、苦労したのよ。きちんと渡してくれた? 呪物には十分なはずよ。なのにどうして、未だに効果が出ていないの。」  「確かに人形に埋め込みました。依頼した先も確かな腕の呪術師で…。恐らくは、陛下のご運が…おそらくは、神々の加護が、お強いのだと思います。」  「ま。あんな年寄りが? ろくに走れもしないのに?」  「それでも、です。――それでも陛下は、大神がお認めになられた、正当なる王、ということなのです」 柱の影の一部になったまま、チェセメトは、どきん、どきんと激しく高鳴る心臓を抑えていた。  (一体、何の話をしているのだろう) 声を潜めて交わされる会話は、本来、彼女が聞くはずではなかったものだ。そして二人の様子からして、これは、好ましい話とは思えなかった。  (人形…呪術師? 陛下が…どう関わる?)  「やはり、陛下を直接狙うのは、無理なのです。おそらくはラメセス殿下も。王家の血筋にある方々には、強力な加護があります。可能ならば、別の方法で」 執事が囁く。  「呪詛をかけるなら、周辺の者が良いでしょう。そう、例えば、警備兵や…陛下の懇意にしている重臣…」  「あまり大っぴらにやって、気づかれたら拙いわ」  「分かっております。ですから、慎重にも慎重を重ねて…」  「だいたい、効くかも分からない呪詛なんて、はじめから当てにならないのよ。もっと直接の…。」 声が小さくなり、チェセメトのいる場所からは、ほとんど聞き取れなくなった。だが、密談する二人の口元が、何やら物騒な言葉を呟いているのだけは判る。  まもなく、ぱたぱたと足音を響かせて、侍女たちが厨房のほうから戻ってきた。  「お待たせ致しました。――飲み物はじきに…」  「もういいわ」  「えっ」  「後宮へ戻ります。」 それだけ言うと、ティイは、呆気にとられている侍女たちを尻目にさっさと歩き出す。労いの言葉一つもない。大きな扇を抱えて戻ってきた少女も、困惑した表情で、王妃の取り澄ました顔と、仲間たちの表情を見比べている。  何も手にしていないチェセメトだけが、王妃の後をついて歩き出した。  「あら、お前はいたの。相変わらず素早いのね」 ティイは、自分が何の指示も出していなかったことも忘れて、チェセメトのほうに機嫌の良い笑顔を向けた。  「ぐずで愚かな女たち。ろくな家柄でもないのを、このわたくしが取り上げてやったというのに、気が利かないったら。」  「……はい。」  「わたくしは、この国の第一妃よ。神にも等しい王の側に立つことの許される、唯一の女。王の血を引く若き鷹の母でもある。あのような、取るに足らぬ者たちとは違う」  「……はい。」 チェセメトは、ほとんど反射的に相槌を打つ。それが自分に求められる役割だと、知っているからだ。従順である限りは、王妃は、給料や褒美を弾んでくれる、良い雇い主だった。  (でも…) 胸の奥がざわめいた。  こちらに背中を向けたまま座っていた、最後に見た老王の後ろ姿。  (わたしが、何かしてあげたいのは、…あのお方だ) 顎を上げ、胸を張って、自らを見せびらかすようにして王宮前の道を堂々と歩いてゆく王妃の背中に、王の背中に抱いたような感情は、いささかも湧いては来なかった。  王宮の出口に差し掛かった時、後ろから、さっき見かけた執事の一人が追いかけてきた。  「ティイ様」 息を弾ませて駆け寄ると、若い執事は、軽く礼をしてから端的に用件を告げる。  「先程決まった『大祭』の段取りですが、大まかにしたためておきました。これが写しです。こちらでご確認いただき、問題なければカエムワセト様にもお伝え致します」 言いながら、巻いて紐で留めた紙をうやうやしく差し出す。  「あら、もう? 仕事が早いわね」 ティイは上機嫌だ。  「仕事の早い者は好きよ。お前――そういえば、確か、カエムワセトの推薦で最近入った…」  「ケリと申します」 そう言って、若い執事は深く頭を下げた。  「ああ。思い出した、ラメセス殿に手ひどくあしらわれたとかいう、例の。ふふ…使える人間を放逐してしまうなんて、あの方も人を見る目がないこと」  「勿体ないお言葉です」  「丁度いいわ。お前にもうひとつ、仕事を頼みたいの」 優雅に長い髪を揺らし、ティイは、流し目で執事のほうを見やった。  「あと数日で、南方からの品が船で届く。お前、その船が着いたら、真っ先にわたくしに知らせを寄越しなさい。誰よりも早くよ」  「は? …」  「分かったわね」 意味不明な言いつけのように思えたのに、理解に要したのはほんの僅かな時間だけで、若い執事は、すぐに明瞭な顔で頷いた。  「かしこまりました。」 王妃は満足げな笑みを浮かべ、再び歩き出す。その頃には、置いてきぼりを食らっていた侍女たちも、大慌てで追いついて来ていた。  同僚たちが追い越してゆくのを待ってから、チェセメトは、最後尾を歩き出した。  (南方からの品…。) それが、国境の南の果てより先、クシュの国や、その先にあるはずのチェセメトの生まれ故郷、ワワトから運ばれてくる、珍しい品々だということは知っている。  黒光りする珍しい木材――黒檀や、良い香りのする香料、猿などの動物。  いずれも、この国では手に入らず、王と、王から下賜された家臣だけが持つことを許される品ばかりだ。チェセメトも、何度か王妃が品定めをしている場に居合わせたことがある。祭りのために、特別に取り寄せたのに違いない。  「戻ったら、装身具の手配をしなければ。…職人たちに依頼を出すの。首飾りに、宝冠に…」 王の前ではあんなに不機嫌だったティイは、いつの間にか機嫌を直して明るい声で話し続けている。  彼女の頭の中には、はや、祭りの日に見せつける、誰もがあっと驚くほどきらびやかな行列が思い描かれているようだった。  けれどチェセメトの脳裏には、さっき見てしまった密談の雰囲気と、漏れ聞こえた不穏な会話の切れ端が、疑惑とともに暗く渦巻いているのだった。
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