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そば(1)
「こんにちは~、誰かいませんか?」
私は魔法使いが出てきてもおかしくないような、赤い三角屋根の隣家にきていた。ここには私より年上の男性が一人でくらしているらしい。もう三度呼びかけたのだが、誰もいないようだ。玄関のカギはかかっていないから、もしかしたら出かけているのかもしれない。
仕方なく、そばを抱えたまま玄関を出る。私はこの家の隣の平屋で、今日からひとりぐらしを始めた。母はアパートかマンションにしたほうがいい、ときかなかったのだが、私は古めかしい一軒家にこだわった。
ちなみにこの一帯は古民家が密集しており、住民からは『平屋街』と呼ばれている。
「どちらさま?」
渋い声に思わず振り向くと、そこには四十代くらいの男性が立っていた。私は厚手のコート姿だというのに、その人は薄手のシャツ一枚だ。重ね着が苦手なタイプなのかもしれない。
「あの、隣のものです。三濃川照と言います」
初めましてのはずの男性が、どこか懐かしく感じてしまう。
「ああ、引っ越してきたっていう人? 山野井昇です……随分若いな」
「はい、今日からよろしくお願いします」
私は紙袋に入ったそばを男性に渡した。
「別に気ィ使わなくていいのに」
「最初が肝心なので」
「じゃあ遠慮なくもらうか」
「……あの、山野井昇さんって言いました?」
「山野井昇ですが何か問題でも?」
既視感と記憶が、脳の中で結びつく。
「もしかして、小説家のヤマノイノボル先生ですか?」
「うげっ。俺のこと知ってるのか?」
「知ってるも何も……大ファンです!」
突然の出会いに心臓が高鳴った。まさか、こんなところで念願がかなうなんて。ネット上でささやかれていた、山野井先生の噂。北海道の南のほうに移住したという情報は本当だったようだ。おそるべし『山ノカミ(ヤマノイノボル先生のファンが自分たちのことをこう呼んでいる)』。
「マジか?」
「マジです。既刊は全部、二冊ずつ持ってます。ハードカバーも文庫も」
「マジもんだな……こんなところで会いたくなかったけど」
「お会いできて嬉しいです!」
「一番好きな作品は?」
「『夜雨』です」
私が興奮気味にそう告げると、山野井先生はあからさまに元気がなくなった。
「そうか」
彫りの深いまぶたを伏せながら、山野井先生が頷く。
「俺の全盛期だからな。でも、たいていの人は『秋のせせらぎ』を挙げるけど」
「全盛期は今じゃないですか?」
「おっ、今の作品も読んでくれてんのか?」
「もちろんです! 引退って聞いたときはすごくショックで……三日くらい泣いてました。小説投稿サイトに移られるって知ったときの興奮は、今でも覚えてます」
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