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引っ越し女
「鏑坂さん」
「ああ。女将さん。先日はおはぎをありがとうございました」
大家の女将。アパートの前で会った鏑坂。その彼に女将はこっちに来いと着物の袖を掴んだ。
「どうしたんですか」
「……ちょっと聞いておくれよ」
アパートの向かいにある大家の家。そこに連れてこられた鏑坂、庭から縁側に座らされた。そこでは大家が呑気に爪を切っていた。
「お?先生。どうした」
「どうしたじゃありませんよ。女将さんが急に」
そこに女将がお茶を出してきた。大家と鏑坂はお茶を飲んだ。
「で。なんで先生を呼んだんだよ?」
「あんた。今度入居した女の話さ」
「佐藤さんか?ああ、美人さん」
急にデレ顔の夫、女将はムッとした。
「あんた!」
「ひえ?」
「あの。僕は帰って良いでしょうか」
女将はすっと書類を出した。
「あんたに見て欲しいんだよ」
「これは?」
「その佐藤さんの契約書なんだ」
アパートの賃貸契約。問題になるような不備は彼には見当たらなかった。
「これのどこか疑問なんですか?」
「問題はこっちさ」
「これは。履歴書ですね」
佐藤ミツと書かれた書類、これは就職用の書類だった。
「佐藤さんはうちに入居して。この書類を持って仕事探しをしているんだけど。相手の会社の人がそれを見て、私に相談してきたんだよ」
覗き込む大家。不思議そうな顔をした。
「おい、これの何がおかしんだよ」
「よくご覧よ。やけに頻繁に引っ越しをしているじゃないか」
確かに。彼女の職歴は他県での会社のもの。鏑坂も目に止まった。
「そうですね。頻繁に移住しているようです」
「だろう?本人は良い人そうなので、雇いたいらしいんだ。でもね。訳ありだと困るって言うのさ」
「なるほど。だから女将さんに相談に来たんですね」
鏑坂。彼女の職歴を見た。工場の勤務、掃除の仕事、会社の事務。これを見る限り彼女はいろんな仕事ができそうなイメージだった。
「ねえ。探偵さん。彼女は大丈夫なのかね」
「というと」
「……悪いことをして逃げているとか。あと、借金を踏み倒しているとか」
「おい!佐藤さんはそんな女じゃねえぞ」
美人を庇うちょび髭大家。女将は怒って鏑坂を見た。
「とにかく!あんた。あの女を調べてちょうだい」
「僕がですか?」
驚く鏑坂、ここで大家はうなづいた。
「そうだな。先生よ。どうか彼女の潔白を晴らしてやってくれ」
「お前さん!いい加減におし!」
「喧嘩はなりません!とにかく。これは預かりますね」
場が収まらないと見た鏑坂。アパートに戻った。そこに、若い女がとぼとぼ歩いてきた。
……見慣れない顔。あれが佐藤ミツか。
彼は挨拶してみた。
「こんにちは」
「……こんにちは」
小さな声。俯いたまま彼女はそっと部屋に入ってしまった。鏑坂、みないようにみていた。
……さて。どうしたものか。
部屋に入った彼。今の娘を思い出していた。
安物の着物。疲れ顔。何よりも手が荒れていた。痩せた身体、手入れがやっとの髪。ずいぶん生活に疲れているようだった。
このアパートは古いため格安。鏑坂は面白いので住んでいるが、彼女は収入が乏しい感じがした。
そして部屋にて彼女の履歴書を読んだ。
……綺麗な文字だ……それに、女学校を出て教養があるのに。なぜこんなに職種を変えているのだろう。
たくさん書かれている職業。彼女の経験を表していた。まだ三十歳にならない彼女。鏑坂、その理由の可能性に眉を顰めていた。
その後。鏑坂は詩の仕事で多忙になりつい、佐藤ミツの件は忘れていた。そして事件が起きた。彼が夕刻に帰宅すると、部屋が叩かれた。
「探偵さん!」
「女将さん」
「あの、あの娘さんが」
「どうしたんですか」
興奮している女将。こっちに来い!と太い腕で彼を引っ張った。
「なんだって言うんですか」
「いいから来なさい!ほら」
「これは……」
そこの佐藤ミツの部屋の戸。そこには『売女』と書かれた紙が貼られていた。
「やっぱりね。あの娘さんは曰く付きの女だよ」
「うーん」
そこに。大家がやってきた。
「探偵さん!こっちの門のところにはゴミが捨ててあったんだよ」
「嫌がらせですか……して。本人は?」
大家夫婦。彼女はまだ帰ってないと行った。その時、三人の背後で音がした。
「あれ」
「あ、あんた。あんたの部屋が」
「え?これは」
青ざめた娘。しかし、悲しそうな顔をした。
「すいませんでした。本当に申し訳ありません……」
頭を深々と下げた娘。そして自分でその張り紙を外した。三人はそれをじっとみていた。
「あの、他には何か嫌がらせは?」
「あ?ああ。ゴミが捨てられてあったけど」
「どちらですか?私、片付けますので」
淡々としているが。その顔は悲しそうだった。鏑坂、彼女のことをじっとみていた。自分でゴミを拾うと言う彼女。みていられない大家の旦那は一緒に片付けていた。
娘のその顔。涙で濡れていた。流石の女将も目を細めてた。
「なんだって言うんだ。あの娘は」
「疫病神でしょうね」
「やっぱりかい?」
鏑坂。秋の落ち葉が降る中、遠くの空を見上げていた。
そして。鏑坂と大家夫婦は大家の家にて事情を聞くことにした。彼女は謝ってばかり。悲しく俯いていた。
「私、明日、出て行きます、ご迷惑をかけてすいませんでした」
「あんた。何か事情があるんじゃないのかい」
「そうだよ。これでも相談に乗るよ」
「いいえ。ご迷惑かけるわけには参りません」
頑なな娘。出て行くと言う。彼女のこの態度。どこか幸せを諦めているようだった。
「お二人とも。しばし、彼女と話をさせてください」
「え」
「俺たちが邪魔かい」
「そうです」
「は?」
「わかった!いいから。あのな娘さん。この人は探偵さんだ。相談に乗ってもらえるぞ」
うるさい女将と大家の主人を追い出した静かな部屋。鏑坂は静かに話し始めた。
「私はこのアパートの住人です。あなたが出ていこうとどうでも良いことですが。ここを出ても、あなたにはその不幸が続くのではありませんか」
「……」
「失礼ですが。どうやら転居を続けているご様子。もしや良からぬ人物に、追われているのではありませんか」
娘。正座の上の手をびくとさせた。鏑坂、確信をついたと思った。
「あなたはどこに行っても雇ってもらっています。それはあなたが良い人だからでしょう。しかし、あなたはすぐにやめて他所にいってしまう。おそらく、誰かに追われているのではないか、と僕は思いました」
「……もう、諦めたことですから」
的中。そして悲しく笑う娘。鏑坂には彼女は話し出した。
「離縁したんですが……聞き入ってもらえず。こうしてやってきては、私からお金を取ろうとするんです」
「警察に相談は?」
「元夫は外面が良くて。私の話を信用してくれません」
「何か。その男があなたにした所業の証拠になるようなことはないのですか」
彼女。じっと鏑坂を見た。その目は真剣だった。彼女はくるりと背を向けると、おもむろに着物をずらした。白い頸、綺麗な肩、しかしそこにはひどい火傷の跡があった。
「あの男は外面は良いのですが、お酒を飲むと、手がつけられなくて」
「すいません。古傷を触ったようで」
「いいえ。もう、幸せになるのは、諦めているので」
悲しい言葉。彼女はそう言って着物を整えた。その痩せた身体、鏑坂、胸が痛んだ。それに反し、彼女は吹っ切れたようだった。
「ここは大家さん夫婦が良い人で。ずっと住んでいたかったんですが。これ以上は迷惑かけられないです」
そう言って笑顔を作った娘。鏑坂はじっと彼女を見つめた。彼女は微笑んだ。
「明日、出て行きますから。心配なく」
「ミツさんと言いましたね?他に行く宛はあるのですか」
「探偵さん。いいんです。もう何をしても無理ですから」
悲しい涙が光ったのを彼は見つけた。彼女の本当の心。鏑坂、思わず口に出た。
「では。最後に僕に賭けてみませんか」
「賭け?」
驚きのミツ。彼はうなづいた。
「そうです。どうせ逃げるんだったら。ちょっと試してみませんか」
「あの、それはどういう」
少し元気が出てきた娘。鏑坂、微笑んだ。そして彼女にそっと耳打ちをした。
「どうですか?」
「でも、それで本当に」
「やってみないとわかりません。ああ。女将さんには事情を話しておきますね」
こうしてこの日。話し合いは終わった。翌日、アパートには大家の悲鳴が聞こえた。
「どうなさったんですか」
「あ。ああ先生よ。大変だ!あの、娘さんが死んだんだ」
「なんですって」
血相を変えた大家。鏑坂を慌てて彼女の部屋とひきづってきた。そこには布団に横たわった娘。そして傍には大家の女将が涙で寄り添っていた。
「あ。先生。朝、呼びにきたら冷たくなっていたんだよ」
「……なんてことだ」
あり得ないと首を横に振る鏑坂。大家の旦那は大泣きをした。
「うわあああ。娘さんが死んじまった!可哀想に」
パニックの旦那の嘆きが部屋や外に響いていた。
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