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すでに医者に診せたと女将は冷静に語った。
「この娘さんは身寄りがないから。うちで葬式を出しますよ」
「では。僕が部屋の外に弔中の貼り紙をしますね」
鏑坂。毛筆でサラサラと書いた。そして戸に貼った。すると見慣れない男が声をかけてきた。
「おい。この部屋の娘はどこだ」
「もしかして。ミツさんのことですか」
「ああ。俺の女房なんだ」
柄の悪い男。部屋に入っていた。そこには顔に布巾を乗せて寝ている娘の遺体があった。
「な、なんだこれは?」
「女将さん。この男性は、その娘さんの旦那さんだそうですよ」
「本当かい?ああ。どうかこの手を握ってやっておくれ」
涙の女将。布団から手を出した。そして男に触らせた。
「ひい!」
「冷たいだろう……まだ若いのに。可哀想に」
涙の女将。男は驚きで震えていた。
「顔も拝んでおくれ……さあ。旦那さんだよ?」
女将が布巾を外した。そこには真っ青な顔の娘の死顔があった。
「うわあああ」
腰を抜かし男。そんな時に大家の旦那も入ってきた。
「花を買ってきたぞ。それに祭壇はどうする?坊主は手配したが、って言うか。この男は?」
何も知らぬ大家。鏑坂はすまして紹介した。
「娘さんの旦那さんだそうです」
「あんたが?」
「あ、ああ」
すると。女将が立ち上がった。
「ちょうどよかった。あのね、死んだ人の前で悪いけど。この娘さんはまだ家賃をくれてないんだよ」
「え」
「そうだ!旦那さんがきたんならあんたが葬式をあげておくれよ」
「お、俺が?」
「そう。それにね。私はこの娘さんにずいぶん金を貸していたんだ。それも返してもらうかね」
「俺は知らねえ!俺はこの女とは離縁したんだ!」
男。逃げるように部屋を出て行った。
「てめえ!女房を捨てる気か?」
大家。慌てて男を追いかけようとした。この時、女将が夫を羽交い締めで引き留めた。
「お前さん!もうおよしよ」
「離せ!こんちくしょう」
悔しさで暴れる大家。この時。鏑坂は窓から外を見、男が去ったことを確認した。
「……そろそろいいんじゃない?探偵さん」
「そうですね。ミツさん。もういいですよ」
しかし。布団のミツは無言だった。女将。鏑坂、心配になってそっと顔の布巾を外した。
「ミツさん?」
「う、うううう」
ミツ。涙で濡れていた。そして手で顔を覆った。
「うわ?生きてる……うう」
「あら?気を失ったわ。本当に気が弱いんだから」
夫を畳に放置した女将。ミツに駆け寄った。
「大丈夫かい?
「すいません。ほっとしたら。急に」
「いいのよ。怖かったのよね」
大泣きのミツ。化粧の青い顔が涙でぐちゃぐちゃだった。ミツを慰める女将。それを鏑坂はどこか胸が痛んでいた。
……これほどまでに、苦しめるとは。
彼女の心の痛み。鏑坂、歯痒く思っていた。やがてミツは泣き止んだ。そして布団から出て土下座をした。
「本当に、ありがとうございました」
「いいのよ」
「女将さん。今一度、あの男がいないか外を確認してくれませんか?」
鏑坂、女将を表に出した。大家は気を失っていた。
「ミツさん。これは僕からの提案なんですが」
「はい」
「あなたは今日。ここで死んだことにして。生まれ変わってみませんか」
「え」
ミツ。彼をじっとみた。化粧が落ちてひどい顔だった。
「名前も変えて。髪型も変えて。やり直すんです」
「やり直す?……でも、私なんか、そんなことをしても」
悲しげな娘。人生を諦めていた。鏑坂、思ったことを言った。
「そんなこと……ですがね。ここで伸びている旦那さんは、あなたが死んだと思って、こんなに心配してくれましたよ」
「そう、ですね」
「僕には……あなたがやり直す価値があると思いますよ」
しんみりした空気の中。ここで大家がぶうとオナラをした。
「ふ」
「うふふ。ふふふ……あはは。あはははは」
ここで女将が戻ってきた。
「なんだよ。二人で楽しそうにしてさ」
「女将。旦那さんがオナラをしました」
「え?なんだって!おい、起きろ!ほら」
「むにゃむにゃ……もう飲めないよ?」
寝ぼけてる旦那。ミツは笑った。これを見た鏑坂と女将も笑った。
そして。ミツは引っ越しをした。
「大家さんちの姪っ子ですか」
「ああ。そういうことにしたんだ。私は子供もいないから。みっちゃんがいると楽しくてさ」
「それはよかったです」
ここに。ミツがお茶を運んできた。あった時の痩せた娘から今では元気になっていた。
「鏑坂さん。本当にありがとうございました」
「礼は旦那さんに言ってください」
「うふふ」
「ふ。だめだ?また思い出してしまう」
あの時のオナラを思い出した娘と鏑坂。笑った。ここに女将が続けた。
「それでさ。名前もうちの苗字の早川って名乗らせようとしてるんだけど。したの名前はどうしたらいいかね」
「ミツさん……そうですね」
鏑坂、ちょっと考えた。
「光の子で『光子』さんはいかがですか」
「どう?ミツさん」
「嬉しいです。私、そう名乗ります」
頬を染める光子。鏑坂もほっとした。ここに猫がやってきた。みんなの間を無理矢理通り、例によって鏑坂のお膝に乗りにきた。
「おお。大将?元気であったか?」
猫は喉をゴロゴロ鳴らした。これを光子、見ていた。
「……ずいぶん、好かれてらっしゃるんですね」
「ええ。僕を好いてくれるのは大将だけなんです、な?大将」
「にゃーん」
ここで。大家がにんまり笑った。
「何言ってんだよ先生。俺も先生が好きだぜ?」
「旦那さんも?」
「うふふ」
「ほら!お前さんも冗談は顔だけで十分だから」
大笑いのアパート。そして鏑坂は大家の家を出た。ふと彼女が住んでいた部屋が目に入った。
……弔いか。
あの時の娘の様子。彼女は人生に絶望をして死ぬつもりに見えた。彼は彼女に死んだふりを提案した。それは顔に死化粧をし。手を氷で冷やすという計画。
冷たかったと思うが。死ぬよりもマシだったんだろうな。
今は生き生きし始めた光子。彼はほっとした。
……それにしても。光の子か。我ながら、良い名前にしたものよ。
秋の風吹く古いアパート。畳の部屋。彼は乾いた空気の中、一人ふっと微笑んでいた。
完
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