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悪魔の詩
晴天の朝、彼は雀の囀りで目覚めた。
……朝か。眩しいな。
詩人の鏑坂、ずるずると布団で寝返りを打った。まだ眠かったが彼にはお客様が訪れていた。
「にゃーん」
「……大将。まだ寝かせておくれよ」
しかし猫は彼の顔の周りで動いていた。彼は寝ていられずに起きることにした。起き上がった彼の膝、大将が当たり前のように乗ってきた。寝巻きの浴衣の鏑坂、思わず笑みをこぼした。
「大将。そんなに甘えても私の家には食べ物はないぞ?」
そんな彼の言葉。猫は気持ちよさそうにあくびをした。彼は猫を抱いたまま立ち上がった。
「さて。私も起きるとしようか」
詩集が乱雑に置いてある畳の部屋。ここから彼の一日が始まった。彼は玄関に置いてあった新聞を読み始めた。
……さて、今週の文芸欄はどうかな。
詩人の彼。毎週月曜日の新聞の文芸欄を読むのを楽しみにしていた。ここには俳句、川柳、短歌。そして詩が掲載されている。これは一般人が投稿してきた作品である。詩人の彼、ここに選ばれた詩を楽しみにしていた。
「ほお、この人は初投稿か」
長年、この欄を愛読していると決まった人ばかりのこの詩の欄。しかしこの日は初めて投稿してきた人の作品が掲載されていた。彼はこの詩を読んでみた。
……まあ。まだどこか稚拙であるが、視線が良いな。
そして。彼の楽しみなのはこの作品の批評である。むしろこっちが目当てと言っても過言ではない。この批評は詩の選者である川本氏が担当していた。鏑坂は熱心に読んでいた。
……『素直な作品』か。なるほど。しかし、掲載させるほどの作品とは思えないな。
この作品に光が見えなかった鏑坂、そっと新聞を置いた。そんな彼、出版社に用があり出向いた。
「あ?鏑坂さん。ちょうどよかった」
「いかがされました?」
「太陽新聞の詩の欄の。川本先生がいらしているんですよ!」
詩人の会では有名な川本。老齢の彼は鏑坂を見て微笑んだ。
「おお。鏑坂君」
「川本先生。お変わりございませんか」
「それはこっちのセリフだ、まあ掛けたまえ」
以前。同じ同人誌に詩を寄せていた二人。まずは握手をし、そしてソファに座った。
「鏑坂君。詩作の方はちゃんと進めておるのかね」
「と、言いますと」
「君は探偵になったと噂を聞いたよ」
「ああ。まあ。真似事ですよ」
鏑坂、恥ずかしそうに頭をかいた。
「たまたま事件を知ったので、手助けをした次第で」
「そうか……では、作品の方は?」
「書いていますが、仕事で書くのはどうも気が進まなくて」
「贅沢を言うなよ。詩で食えるやつなんていないんだぞ」
目で笑う川本。鏑坂も笑みを湛えた。社会人だった川本は遅咲きの詩人。身近でささやかな出来事に愛を感じる鏑坂の作風に反し。川本は人間同士の深い思いを謳う作品だった。そんな二人は違いの作品を尊敬していた。
「で、今の仕事は?」
「自動車の広告で、雑誌の仕事です」
「へえ。聞かせてくれよ」
好奇心旺盛の川本。鏑坂の仕事に目を輝かせた。これを彼は謙遜した。
「そんな大層なものではありません。それよりも先日の文芸欄ですが」
鏑坂。先日の初投稿者の作品について尋ねた。
「どうしてあの作品を選んだのですか」
「ああ。あれか。確かに君から見れば幼い作品だったね」
川本、お茶を飲んだ。
「まさしくそうだよ。でもね。ああやって送ってきた人の作品は。内容に拘らず、私はなるべく掲載するようにしているんだよ」
「内容は度外視ですか」
「まあな。ではないと色々あるんだよ」
川本。そっと湯呑みを置いた。彼はため息をついた。
「実はね。最近、他の新聞社に投稿するのが人気でね。私のところに送って来る人が減っているんだ」
「なぜ他新聞がそんなに人気なのですか」
「向こうは掲載されると謝金をもらえるんだよ」
それが欲しくて投稿数があると川本は嘆いた。
「私の方の新聞社は何も出ない。だから初投稿の人は積極的に掲載してるのさ」
「なるほど」
「他にもね。掲載して欲しいと紙幣を一緒に送ってくる輩もいる。だがね。詩とはそう言うものではない。私はそんな人の作品は送り返してやるんだよ」
「先生らしいです」
「ははは!ところで、私は今、詩を翻訳しているのだよ」
川本、嬉しそうに手帳を開いた。
「君はコーランを知っているか」
「イスラム教の教えですよね」
「ああ。君、あれは素晴らしい詩だよ」
川本。興奮しながら続けた。彼はこのコーランを日本語に訳していると語った。
「最古の歌だ。あのすべてが詩だよ。あれこそが原点だ」
「失礼ですが。先生はイスラムの言葉は?」
「勉強しながらさ!ははは」
嬉しそうな川本。元気な様子に鏑坂も笑顔で楽しいひとときを終えた。そして一週間後。彼は新聞の広告を読んだ。
……あ。これか。
川本の本が出版されるという内容だった。それは例のコーランを日本語にしたものだった。表紙はイスラム模様。広告では派手に宣伝していた。
……老齢であるのに。積極的だ。見習わないと。
「にゃーん」
「おお、大将。散歩の帰りかい?」
足元に懐く可愛い三毛猫。鏑坂、思わず猫を抱き空を見ていた。こんな数日後、新聞に衝撃の記事を見つけた。
「え?川本先生が」
殺されたと言う記事。鏑坂、ショックで頭が真っ白になった。
……どう言うことだ。なぜだ?
すると、彼の詩の仲間も集まってきた。若い詩人仲間たちで川本の家に弔問にやってきた。
弔中の文字の玄関。これを進むと涙の奥方が迎えてくれた。彼は仲間とともに線香をあげた。
「奥さん。どう言うことですか?」
「俺たち、信じられません!先生が、あの温和な人が殺されるなんて」
「ううう。私も全くわからないのです」
若手の詩人に問われた奥方。涙を流していた。これを鏑坂、冷静に見つめていた。
「……奥さん。まず事件の経緯を話して下さいませんか。お辛いとは思いますが」
すると。川本氏の娘が出てきた。彼女は気丈に説明をした。
「父はいつものように。新聞社に投稿された原稿を受け取りに行ったのです。その帰り道で。刃物で切られたんです。それ以上は、ちょっと」
涙で語るその娘。詩人仲間たちは気の毒になっていた。しかし鏑坂だけは立ち上がりこの屋敷を離れた。そして警察署に出向いていた。
「あ、浜田警部」
「なんだね。こんなところにやってきて」
「詩の川本先生の事件ですが」
「君に関係なかろう」
冷たい浜田警部。しかし別室にて鏑坂に話をし出した。
「良いか。ここだけの話だぞ!亡くなった川本さんは、惨殺されたんだ」
「惨殺とは、その、刺されたとか、切られただけではないのですか」
「ああ。ズタズタだ。しかもな、その刀が普通じゃないのだよ」
日本刀でもない、包丁でもない。変わった切り口だと警部は首を傾げた。鏑坂、冷静に尋ねた。
「では怨恨の線で捜査をしているのですか」
「……現場から川本氏のカバンが無くなっているのでな、強盗の疑いも視野に入れておる」
「強盗、ですか」
「ああ。さあ、帰れ!これ以上の話はないぞ」
追い出された鏑坂、アパートに戻ってきた。
「あ。鏑坂さん」
「光子さん。どうも」
アパート前、光子が庭をホウキで掃除をしていた。
「あの。郵便屋さんからこれを預かりましたよ」
「個包ですか」
それは。送り主が川本になっていた。
◇◇◇
受け取った鏑坂。それを一人部屋にて開封した。
「これは。原稿か」
先日、出版された『イスラムの詩』。それの手書きの原稿がここにあった。
……なぜ私に?……あ。手紙だ……
そこには『ファトア』と書いてあるだけだった。この言葉を知らない彼、全く理解できない鏑坂。しかもその夜、客がやってきた。
「私。太陽新聞の文芸欄担当なんです、詩人の鏑坂さんですよね」
「どうぞ。お入り下さい」
男性記者。彼の部屋に上がった。彼は名刺を渡すと話し出した。
「実は。ご存知の通り、川本先生がお亡くなりになって。私どもとしては、詩の選者がいなくなって。とても困っているんですよ」
「私に推薦せよと言うのですか」
「いいえ!鏑坂先生にお願いしたいのです」
「え?」
驚く鏑坂。記者は真剣な目で見つめた。
「実は自分に万が一のことがあった際。後任は鏑坂先生に頼めと。川本先生の遺言が見つかったんです」
「まさか」
「事件が起きる数日前に預かったんです」
他にも詩人はたくさんいるはず。信じられない鏑坂。この日は話だけを聞き記者を帰した。
「にゃーん」
「おお、大将。大変なことになったんだぞ」
彼は猫を抱きながら。恩師の遺作となった、原稿を見ていた。
……先生、この原稿はなぜですか。それになぜ私を推薦されたのですか……何か理由があるのですか。
見上げた空。白い雲。思いを巡らす彼、その長い髪には風がそよいでいた。
◇◇◇
「と言うわけなんです」
「へえ?なんか。大変そうだな」
数日後の大家の家。ちょび髭の大家は縁側で鏑坂にお茶を勧めた。鏑坂、これを飲んだ。最近の鏑坂を大家夫婦は心配していたと話し出した。
「それによ。なんか知らない野郎がウロウロしているしよ」
「知らない野郎。それはどんな人ですか」
「だから、俺は知らないんだよ。おい。お前、先生に教えてやれよ」
「は?なんだって」
奥にいた夫人。夫の質問にも答えた。
「ああ。そのこと。そうね。若い男がうちのアパート借りたいって言ってきたんだけど、私は断ったのよ」
「それはなぜですか」
「だって。身なりはいいんだけど」
若い男は高級そうな背広を着ていたというが、靴がおかしかったと夫人は話した。
「おかしかったとは?」
「背広に合わない靴だったね。うまく言えないけど。似合っていなかったんだよ」
「他には特徴は」
「あ?あいつか?字が書けなかった男だろ。なあ」
「字が書けない……」
これに首を傾げた鏑坂。自室に帰ってきた。
「なんだこれは」
彼の部屋はすっかり荒らされていた。
つづく
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