初恋は苦い。(弓月)

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初恋は苦い。(弓月)

「ごめんなさい。守らなきゃいけない奴がいるんで。」 店の外、隣のビルとの隙間の路地。 見知った喫茶店の店員が、客らしき女の呼び出しにそう言って頭を下げていた。 それを横目で見ながら俺はすぐ横の古い喫茶店のドアを開ける。 ここ数ヶ月ですっかり常連になった俺に案内は要らない。この時間には大概他に客もいないから、何時もの席に座ってしまえばもう間もなく先刻の店員がオーダーを取りに来る筈だ。 頼むものなんか毎回決まっているというのに、律儀に席まで来て同じ遣り取りをする彼。 長身で寡黙な忠相(ただすけ)さん。 彼はこの古い喫茶店の唯一の店員だ。 多分、何時もカウンターの向こうに座って こっくりこっくり舟を漕いでる爺さんが店の主なんだと思う。 聞いた事はないけど。 忠相さんは多分、幾つか歳上。 キリッとした顔立ちの落ち着いた見た目だし、きっちりついた腕の筋肉や手の甲に浮き出た筋がセクシーだ。そして足が長い。 少し長めの前髪の隙間から見える切れ長の目に力がある。 控えめに言ってクール系イケメンである。 数多のイケメンαを見てきた俺ですら、見蕩れてしまうその容姿に、最初はαか 超出来の良いβなのかと思ってた。 おそらく、彼を見た人の大半はそう思うんじゃないだろうか。 その証拠に、彼は匂いを察知しないβ女性達によく告白されている。 俺だって最初は、抑制剤で匂いを抑えたαなのかと思ってた。 でも何度か至近距離で接する機会があって確信した。 忠相さんは、Ωだ。 きっと抑制剤は服用してるんだとは思うけど、何時も微かに独特の良い匂いがするのだ。 ずっと嗅いでいたいような、誘うように五感をじわじわ呼び起こされるような、甘さの中にも爽やかさを感じるその匂い。 間違いない。 他のΩ達の発する甘ったるいだけの匂いとは少し違うけど、俺にとってはこっちの方がずっと心惹かれる匂いだ。 普通の、ΩらしいΩを受け付けられない俺にとって、彼は天が配剤した俺の為のΩなのかも知れない。 そう思った俺は、週3でこの喫茶店に通うようになった。 顔馴染みになって、仲良くなれば告白するチャンスが生まれるのでは、という安易且つ単純な目算だ。 けれど、初恋も片思いも実は初めての俺は、いざ忠相さんを目の前にすると緊張してしまって、フランクに話しかけて仲良くなろう作戦は悉く連敗中。 だって今迄は、俺と仲良くなりたい相手達が俺に対して努力するのが普通だったから、何だが勝手が違う。 もっと話しかけたりして、プライベートの情報を聞き出したいんだけど、この数ヶ月で彼について知れた事は、カウンターの爺さんが彼に向かって呼びかける "忠相"という名前と、 彼が何時も告白を断る時に言ってる、『守りたい子がいる』って事だけ。 その相手について俺も気になってはいたんだけど、つい先日その相手の事が判明した。 振られる事に納得いかなかったらしい告白女性が 突っ込んで聞いてたのが通りがかりに聞こえたんだけど、近所の幼馴染みの女の子が、その守らなきゃいけない相手なんだとか。 (幼馴染みか…。) なんだろう。 即物的だったり恋愛をゲームとして楽しむ事しかしてこなかった俺にはよくわからない。 わからないけれど、何だか勝てる気のしない強カードのように思えた。 幼馴染みって事は、何年も積み上げてきた気持ちがあるって事だろ? そんな重いの、勝てっこない。 こないだそれを聞いてから、俺の心は揺れていた。 これ以上好きになったら傷つくだけなのかもしれない。 思い切るなら、未だ傷も浅い今かもしれない。 だから今日は見納めに来たのだ。 俺は今日を限りに、もうこの店には来ない。 「今日も何時ものブレンドでよろしいでしょうか?」 思った通り、忠相さんは直ぐにオーダーを取りに来た。 先刻告白していた女性はあの場に残してきたのか、帰って行ったのか。 俺も告白してたらああなってたんだろうな。 「今日は…カフェモカをお願いします。」 「え、…カフェモカですか。」 「…俺、ほんとはコーヒーよりそういう甘い方が好きなんです。 でも、子供っぽいから何時もは我慢してるんです。」 少し苦笑しながら俺が俺が言うと、忠相さんの左眉が少し動いた気がした。 何でだ。 良いじゃないか、どうせこの店に来るのは今日が最後なんだから。 恥は掻き捨てって、言うだろ。 数分後、運ばれてきたカフェモカは、やっぱり甘くて俺はその優しい甘さに少し涙が出た。 苦い初恋を封印する儀式には似合いな甘い飲み物。 これで良かったんだ。 マジになってたら、もっとずっと辛かったに違いないもん。 甘やかされて来た俺には、きっと耐えられない、あんな風にトドメを刺される事なんて。 その日を最後に、俺が忠相さんの姿を見に行く事はなくなった。
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