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彼の事を俺は何も知らない(笠井 忠相)
彼は3、4ヶ月前から店に来るようになった男子学生だった。
名前は知らない。
単なる店の従業員が、彼みたいなキラキラした人にそんな事聞ける筈もない。
そんな事したら、忽ち不審な奴認定されてしまう。
客には変に興味を持たず、付かず離れずの距離が一番だ。
彼のオーダーは何時もオリジナルブレンド。
それを、砂糖もミルクも入れずに飲みながら、静かに過ごしている綺麗な青年。
生きてるステージがまるで違うかのように彼は綺麗だった。
実際、違うんだろうな。
仕事の合間に盗み見る彼の横顔は彫刻のように美しくて、色素の薄い髪や睫毛の長さがいやに気分を落ち着かなくさせる。
細い綺麗な指先、何も塗ってないだろうに自然な光沢で桜色の形良い爪は何時も整えられている。
持って生まれた美貌だけでなく、美意識も高いんだろうなと思う。
こんな人はきっと、足の爪先迄も芸術品みたいに美しいんだろうな。
(髪も、柔らかそうだな…。)
彼を見る度に感じるこの焦燥感に似た気持ちは、一体何なんだろう。
彼は店に入って右奥の席がお気に入りらしく、何時も迷わずそこに向かうから、俺は彼の前に他の客が入ってもその席にだけは案内しないようにしていた。
先刻、また数日前にたまたま初めて来た客に気に入られたのか、仕事中だというのに呼び出された。 付き合って欲しいと言われて丁重に断っている時に、彼が店の方に向かっているのが見えたので急いで戻ってきたのだ。
空気を読まずに 自分達のくだらない話(告白)に、仕事を中断させる価値があるなんて考えてる人間より、静かに一杯のコーヒーを味わって、ご馳走様と微笑んで帰っていく彼の方が大事なのは当然だと思う。
仕事をしながら彼の姿を眺めるのは最近の俺の密かな楽しみなんだ。
「今日も何時ものブレンドでよろしいでしょうか?」
急いで店に戻り、トレイにミネラルウォーターを注いだグラスとおしぼりを載せて俺は何時ものように彼の席にオーダーを取りに向かった。
またブレンドだろうけど、と思いながら。
「カフェモカをお願いします。」
カフェモカ。
「ほんとは、甘い方が好きなんです。」
照れたような、恥ずかしそうに苦笑するような彼の表情。
ドキッとした。
そして、オーダーを作りながら思う。
俺、彼の事全然知らないんだな…。せいぜい、近所の大学の学生って事くらい。
正確な歳も、名前すら知らない。
話した事があるのはオーダーでの遣り取りと、会計時に毎回 ありがとう、ご馳走様でした、と言ってくれる事くらい。
いや、客と従業員に過ぎないんだからそれで全然良いんだけど…。
…それでもちょっと気になる存在なのは、彼がαだからなんだろうか?
繊細そうで優しげな美貌で物静かだから独特の圧を感じにくいけど、わかる。
彼はαで、それもかなりのランクにいる人なんだと思う。
Ωの中でも劣性っぽい、Ωらしくない容姿しか持たない俺とは文字通り世界が違う。
本来なら口も聞けない相手だ。
ブラックでコーヒーを飲む姿があまりにも自然で、甘いものを好むなんて思ってもみなかった彼に、実は甘い方が好きだなんて可愛いところをカミングアウトされたら、そのギャップはどうしたって好印象に傾くのは仕方ない事だと思う。
俺は作ったカフェモカを彼の席に運んだ。
「ありがとう。」
彼は嬉しそうに冷ましながら飲み始めた。
今日は何時もと違って、彼の笑顔をよく見られる日だなと内心嬉しかった。
なのに、少し洗い物を片付けて再び様子を伺った彼の頬には涙が光っていた。
見間違いか?と動揺を抑えて、次に見た時には彼の頬にも瞳にも涙は見えなかった。
店内の照明の加減だったのか、とホッとしたけれど、内心はドキドキしたままだ。
本当に見間違い、だよな?
「美味しかったです。ご馳走様でした。」
今日も変わりなく彼は会計をして帰っていった。
けれど、その後ろ姿に妙な胸騒ぎを覚えたのは何故だったんだろう。
彼が姿を見せなくなって座る人の居なくなった席を眺めながら、俺は今日も溜息を吐く。
(もう2週間か。)
2日と置かずのペースで来店してくれていたから、嫌でも気になった。
客は移り気なもんだ。
他に気に入る店があればそこへ行く。
世の中には喫茶店もカフェも星の数ほどある。
或いは環境が変わったり、状況が変われば生活圏も変わったりする。活動範囲も変わる。
単に忙しいだけなのかもしれなくて、その内ひょっこり現れるのかもしれないけれど。
でも。
気になるのは、最後に来た日の彼の様子。
それを思い返す程、彼はもうこの店に来る気が無いんじゃないかと、そんな気がした。
…俺、何でこんなに彼の事が気になってるんだろう。
名前すら知らない、住む世界も違うような人の事が。
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