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持ち主が動かないのならばやむを得ない。
水面へと手を伸ばし、水を吸って重くなったマフラーを持ち上げた。
ジョロジョロと水が落ちていく。指先がヒンヤリとした。
水浸しのマフラーを軽く絞って、隣の彼に差しだした。
「結構濡れちゃってますけど……あの……」
反応がない。彼の視線はいまだ水面に。
凝視するそこに何があるのか。数回まばたきを繰り返したのち、彼の隣から同じ方向へ俺も一緒に目を向けた。
小魚がいる。それは知っている。
「……大丈夫ですか?」
もう一度、最初と同じ言葉を掛けた。今度はとんとんと軽く肩に触れながら。
すると彼はようやく、と言うよりそこではじめて気付いたかのような表情をして、隣から顔を覗きこむ俺をはっきりとその目に映した。
「……え?」
「いや……これ、落として……」
「あ?……ああ……」
まさか。いや、まさか。
気づくだろう。気づくはずだ、普通なら。
風が吹いた時点で、マフラーが飛んだ時点で、飛ばされたマフラーが噴水に落ちた時点で。それを見ていた人間から大丈夫かと声をかけられた時点で、声をかけてきた人間が代わりにマフラーを拾い上げた時点で。
肩を叩くよりも前に気づくべきタイミングはこんなにもあったはず。
「あの……」
「ん? ああ、ごめん。ありがとう」
「いえ……池に何か……?」
「うん?」
「いやその……何か見て……?」
「ああ、サカナ。泳いでるから」
「…………」
この瞬間、俺の中の彼の認識がまとまった。
変な人だ。無職かもしくはヤバい人かとずっと思っていたけれど、実際はただの変な人だった。
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