おじいちゃんは魔法使い

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おじいちゃんは魔法使い

 僕がそのおじいちゃんについて知っていることは、意外に少ない。現代日本で個人の特定に必要な情報は何も知らない。名前も年齢もわからないし、性別はきっと男だと思うんだけど、でも向こうの世界には性別なんて概念はないかもしれない。おじいちゃんは携帯電話も持ってないし、おじいちゃんが住んでいた場所にはいつの間にか行けなくなっていた。もしかしたらあの場所は異世界だったのかもしれない。  僕がおじいちゃんについて確かに知っていることはただ一つ。  おじいちゃんは、魔法使いだということ。          ***  それは僕が小学二年生になったばかりの時の話。  僕は下校途中にある公園で人だかりを見つけた。気になったけれど、嫌いなクラスメイトたちと同じになってしまう気がして、遠くからそれを眺めていた。  人だかりの中心にはおじいさんがいて、赤い服を着てたら『実はサンタさんです』と言われても信じられる見た目をしている。でも実際はいかにも『おじさん』って感じの絶対ダサい茶色の上下で、海外の人なのに日本の残念なおじさんの恰好をしてて、もっと残念になっている。 「次こそは! 次こそは成功するから! ね!」  その残念なおじいさんは必死に人だかりを引き留めている。何か失敗してしまった後らしい。呆れて帰っていく人もいるし、おじいさんに「やっぱり嘘じゃんか!」って言ってる子もいる。(僕はそう言ってるあいつが嫌いだ) 「本当だよ! おじさんは魔法使いなんだよ!」  ……なんだか物凄く嘘っぽいことを言ってる。でも確かにおじいさんは杖を持っている。有名映画に出てくるような指揮棒ぐらいの大きさのやつじゃなくて、おじいさんの肩の高さと同じくらいの大きさがあって、てっぺんに水晶がついてるやつだ。  おじいさんは「今から虹をかけるから! 見てて!」と言って、何か唱え始める。声は聞こえるけど聞き取れない。たぶん僕が知らない国の言葉なんだろう。 「はああ!」  おじいさんにしては元気な掛け声で、半円を描くように杖をふる。でも何も起きない。 「ほら、やっぱりできねーし」 「もういいや。帰ろー」 「えっちょっと待ってよ……」  おじいさんはそれでも引き留めようとしたけど、話を聞こうとする人はもういない。おじいさんを取り巻いていた人たちは段々少なくなっていって、最後はおじいさんが公園にポツンと取り残されていた。  僕ももう帰ろうと思って、置いていたランドセルを背負ったその時。 「ちょっとそこの君!」  おじいさんが僕を引き留める声がした。一瞬迷ったけれど、またさっきみたいのを見せられても困るし、聞こえないふりで帰ることにする。 「お願いだよ少年! 行かないで!」  必死で僕を引き止めるおじいさんがそれはそれで怖くて早歩きし始めたとき。 「にゃあお」  僕の足元で猫が鳴いた。灰色の毛に黄色い瞳で僕のことを見上げている。なでてあげたいけど早く帰りたいし、と少しだけ迷ったのをおじいさんは見逃さなった。 「ねこちゃんのこと好きなのかい?」  おじいさんがニコニコしながら聞いてくる。 「実はそのねこちゃんは僕が飼ってるんだ! 好きなだけ触らせてあげるから、ちょっとだけ見て行って! 次は絶対成功するから!」  そのおじいさんが猫を飼っているのは本当らしくて、『好きなだけ触らせてあげる』と言ったときに猫が嫌そうな顔をした。それから溜息もついた……ような気がする。でもそのふかふかな毛並みを触りたくてうずうずしている僕もいて、結局おじいさんに負けて僕は公園のベンチに座っていた。 目の前の怪しいおじいさんが何か言っているのを猫と一緒に見守る。その言葉はやっぱり聞き取れない。  おじいさんはあの掛け声をかける前に猫と目を合わせて 「はああ!」  という声と一緒に杖を振った。  杖は綺麗に半円を描く。  その杖の先についている水晶が青くきらめいて、空中に水滴が現れて綺麗な虹を描く。 「やったあああ!」  おじいさんは子供みたいに喜んでいて、僕の隣に座っている猫は呆れている(気がする)。  でも僕は目の前で起こったことに理由をつけるのに必死だ。 「おじいさん、その棒貸してっ……ください」  慌てて敬語を付け加えて無理やりおじいさんの持ってる棒を取ってよく見る。  杖のどこかにボタンがあるかとか、水晶の中にライトが入ってるんじゃないかとか、実は物凄く細いホースで水道と繋がってるんじゃないかって確認してみたけれど、ねじねじの木の杖の先端に水晶が付いてるだけだった。  『なんで!?』がはっきり顔に出ている僕のことを、おじいさんは満足そうに見ている。 「な、なんで……ですか。あんなこと起こるはずないのに」 「魔法じゃよ、ま・ほ・う。自分でこんなこと言いたくはないが、魔法じゃなかったら失敗するはずないじゃろ?」  そう言われればその通りで、ボタンを押すだけで水が出てくるならあんな風に失敗したりしないだろう。それにあんなに綺麗に虹が出来るとも思えない。  おじいさんは成功したのがすごく嬉しいらしくて、灰色の猫を撫でまわしている。猫はすごく迷惑そうな顔をしてる。 「ああ、そういえば約束しとったのう。好きなだけ撫でていいぞ」  そう言っておじいさんは杖と猫を交換する。猫さんはしっかりお世話されてるみたいで、ふかふかしているけれど、僕は正直それどころじゃない。 「おじいさん、その、本当に魔法使いなの?」 「最初からそう言っておったじゃろ?」  杖を掲げるおじいさん。貰った賞状を自慢する子供みたいだ。 「わしはな、魔法使いの国から試験に合格す──痛あっ!」  おじいさんが得意げに話し始めたのを僕に抱っこされていた猫さんが引っかいて止めた。猫さんはそのままおじいさんに威嚇する。 「すまんすまん。謝るって」  おじいさんは謝ってるけど、僕でもわかるくらい心の中ではテンションが上がっている。たぶんこれが『ひらあやまり』ってやつだ。  そんなおじいさんに猫さんはもう一度「シャーッ!」と鳴いて僕の手元に帰ってくる。手のひらからふかふかした感触が伝わって気持ちいい。  おじいさんは大人しく僕に撫でられている猫さんを寂しそうに見つめている。 「……おじいさん、猫さんと仲良くないの?」 「いやあ、わしは仲良くしてると思っとるんじゃがなあ」  その声を聞くと猫さんはキッとおじいさんを睨みつける。とても仲が良いようには思えない。というか、おじいさんが猫を飼っている、というよりおじいさんが猫さんにお世話されてるみたいだ。  僕がそんなことを思っていると、おじいさんは「あっ」と何かを思い出したような声を出して、続けて僕にこう言った。 「引き止めてしまってごめんな。家の人も心配してるだろう。お家まで送るよ」  猫さんを撫でる手が少しだけ止まった。 「……いいよ。お母さんたち早くても七時まで帰ってこないし」  僕はずっと猫さんを見てたから、その時おじいさんがどんな表情をしてたのか分からない。 「それより、おじいさん本当に魔法使いなんでしょ?」  たぶん、おじいさんの顔を見ながらだったらこんなこと言えなかったと思う。 「魔法使いだったら、お願い事叶えてくれる?」  猫さんの尻尾が止まった。語りかけるみたいにおじいさんのことを見ている。  その視線につられて顔を上げると、おじいさんがビックリした顔をしていたのが一瞬見えて、でもすぐに笑ってくれた。 「わしに出来ることは何でもしよう」  そう言っておじいさんはお家に招待してくれた。  知らない人に「願い事を叶える」と言われてついていくなんて、お母さんや先生にバレたら怒られそうだ。  でも目の前で魔法を見ていたことと、猫にお世話されているおじいさんが人を騙せるはずがないだろうという思い込みで、僕はおじいさんの家にお邪魔することになった。           ◇  おじいさんの家は、たぶん『ろぐはうす』ってやつとはちょっと違うのだろう。  たしかあれは丸太を使ったお家で、こういう木材がそのまま見えるようなお家では無かったはずだ。長い間ここに建っているみたいで、色んなところが焦げたみたいに茶色くなってしまっている。その古くささを隠すみたいに屋根から植物がダランと垂れ下がっていて、確かに『魔法使いの家』と言われたら納得できそうだった。ただ、自分から中に入りたいとは思えないボロさだった。 「ようこそ、我が家へ!」  おじいさんは初めて家に友達を招待する子供みたいに両手を広げているけれど、僕はここまで来ておいて『はんしんはんぎ』だ。  でもさっきまで僕が抱っこしていた猫さんが自分から中に入っていったし、ここがおじいさんの家で間違い無いんだろう。  僕はおじいさんに続いて垂れ下がる植物をのれんみたいに潜り抜けて、家の中に足を踏み出す。  すぐに靴を脱ごうと思ったんだけど、それはおじいさんに止められた。「土足でいいんじゃよ」と。確かアメリカとかでは土足のまま部屋に入るって聞いたことがあるから、そういうことなんだろう。 おじいさんの家の中は理科室みたいだった。木製の理科室。黒板はないけど、三角フラスコの兄弟みたいなものとか、蛍光色の液体とかが一箇所に集められていて、空いている場所には天井だろうがお構いなしに植物が張り巡らされている。  もしも大きな木の中にお部屋があったらこんな感じなんだと思う。  そんな大きな木の中の実験室に、正直ちょっとワクワクした。  ただ、ワクワクしてる僕を見てニヤニヤしてるおじいさんにはイライラした。  おじいさんは僕の表情を読み取ると誤魔化すように顔を逸らす。一緒に家に入っていた猫さんが呆れたような顔をして窓辺の棚を登っていく。おじいさんと同じくらいの目線になった猫さんが、何かを確認するように首を傾げると、おじいさんは「いいんじゃないか?」と言った。僕には何のことなのかさっぱりわからない。  わからなかったけど、次の瞬間に理解するしかなかった。 「ただの猫のふりをするのも疲れるな……」  猫さんから人の声が出たから。  僕は驚きすぎて、何が起こったのかわからなくて、「あ……あ……!?」と言葉にもならない音を出しながら固まってしまう。 「こっちの世界では猫は喋らないらしいからな。その反応も無理はない」  猫さんは男の人の声でそう言いながら伸びをする。僕はまだ映画の吹き替えみたいな違和感のある現実に追いつけていない。 「魔法がある世界じゃからな。これくらいは許してくれ」  おじいさんはそう言いながら笑いかけている。でも確かに、公園にいた時から猫さんはおじいさんの言葉をきちんと理解していたし、魔法を目の前で見たし、猫が喋るくらいおかしくないかもしれない。  ……おかしくないかな? 「それで小僧。お前はこの落ちこぼれに何を頼みたいんだ?」 「落ちこぼれって酷いなあ」 「本当のことだから仕方ない」  困っている僕を置いて猫さんとおじいさんは話を進める。猫さんはおじいさんに対してすごく厳しいけれど、おじいさんは慣れっこらしくてそんなに気にしてない。それよりも僕の言葉を待っている。 「えっと……あの、ぼくは……」  僕も僕の言葉を待っている。  心の中に言葉は浮かんでいるのに、それを言えばいいのに、全然声になってくれない。  そんな僕に気づいておじいさんは僕に目線を合わせてこう言ってくれた。 「ゆっくりでいいんじゃよ。お茶でも飲みながら話そうじゃないか」  ハーブティーを飲んだことはあるかい? と一言添えてくれたおじいさんに首を振ると、おじいさんは「じゃあココアでも出そうか」と言って準備を始める。  人の言葉をしゃべれる猫さんは僕に呆れたように溜息を吐いていたけれど、急かすようなことは言わなかった。  おじいさんは僕もよく飲むココアの粉を取り出して「こんなに美味しいものがあるなんて日本はすごいよなあ」なんて言いながらミルクを注ぐ。  てっきり魔法でポンとココアが出てくるものだと思ってた僕はちょっぴり驚いたし、がっかりもしたけれど、でもそのいつも通りの風景に落ち着いた。 「はい。熱いからふーふーするんじゃよ」  そう言ってココアを差し出すおじいさんの姿は、本当におじいちゃんそのもので、僕は言われた通りにふーふーしてからココアを飲んだ。  あったかいココアが僕の心まで暖めてくれたみたいで、僕は気が付いたらおじいちゃんに家族の話をしていた。 「……あのね、僕、『鍵っこ』なの」  話を始めたんだけど、 「すまんのう。『かぎっこ』って何か教えてくれんか?」 「家に帰っても両親がいないから自分の鍵を使う子供のことだ、覚えとけ阿呆」  おじいちゃんと猫さんのそんなやりとりがあって、僕は少し笑ってしまった。そんな僕をおじいちゃんはちょっと満足そうに見て続きを促す。 「それでね、家に帰ってもお母さんたちはいないの。早くても七時だし、遅いときは十一時くらいまで帰ってこない。それは、別に良いんだけどね」 なかなか出てこようとしない次の言葉をあったかいココアの力を借りて伝える。 「なんだか、僕のことなんかどうでもいいのかなって、思っちゃう時があって」  おじいちゃんはその言葉を聞いて傷ついたみたいな顔をする。僕はなぜか顔を逸らしてしまう。 「……そんなこと、思っちゃいけないと思うんだけど、でも、お父さんが全然興味ないぬいぐるみ買ってきたり、お母さんがあんまり話しかけてくれなかったり……」  そこでまた言葉は出てくるのをやめようとする。うつむいたまま固まった僕の手元に、ふかふかの毛並みがやってきた。猫さんはそのまま僕の手元で次の言葉を待ってくれているみたいだった。  僕は嫌いなクラスメイトたちの顔を思い出しながら言う。 「……そういう時に、悪口言ってる子を見るとイライラするんだ。僕は一緒に遊ぶこともできないのに、お祭りでお好み焼き食べさせてもらえなかったとか、そんなことどうだっていいじゃん」  勝手に零れようとする涙を必死で止めながら僕は言葉を続ける。 「僕だって、お母さんとお父さんと、一緒にお祭りに行きたかった。一緒に遊びたかった」  涙を止めることが出来なくて、どうして涙が出るんだろうと思いながら声を出す。 「僕、頑張ってるんだよ。せめてお父さんたちに迷惑かけたくないから。いつも疲れて帰ってくるのも分かってるから。我儘言っちゃいけないって分かってるから」  泣いてて息が上手くできない中で、それでも僕は言い切った。 「でも、僕だって一緒に遊びたいよ」  それからすごく泣いた。  考えてみたらずっと泣くのを我慢してた。泣くのはいけないことだと思ってたから。なのにどうして僕は会ってすぐの人の前でこんなに泣いているんだろう。  でも猫さんの尻尾とおじいちゃんの手が僕のことを優しく撫でてくれていて、「頑張ったな」って声をかけてくれて、僕はやっぱりたくさん泣いた。  たくさん泣いて、泣いて、泣き止んだ時にはココアは冷めきっていて、でもおじいちゃんがもう一回作ってくれた。あったかいココアを飲んで、少し落ち着いた僕に、おじいちゃんはこう言った。 「こればっかりはちゃんと確認しないといけなくてね。君の願いは何だい?」  僕の言葉は今度はすぐに出てきた。 「お父さんと、お母さんと、もっと仲良くなりたい」  僕の言葉を聞いたおじいちゃんは優しく笑って僕の頭をそっと撫でて、猫さんが持ってきた箱を僕に渡した。 「開けてごらん」  言われるままに小さい箱を開けてみると、中にはたくさんの綿と、それに包まれている透明なビー玉が入っていた。 「それは君に勇気を与えてくれる水晶だよ。その水晶を握りながらご両親と話をしてごらんなさい。きっと君の言いたいことをちゃんと伝えられるから」  水晶を持った僕の手をおじいちゃんの手が包み込む。そして僕の知らない言葉で何か呟く。 「これで大丈夫」  おじいちゃんはそう言ってまたにっこり笑う。おじいちゃんの笑顔は見ているとなんだか落ち着いてきて、理由はないけど上手くいきそうな気がしてきた。 「ありがとう、おじいちゃん」  僕がそう言うとおじいちゃんはまた一段と嬉しそうに笑った。  笑い合う僕たちのことを、猫さんが心配そうな顔で見ているのには気づかなかった。           ◇  結局おじいちゃんたちが家まで送ってくれて、帰った時には七時を過ぎていたけれど、お母さんたちはまだ帰ってなかった。  ちょっとだけ怒られるんじゃないかと思っていた僕は少しだけ安心して、でも万が一ランドセルを背負ったままお母さんに見つかったら困るから急いで着替えをした。  急いだけど、だからってお母さんたちが帰ってくるわけじゃなくて、僕はいつもみたいにカレーを温めて食べた。最近はもう「レンジで温めて食べてね」の一言も添えられなくなってしまって、僕は少し寂しい。  テレビで芸能人が楽しそうに笑っているのを見ながら食べていたら夕飯はあっという間に終わってしまって、でもお母さんたちは帰ってこなくて、僕はデザートを食べようと冷蔵庫の中を漁る。野菜の中に埋もれているプリンを見つけたから、それを食べながらお母さんたちを待つ。  まだ帰ってこない。  今日はきっと十時過ぎに帰ってくるんだろうな、と僕はここで気づいて、それまで起きているかどうか悩んだ。十時を過ぎても起きていると、お母さんは「ただいま」の代わりに「どうしてこんな時間まで起きてるの」と言うから。  でも、僕はお母さんたちを待つことにした。それまでにやらないといけないことを全部終わらせておけば、たぶんそんなに怒られない。  僕は宿題と明日の支度とお風呂と歯磨きを全部終わらせて、まだまだお母さんたちを待つ。  静かな部屋に時計がチクタク鳴る音だけが響く。やることが全部終わってしまったから暇でしょうがない。本当はゲームがしたいけれど、こんな時間にゲームをしていたらそれこそ怒られてしまう。僕はなんとなくテレビを見ていることしかできない。  テレビの中の人たちがクイズに正解したとかで大喜びし始めた、その時だった。  ガチャっと鍵を差し込む音がした。  その音が聞こえた途端に背筋がしゃんと伸びて、心臓の音がうるさいくらい聞こえる。 「ただいまー……」  お母さんの声がして、僕は急いでテレビを消して、玄関に向かう。 「お、おかえりなさい」 「あら、こんな時間まで起きてたの? 早く寝ないとダメじゃない」 「だ、大丈夫。歯磨きも、全部、やってるから」  そう言うとお母さんは不思議そうな顔をして 「じゃあ何で起きてるの?」  と言う。  何て言えば良いのか、わからない。  黙り込む僕にお母さんは溜息をついて 「いいから早く寝なさい。おやすみ」  そう言って僕の横を素通りしてしまう。 『待って!』その一言が言えなくて、僕はその場で立ち尽くす。これじゃ、おじいちゃんの時と同じだ。ここで僕が黙ってたって、誰もココアなんか出してくれない。  それで、思いだした。  僕はお母さんが帰ってきたことに焦って、水晶玉を握りしめることを忘れていた。  慌ててリビングに戻って、荷物を整理しているお母さんの横を駆け抜けて机の上に置いておいた水晶玉を握りしめる。 「……どうしたの」  急に部屋に入った僕にびっくりしたらしくて、お母さんは目を丸くしながら聞いてきた。  焦って言葉が出てきてくれない。何を言えば良いのかわからない。  でも、僕は水晶玉を握っている。そうだ。思い出せ。おじいちゃんは、他に何て言ってた? 『ゆっくりでいいんじゃよ』  そうだ。ゆっくり、落ち着いて。  息を吸って、吐いて。 「……お、お母さん」  おじいちゃんを、信じるんだ。 「ぼ、僕、お母さんと、お父さんと……遊園地に、行きたい」  やっと出てきた言葉を聞いたお母さんは、少し笑いながら声を出した。 「……どうしたの急に」  慌てて首を振って 「急じゃ、ないよ」  僕はそう言った。  水晶玉を握りしめながら。 「ずっと、ずっと、考えてた。僕はいつになったらお母さんたちと遊べるんだろうって。お母さんも、お父さんも、お仕事忙しくて……『また今度ね』って、ずっと、言われてたから。でも、結局、遊べたことなんて、一度も、なくて……」  自分でもびっくりするくらいに言葉が出てくる。言わなくてもいいんじゃないかって思ってたことも。 「この前のお祭りも、行けなくって。僕だけお留守番で、周りの子達は皆花火を見てきたのに、僕だけ、ひとりぼっちで」  でも僕は気持ちを抑えられない。心で浮かんだ言葉がそのまま引っ張られて口から出てくる。 「でも、僕、頑張るから。お母さんたちが今より忙しくならないようにするから。いい子でいるから。だから、お願い。一回だけでも一緒に遊園地に行って。僕、お母さんたちのために頑張るから……」  最後にはなぜか両目から涙がこぼれてきて、声はぐちゃぐちゃになっていた。  お母さんはずっと目を丸くしながら聞いていた。でも途中でお母さんの顔も少しくしゃっとして、全部言い終わった後には、僕はお母さんに抱きしめられていた。 「……ごめん」  そう言われて、ああ、ダメだったんだって僕は思った。でも、お母さんの言葉はもっと続いた。 「ごめんなさい。色んなことを考えてくれてたのね……本当にごめんなさい。ちゃんと答えてあげられなくて……遊園地は、三人で行きたい?」 「う、うん」 「じゃあ、お父さんにも予定を空けてもらいましょうね」  少しうるうるした目でお母さんが僕にそう言った。 「……いいの?」  僕が聞くとお母さんはまた僕のことを抱きしめた。 「いいに決まってるじゃない。ごめんね。今までずっと、自分のことばっかりだった……。無理させてたね。ごめんね」  そう言われて、やっぱり何が何だかよくわからないけれど涙が出てくる。  でも、僕が一番泣いたのは今じゃなかった。 「……ありがとう。私たちのことを考えてくれて」  そう言われた後だった。  僕は自分でもよくわからないまま大泣きして、お母さんは僕をずっと抱きしめてくれてて、そんな中で帰って来たお父さんはすごくびっくりしていた。お母さんが事情を説明すると、お父さんも一緒になって僕のことを抱きしめてくれた。「ごめん」と「ありがとう」をひたすら繰り返しながら。           ◇  家族みんなで夜更かしをしてしまったせいで、僕は授業中すっごく眠かったけれど、でも幸せだった。さすがにすぐには予定は決まらなかったけれど、絶対に遊園地に行くと約束が出来たから。  今日の放課後はおじいちゃんにお礼をしに行こうと思って、こっそりお菓子を持ってきた。ココアが好きなおじいちゃんならきっと気に入ると思って。  授業が全部終わって放課後になると、僕は誰よりも早く教室を出て、靴を履き替えて校門を出た。  校門を出たすぐそこに、昨日出会った猫さんがいた。  猫さんは通りかかる人たちが自分を眺めているのを鬱陶しそうにしていたけれど、僕のことを見つけると目配せして歩き始めた。 『ついてこい』  そう言われているんだと思って、僕は猫さんの後を追いかけ始めた。  歩いているうちに昨日おじいちゃんと出会った公園を通り過ぎて、知っている道に出てきた。猫さんはおじいちゃんの家に向かおうとしている。それは僕も同じだったからちょうどよかったんだけど、でも、なんだか『むなさわぎ』がした。何か、起こってほしくないことが起こる予感。  おじいちゃんの家に着くと、猫さんはドアの前に座って、『開けろ』と言うように顔をクイっと動かした。  指示されるままドアを開けると、猫さんはすぐにするりと中に入っていく。 「おじゃましまーす……」  僕も家の中に入って行くけれど、返事はない。どころか家の中には何もない。あんなにあった実験道具の親戚みたいな物が全部綺麗になくなっていて、残っているのは家中を覆っている植物だけだった。 「信じられないか、小僧」  猫さんが僕に喋りかけてくる。僕はこの部屋で何が起こったのかわからなくて、その言葉に頷いた。 「まあ、無理もない。一日で体験するには不思議なことが多すぎただろうからな」  猫さんが何を言っているのか、僕にはよくわからない。 「……なあ、小僧。お前、昨日親御さんと話はできたのか?」 「……うん。おじいちゃんのおかげで」  僕はあの水晶を今も持っている。これからお守りとしてずっと大切に持っていようと昨日決めたのだ。  猫さんは僕の顔を見ながら次の言葉を探している。 「あのじいさんは、魔法使いの試験に合格するためにこの世界にきたんだ。あんなじいさんになるまで魔法が使えなくてな。やっとの思いで臨んだ試験だった」  僕は公園で見かけたおじいちゃんの姿を思い出す。魔法が使えなくて必死に子供を呼び止めていたあの姿を。 「試験の内容は『人間に幸福をもたらすこと』あのじいさんはお前に幸福をもたらした。魔法を使ったかどうかは別として」  猫さんの言葉には、どうしても聞き逃せないところがあった。 「……どういうこと? おじいちゃんの魔法で僕はお母さんと話が出来たんだよ?」 「……違う」  猫さんの表情は、僕が知っている感情の中では『悲しみ』に一番近い感じがした。でも、たぶんそれは『悲しみ』じゃなくて、僕の知らないもっと深い感情なんだと思った。  猫さんは言う。 「あの水晶玉に、魔法はかかっていなかった。全部、お前の力だ」 しばらく、静かな時間が流れた。 「……嘘、だよ。だって、僕、水晶玉を握ったから、話が出来て」 「じいさんがかけようとしたのは『勇気の魔法』だ。その魔法がかかるとき、水晶玉には光が宿る」  遮るように言った猫さんの目は僕を真っ直ぐ見つめている。 「お前の持ってる水晶玉、光ってないだろ」  手が、動かない。  ポケットに入れてる水晶玉。いつでも取り出せる位置に入れておいた水晶玉を、僕はそれでも見ることができない。 「でも、じゃあ、どうして……」  猫さんは耐えきれなくなったみたいに顔を逸らして言う。 「じいさんの魔力は公園で虹をかけた時点でもう尽きていたんだよ。昨日、それ以上魔法を使うことはできなかった。じいさんも勇気の魔法をかけようとした時、それに気づいた」  僕の手を包み込んで呪文を唱えるおじいちゃんの姿を思い出す。  そのあと、僕に笑いかけてくれたことも。 「でも……おじいちゃん、言ってたよ! 『これで大丈夫』って!」  僕は必死に訴えるけど、猫さんは苦しそうな表情になって、言葉を絞り出すみたいに言う。 「……嘘を、ついたんだよ」  少し間を置いて 「お前がちゃんと、両親と話せるように」  そう言って猫さんは俯く。 「嘘じゃないよ……」  気がつけば、信じたくない僕の声が、こぼれ落ちていた。 「僕だけじゃできなかった。おじいちゃんがいたからできたことなんだ!」  涙も声も、一緒にこぼれ落ちる。 「おじいちゃんは魔法使いだよ!」  自分でもびっくりするほどの大声でそう言うと、猫さんもびっくりして、でもやっぱり寂しそうな顔で 「……そうだな。お前のおかげでじいさんは公認の魔法使いになれた」  そう言った。  猫さんは後ろを振り返って歩き出す。壁に突き当たると片脚を上げて振り下ろす。するとそこに異世界への入り口としか表せないようなぐにゃぐにゃした空間が広がった。  猫さんは僕を見て言う。 「ありがとう。あいつの悲願を叶えてくれて」  異世界から流れ込んでくる強風に吹かれながら、猫さんは最後の挨拶をした。 「達者でな」  猫さんが異世界へ向かった後、慌てて追いかけようとしたけれど、入口はすぐに閉じてしまった。  何もかもなくなった空き家の中で、僕と水晶玉だけが取り残されてしまった。          ***  これが、僕が小学二年生になったばかりの時の話。  あれからずっと空き家に通おうとしているけれど、道順を覚えているのになぜかたどり着けない。そういう魔法がかかっているんだと思う。  魔法使いは僕をおじいちゃんに会わせてくれないみたいだから、僕は自力で会いに行こうとしている。  皆からはバカにされるし、あれからよく話すようになった家族にも心配されている。でも僕は本気だ。魔法が世界に存在するなら、僕にもそれが使えるかもしれない。そう信じるくらい良いじゃないか。  僕は、もう何回目になるか分からない実験をしに公園に行く。オカルト本を読みこんで必死に覚えた呪文を試しに行く。  まずは、虹をかけるところから。  それができるようになったら、おじいちゃんに会いに行く。  住所も年齢も名前も知らないおじいちゃんに。僕がおじいちゃんについて知っていることはただ一つ。  おじいちゃんは魔法使いだということ。
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