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エピローグ
三人が出ていったあと、織絵は、右手を顔の前に翳して、じっと見つめていた。まるでそれが、いつのまにか作り物の手に、すり替えられてしまったかのように。
ノックの音がして、ドアが開いた。椎名が戻って来たのだ。
「忘れ物ですか?」と、織絵は驚いて尋ねた。
「いえ」椎名は悲しそうに微笑んだ。「あなたの愛は、あなたを幸福にしてくれていますか?」
織絵は一瞬、彼が何を言っているのかわからず、戸惑った。が、いつかのイタリアン・レストランでの会話を思い出した。椎名と愛について話した夜だ。
彼女は首を振った。
「なぜだが、あの人の今の痛みを、自分のものと感じられないんです」
いつのまにか、水谷への愛情が薄れているのを、織絵は自覚していた。何がきっかけだったのかもわからない。あのドレッシング・ルームでメムになぶられる彼を見ながら感じていたのは、痛みではなく、怒りだった。
「やはりそうですか」椎名はため息をつく。「さっきのあなたの顔を見て、ちょっと不安に思ったんです。ミナカナさんは気づかなかったようですが」
「椎名さん、するど過ぎます」
織絵は苦く笑った。
そして、顔の前に翳していた手のひらを、椎名に向けた。
「この手のひら」と彼女は言った。「水谷がメムと手を繋いで歩いた、という話を聞いたとき、私はこの自分の手のひらに、彼の感じたのと同じ、メムの温もりや汗の湿り気を、感じることができたんです。そのはずだったんです。でも、今は、そのときの感触がなくなってしまいました。あのとき、本当にそんな感覚を持ったのかどうかも、怪しく思えます」
「いいんですよ、それで」
椎名は頷いた。
「いいんですか?」
「水谷氏には、あなたに愛される資格がなかったのでしょう。だから長続きはしなかった。それだけです」
織絵は黙った。
「この地上には」と椎名は言った。「変わってゆくものと、変わらないものがあります。変わってゆくものは、人間には止められない。たとえそれが自分自身の内部のものであっても、です。そのことで、あなたを責める権利など、誰にもありません。あなたは水谷氏に謝らなければならないことなんて、ひとつもしていない」
「でも、椎名さんは」
「テルさんが特別なんです」
織絵は幼児のように頷いた。
「うん」
「そして、そんなテルさんに出会えたという点で、私も特別な存在なのかもしれません」
織絵は黙った。
「気にしてはいけません」椎名はベッドに近づいて、まだ彼に向けられていた彼女の手のひらに、自分の手のひらを合わせた。「あなたに罪はない。彼のことは忘れなさい。いや、思い出にしてしまいなさい」
彼の言葉は、その口調に反して、命令ではなく、むしろ祈りのように響いた。
織絵はじっと椎名を見つめた。
椎名は手を離した。
「それだけが言いたくて、引き返して来ました。では」
部屋を出ようとする椎名の背中に、織絵は声を掛けた。
「椎名さんの愛は、椎名さんを幸福にしてくれているんですか?」
彼は振り返って、微笑んだ。
「もちろん。私はいつも幸せですよ」
そう言って、椎名はドアを閉めた。
織絵は、もう一度、自分の手のひらを自分に向けて、じっと見つめた。
そして、小さく微笑んだ。
(終わり)
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