木馬の手

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10 「ハルが遅かったから、織絵さんがひどい目にあったんだ」  立原は本気で怒っている。 「申し訳ない」  椎名も本気で恐縮している様子だ。  あれから二週間。  事件のあと、織絵はとある私大の大学病院に入院した。顔中に打撲と裂傷を負い、前歯と奥歯が数本折れていただけでなく、頬と顎の骨は数箇所が割れ、歪んでいた。そのままでは元の顔に戻らないと判断され、直ちに整形手術が行われた。側頭部の頭蓋骨にもヒビが入っていたが、幸い、脳には影響がなかったようだ。脳波の検査は、日時を置いて何度か行われたが、異常な点は見つからなかった。  織絵のいる病室は、とても個室とは思えないくらい広くて、日当たりも良い。VIPルームなのだろう。一日いくら掛かるのか想像もつかないが、治療費も入院費用も、名倉グループが持ってくれるということなので、織絵は心配をせずに、休んでいられた。  暦はすでに十二月に入っていて、壁テーブルの上には小さなクリスマス・ツリーが置いてある。  今、その部屋に、立原、椎名、ミナカナの三人が見舞いに来ていた。 「ギブスは取れたそうですね、良かった。ジュースは飲めます? 冷えてないけど」  そう言って、ミナカナは、持ってきたフルーツ・ジュース缶の詰め合わせを、冷蔵庫のそばに置いた。 「あとでいい、ありがとう」と織絵は言った。 「じゃ、何本か冷蔵庫に入れておきますね。あとで看護婦さんに飲ませてもらってください。ストローはここに」 「うん」  織絵が横たわっているベッドは、上半身部分を斜めに起こせる仕組みになっていて、今は四十五度くらいにセットしてあった。三人が来るまで、壁掛け型の大画面テレビでYouTubeを見ていたのだ。  ギブスこそ取れたものの、まだ目と口以外の頭部は包帯で覆われているし、痛みも多少、残っている。それでも、一応、しゃべることはできた。鎮痛剤はなるべく使わないように医者に頼んでいるので、意識は明晰だ。  彼女は椎名を真っ直ぐに見つめた。 「それより、あの夜、私の知らないところで、何が起きていたのか、教えてください」 「今ですか? もうちょっと、時間を置いた方が」  椎名は心配そうだった。 「今です。今、ここで」織絵は強く求めた。「あなたたちがメムや教団について知っていることのすべてを、私も知りたいんです」 「ニュースでも、ある程度のことは報道されているでしょう?」  椎名は壁のテレビを指差す。 「ええ、でも、間違いや嘘としか思えない情報が、かなり混じっています。だから、いったん、それはぜんぶないものとして、本当のことだけを、最初から最後まで聞かせてください」  織絵は頑強に主張する。  椎名はなおも、ためらっていた。  しかし立原が「織絵さんには知る権利があるからね」と言って、説明を始めた。 「あの元信者とウェブ・ミーティングを行ったあとから、話を始めるよ。あのあと、僕は赤城さんとメムの二人に、尾行をつけることにした。もう費用を惜しんでいられないと思ったんだ。林田くんはホテルに軟禁していて尾行の必要はなかったけど」 「メムさんも、対象だったんですね」 「もちろん。水谷社長には禁じられていたが、僕としては、彼女を疑わないわけにはいかなかった」 「そうだったんだ」とミナカナはちょっと悔しそうに言う。「織絵さんは疑っていたけど、立原さんたちは容疑者から外したんだと思ってた」  軽く微笑んで、立原は先を続ける。 「しかし、赤城さんはもちろん、メムにも、教団と連絡を取っている気配は、まったくなかった。バイク好きの赤城さんが一人で出かけたツーリングを、車三台用意して尾行したりもしたが、収穫はゼロだ」 「うぇー」ミナカナが驚く。彼女も具体的な細部までは聞いていなかったのだろう。「いったい、いくらカネ掛けてるんですか」 「でも」と椎名が口を挟む。「メムが担当していたメディア・シンバイオシスの顧客にまで調査範囲を広げて、ようやくわかったんです」  立原が頷く。 「そう、ある顧客のシステム運用委託先が、事実上、教団の支配下にあったんだ。小さな会社だが、価格の安さでいくつかの大手に食い込んでいた。採算度外視だったのか、あるいは信者を安い給与で使って、利益を出していたのか」 「とにかく」と、織絵が確認する。「その会社とメムさんとの打ち合わせが、実は教団との連絡会だった」 「うん。で、その会社に探りを入れ始めたら、急に奴らの動きが慌ただしくなった。正直、何がどうなっているのかは、わからなかった。しかしとにかく、近々になんらかのオペレーションが発動されると予想できた。だから僕は、『自分がメムの立場だったら、どういう手を打つだろう』と精一杯イマジネーションを働かせた」 「そこに、あのメムからのメッセージだったんだ」ミナカナが言った。 「そう、おかげで彼らの狙いがわかった。あとは対抗手段を講じるだけだ」  立原は、その日最初のメムからの連絡を受けてすぐ、〈教団を脱走した少女〉が、水谷を捉えるための罠だと断定した。 「メムは、〈木馬〉探しに名倉グループが乗り出している事実を把握しているだろうし、名倉の力で警備を強化する、ということも必ず知っている、と考えた。あの元信者が言っていたように、水谷社長のメールやメッセージは、彼女に筒抜けだろう、と。彼はメムを疑っていなかったからね」 「実際」と椎名が補足する。「あとでわかったことですが、彼女は社長の携帯の暗証番号を知っていて、しょっちゅう盗み見ていました」 「とにかく、僕はその前提で彼女の行動を予測した。その状況なら彼女は、ただチャンスを待っていてもムダだ、と考えるだろう。なんとかして主導権を握ろうとするに違いない。だから、〈教団を脱走した少女〉は、われわれを受け身に置くための餌だ、と僕は確信した」  彼は直ちに椎名と連絡を取った。  そして、面会場所が社長室から女子シャワーブース・エリアに変更されたとき、彼女がその部屋で水谷に暴力を加えるつもりだ、と確信した。男である水谷を、女子専用の部屋に呼ぶという、不自然な行為を、あえて行っているのだ。それには当然、理由があるはずだ。 「シャワーブースは地下二階にあり、地上二階より上にあるオフィス・エリアからは、遠く離れている。地下一階は飲食店やコンビニのエリアだが、夜中はもちろん無人だ。悲鳴が上がっても、誰も気づかないだろう」  ということは、彼女の計画では、すぐにビルを出るのではなく、そこにしばらく留まるはずだ。そうなれば、彼女のキャラクターから考えて、水谷を連れ出すまで、嗜虐の衝動を我慢する、ということは、とてもできないと思われた。 「このところMICTOCの近くで、鳩や猫の死骸が多く見つかっていたのは、みんな知っていたよね?」  と、立原は問いかけた。  織絵が頷くと、あとを続けた。 「メムを尾行していた連中の報告で、それが彼女の仕業であることは、わかっていた。メムの嗜好を、僕はある程度、把握していた。だから、彼女の計画が読めたんだ」  直ちに準備が行われた。 「でもテルさん」と織絵が疑問を投げる。「メムはその後、何度も違う場所に変更するって連絡をしてきたよ? なのに、どうしてあなたは、迷わずシャワーブース・エリアに彼女が来るって、確信を持ち続けてたの?」 「理由のひとつは、その夜のMICTOCビルの警備員が二人とも、実は教団の信者なのが、わかっていたからだ。奴ら、学生証を偽造して、入り込んでいたんだ」 「水谷社長の警備強化の一環で」と椎名が再び補足する。「夜間、ビルに出入りする可能性のある人間については、身元を綿密に洗っていたんです。彼は、このビルで徹夜することも多い、と聞いていたので」 「そうした準備をメムがムダにするとは思えなかった。だとすると、ビル外への会合場所の変更はフェイクに違いない。会合場所は少なくとも、MICTOCの中のどこかだ。それなら、オフィス・エリアから隔絶したシャワーブース・エリアは、いちばん可能性が高い」 「なるほどですね」とミナカナが感心する。 「そして、もうひとつは」と、立原は続けた。「六時過ぎ、メムがシャワーブース・エリアを指定してきた十分後に、『申請が受け付けられたかどうか』そして『メディア・シンバイオシスだけがそこを使えるのか』を確認するメッセージを送ってきたことだった。そんなに慎重になる以上、本命はシャワーブース・エリアだろう。それに比べて、その後のコンビニやファミレスを指定して来たメッセージは、どう考えても雑で、綿密さに欠けていた。だから、シャワーブース・エリアが本命、という考えは動かなかった」  立原が粘着テープ剥がしに使った薬品は、ワイシャツの下に隠し持っていたものだった。後ろ手に縛られても使えるように、小さく平べったい容器に入れて、腰の後ろに差し込んでいた。 「今どきの犯罪者は、ロープで縛ったりはしないから」  と、立原は言った。 「でもなんの臭いもしなかったですよ?」とミナカナが首を傾げる。「そういう薬って、普通、臭気がひどくないですか?」 「溶剤というとシンナーみたいなものを思い浮かべる人が多いんですが」と椎名が解説する。「今では無臭の溶剤もあるんです」  両手が自由になったので、次はベルトの裏に隠した小型のカッターを使って、両足首のテープを切った。 「彼女が身体検査をしなかったのが、ラッキーだった」そう言って、立原は首を振り、それから、ちょっと笑った。「ああいうタイプは、とてつもなく用心深いところと、子供のように間の抜けたところが同居しているんだな」  とはいえ、実は、そのほかにも、事前にあの部屋の十数箇所に、同様の道具を隠していたのだそうだ。もし身体検査で道具を取り上げられても大丈夫なように。そして部屋のどこにいても使えるように、まんべんなく。  あとで道具の回収作業を見ていたミナカナが、 「あんな小さな部屋に、どうやればあれだけの隠し場所を見つけ出せるんだか」  と呆れたほどだという。  だから、たとえ身につけたものを取り上げられても、なんとかなったかもしれない。 「ただ、それもこれも、織絵さんが、メムとあの女の子の注意を引きつけてくれたおかげだ。そうじゃなければ、とても無理だった。間違いなく、あの女の子にスタンガンでやられていた」  立原が頭を下げる。 「やめてください、テルさん」織絵が言った。「そんなつもりはまったくなかったんです。結果的にそうなったのは、幸運でした」  謙遜でも何でもない、事実そのものだ。あのときの織絵はただ、感情のままに行動しただけなのだ。  部屋には拘束に対抗する道具だけでなく、盗聴器が数個、取り付けられていた。 「あの女の言葉を記録することが必要だったんです」と椎名は言った。「教団の犯罪の証拠として。水谷社長に対する暴力の証拠として。彼には申し訳ないが、痛い思いをしてもらうのも、計画のうちでした」 「水谷はそのことを知っていたんですか?」 「もちろん知らない。彼はメムを自分の妹だと信じきっていたから、彼にそんなことを言ったら、計画が成立しない。メムの観察力を侮ることはできなかった。用心して、織絵さんにも伝えなかったくらいだ。あなたのちょっとした態度の変化で、勘付かれるとまずいと思った」 「ひどい」 「申し訳ない」 「いや、ひどいのは私に、じゃなくて、水谷社長に対してです」  そうした準備のため、夜の早い時間、名倉警備の社員数人が、工事業者のフリをして、女子シャワーブース・エリアに入り込んだ。緊急なので、MICTOCのビル管理にも無断だった。仕掛けを行っていた一時間ほどの間、部屋の入り口には『点検のため、使用できません』という札がぶら下がっていたのだが、ビル管理室に確認した人はいなかった。もともと使用者が少なかったせいだろう。 「テルさんが最初に連絡して来たときは、メディア・シンバイオシスの社長室が使われるということだったので、そちらに仕掛けをするつもりでした」  と椎名は説明した。  ただ、水谷社長には秘密にしておかなければならないので、どうやって社長室に細工をするか、名倉警備の中で議論が長引き、なかなか結論が出なかったという。 「だから、女子シャワーブース・エリアに変更されたのは、ある意味、ラッキーでした」 「でも」とミナカナが疑問を口にする。「メムさんはなぜ、最初、社長室を指定したんですか? それに、それから何度も違う場所を指定して来た理由も、私にはわからないですよ」 「社長室を指定したことに、特別な意味はなかったようです。他の場所についても同じですね。重要なのは、何度も何度も変更することだった」 「え?」  ミナカナの戸惑いを見て、立原が詳しく解説してくれた。 「そうしないと、僕らに準備の時間を与えることになる、と考えたんだ。〈教団を脱走した少女〉という餌を使って自分が主導権を握ったら、あとは思いっきり、こっちを振り回しにかかった。常にわれわれが後手後手に回らざるを得ないようにね。そういうところは、優秀な戦術家だったね」 「しかし」と椎名が自慢げに言う。「われわれのスピードは、彼女の予想を超えていたわけです」 「いや、これも幸運というべきだろう」と立原は椎名をたしなめる。「シャワーブースを夜間に使用する電子申請が、夕方六時で受け付け終了だったから、いったんそこで連絡を入れなければならなかった」 「確かに」椎名は立原には従順だ。「ご存知の通り、申請しておかないと、地下二階はシステムによって施錠されます。そうなったら警備員ですら、エンジニアを呼んでロックを解除してもらわない限り、扉の前で立ち往生するしかありません」 「かと言って、夜の早い時間に水谷社長に暴力を振るうわけにはいかない。まだビルに残っている人が多いから、悲鳴などを聞かれる可能性がある」  立原と椎名はまるで掛け合いのように交互に説明を続けた。 「そういった状況の中でしたから、六時五分前の変更指示が、メムにとってはぎりぎりの線だったわけです」 「まあ、そんなふうに彼女が連絡を限界まで遅らせたという不自然さも、僕に『シャワーブース・エリアこそ彼女が想定している実行場所だ』と判断させた材料のひとつだったんだけどね」 「とはいえ、その戦術に、まったく効果がなかったわけじゃありません」 「そう。時間が足りなくて、隠しカメラを取り付けることができなかった。完璧に隠そうとすると、もっと大規模な工事をする必要があったんだそうだ」 「さっきテルさんが言ったように、夜勤の警備員は最初から敵と見なしていました。だから、彼らが出勤する前に仕掛けを完了し、何事もなかったように見せかけなければならなかったんです」 「急いでかき集めたにしては、社内でも最高クラスの専門家と有能なアシスタントが揃っていたんだがね」 「専門家」と、二人のやり取りに、織絵がやっと口を挟んだ。「なんの専門家なのかは、聞きたくないかも」  立原は苦笑する。 「盗聴や隠し撮りばかりやっている人たちじゃないよ。普通に防犯のプロなんだ」 「ですが」と椎名が悔しがる。「向こうは向こうで、手を打っていたんです」 「そう。あの夜、MICTOCに潜んでいた教団関係者は、ビル警備員だけじゃなかった」 「さっきは言い忘れましたけど、名倉警備の者を二名、ビルの駐車場に待機させていました。メムに十分しゃべらせたら、突入させる手筈です。テルさんは格闘の専門家じゃありませんからね。でも、それが向こうにバレていて」 「ほんとにそこまでやってたんだ。TVでも言ってはいたけど」織絵はむしろ、彼らの準備の念入りさに感心する。 「メンバーはいずれも格闘技に関してはトップクラスだったので、すっかり安心していたんですが」 「眠らされたんだ。だらしがない」立原の声は低かったが、怒りで少し掠れていた。「即、クビにすればいいのに」 「それは無理ですよ、労使問題になる。一時的に現場から外して反省してもらうのが、精一杯です」  と、椎名がなだめる。 「チクショウ」 「彼らを眠らせたのは、教団信者の男の子たちでした。八歳と七歳の二人です。彼らはメムたちとともにMICTOCの敷地内に入り、駐車場に回って、うちの警備員が乗った車に近づき、ドアを叩いた。そんな時間に子供がやって来たので、一人が驚いてドアを開いた。そこで彼らは、吹き矢を使いました」 「吹き矢ねぇ」とミナカナが呆れる。「なんか、もうちょっと近代的な武器はなかったのかなぁ」 「いや、最適だったと思うよ」と立原が解説する。「吹き矢は原始的だが、簡単に手作りできるし、軽いから小さな子供にも扱える。素人でも、びっくりするほど命中率が高いんだ。七歳の男の子が近距離で確実に相手を仕留めることができる武器は、ほかにないだろうね。針に塗る薬が入手し難いはずだが、教団は別の犯罪計画のために準備していたらしい。だが」  そう言って、立原は壁を叩きそうに腕を振り上げた。が、なんとか自分を抑えたようだ。 「なんにしても根本原因は、やはり警備員たちの油断だ。相手が大人だったら、絶対にそこまでの接近を許さない彼らだったはずだ」  ミナカナも怒る。 「そんな仕事に、そんな子供を使うなんて」 「ええ、最低ですね」と椎名が頷いて、あとを続けた。「MICTOCのビル管理会社に『水谷社長の警護のため』と正直に伝えて、あらかじめ駐車の許可を取ったのが、大きな失敗でした。ビルと関係のない車が、駐車場の隅に長時間停まっていたら、さすがに怪しまれると思ったんですが」 「適当な作り話をしておけば良かったんだ」と立原が非難する。 「つい、その手間を惜しんでしまったんです。ただ相手の管理会社には『下請けの警備会社も含め、他社の人間にはいっさい情報を与えないように』と釘を刺してはいました。『駐車場の車については、別の理由をでっち上げて、説明しておけ』と」 「なのに、向こうの独断で、『名倉警備の車だ』と警備会社に伝えてしまったんだ。そうしないと、同業者同士、なんらかの衝突を起こすのでは、とよけいな心配をしたらしい。結果、」 「私には、理解できませんよ」と椎名は首を振った。「いったい、どんな衝突を想像したんでしょう」 「同業者が鉢合わせしたら、必ずケンカするものだと思ってたんだろう」 「もちろん、あとで厳重に抗議しました。しかし、反省の色はまったくありませんでしたね。『いやー、ちょっとした根回しをしておけば、だいたいのトラブルは未然に防げるもんじゃないですか、ねえ?』だそうです」 「まったく、どいつもこいつも」 「そんなわけで、盗聴器を通してドレッシング・ルームの様子をモニターしていた、こちらのオペレーション指揮担当が、メムに十分しゃべらせたと判断して、二人に突入の指示を出したとき、まったく反応がなかったんです」 「ぐっすり眠ってたからな」 「指揮担当は名倉警備のビル内にいました。うちからネットワーク越しに、MICTOCのビル管理システムにログインできる状態にしていたんです。盗聴器もそのネットワークに繋がっていました」 「その情報が教団にまったく漏れてなかったのは、不幸中の幸いだった」 「ネットワークの維持管理は、警備会社とは無関係、と思ってくれたんでしょう」 「今考えれば、結構、危ない橋を渡っていたんだな」と立原は天井を仰ぐ。 「名倉警備からその報告を受けたとき、私はグループ経営の仕事でよんどころなく自社にいました。地球の反対側にある会社のトップと、オンラインで会談していたんです。途中で秘書が持ってきたメモを見て、携帯電話各キャリアの中継機のうち、あのビルの地下をカバーしているものの電源を落とすよう、指示しました。ビルの電気設備システムも、リモートからコントロールできたんです」 「敵の連絡手段を断つのは、対テロ作戦の常識だね」 「それが、あの状態でできる、最も即効性のある手段でした。もちろん、それだけじゃなく、別の警備員を現場に急行させ、警察にも一報を入れさせましたが、如何せん、一分一秒を争う状態では・・・」 「まあ、そのおかげで、パトカーの警察官が、ビル近くの車の中にいた教団信者を逮捕できたんだ。水谷社長を連れ去ろうと待っていた連中だ。乗っていたのが盗難車だったからね」 「私自身も、オンライン会談を中止して、現場に向かいました」 「遅いよ、まったく」 「申し訳ない」 「おかげで、織絵さんを、こんな目に遭わせてしまった」 「本当に、申し訳ない」  椎名が頭を下げる。 「教団は、もう終わりなんでしょうか?」  と織絵は訊く。 「存続は不可能だろう」と立原は断言した。「メムも、事件と教団との関わりをあえて否定してはいないようだし」 「あの夜、盗聴器で録音したものは警察に提出してあります。まあ、盗聴が適切だったかどうかについては疑問もあるでしょうが、うちの弁護士の話では、少なくとも今回の暴力事件の証拠して認められるのは間違いない、とのことです。たぶん、その後は警察内のほかの部署にも回されて、教団の実態解明に役立つでしょう」 「教祖が少女たちと性行為を行っていた事実も暴かれる」と立原が指摘する。嫌悪感が剥き出しだ。「教祖は、『今回の事件は信者の一部の暴走で、自分は何も知らない』と言っているらしいが、逃げ切れるはずはない」 「いや、それ以上に大きいのは、われわれの調査で、彼らの資金源がわかったことです」と椎名が自慢する。「こればかりは、メムも白状しなかったんですが、数日前に、やっと突き止めることができました」 「盲目的な信者の寄進じゃなかったんですか?」  織絵が訊く。 「それでは足りなかったんです。特に、最近は犯罪行為の元手として、大金が必要だったようですね。今回の事件のほかにも、計画しているものがあったようですし」 「で、その資金源とは?」 「児童ポルノ」  立原は吐き捨てるように言った。 「えっ」とミナカナが驚く。彼女にも知らされてなかったようだ。 「これはまだマスコミにもリークされていませんから、ここだけの話にしてください。彼らは子供の信者の裸体を動画や静止画にして、ブローカーに販売していたんです」 「そんな」織絵も動揺する。 「販売先は合衆国のグループだった」立原の声は怒りに震えている。「うちの調査担当が、教団関係の情報を調べていて、両者の関係を発見した。そして、警察庁を通してFBIに連絡したんだ」  とうとう立原は興奮して立ち上がり、拳で壁を殴った。 「どこまでも子供たちを利用する、最低な奴らだ」 「テルさん、落ち着いて」織絵がベッドの上からなだめる。「隣も空室じゃないんだから」 「失礼」  立原は何度か深呼吸をした。  代わって、椎名が説明を続ける。 「彼らは、追い詰められて、司法取引に応じたようです。〈真の神の文字〉からデータを受け取っていた証拠を、FBIに提出しました」 「教祖が指示していたことなんですね」 「いや、まあ、そうには違いないんだが」と立原が言い淀む。 「教祖は、もう精神的に崩壊していました。まわりの言うがままに動く、人形に成り下がっていた。変わって、教団を動かしていたのは、若い幹部たちです。児童ポルノによる資金獲得も、彼らが実権を握ってから、大幅に拡大したようです」 「そして、その幹部は、大部分が十五歳以下の少女だった」  そう言って、立原は深いため息をつく。 「え? 少女? 十五歳以下の?」聞き間違いかと思い、織絵は確認する。 「ええ。昼間は中学校に通っている女の子たちです」と椎名が告げる。  聞き間違いではなかった。 「いつか元信者とのウェブ・ミーティングをしたとき、彼は〈若者〉と言っていたよね。だが、実際には若者というより子供に近い年齢だったんだ。それも女の子ばかり。彼がわざと曖昧な言い方をしたのか、あるいは前田弁護士が」と立原は、教祖の元側近で、教祖と対立して教団を離れた弁護士の名前を挙げた。「はっきりと言わなかったのかは、わからないが」 「そして、彼女たちは皆、教祖と肉体関係を持っていました」 「うそ」織絵はまだ信じられない。 「なんか気持ち悪いです」とミナカナも苦い顔だ。 「そうだね」と立原。「もともと教団は教祖と数人の幹部が動かしていた。当時の幹部はもちろん、中年以上の社会経験豊かなブレーンだ。だが、教祖が壊れ、彼らは力を失った」 「あるいは、彼らが去ったから、教祖が壊れたのかもしれません」椎名が補足する。 「かもしれない。とにかく、そうしたブレーンたちに変わって権力を握ったのが、教祖と肉体関係を持った少女たちだったわけだ」 「以前から、そうした幹部たちは教祖の影に隠れて、信者たちからは見えなかったんです。だから、大半の信者は、教団の中枢が、十代前半の少女たちと入れ替わっていることを知りませんでした」 「例の元信者も、前田弁護士に言われるまでは、教祖が支配者だと信じていた」 「誰からも制止されなくなった少女たちは、暴走を始めました。壊れた教祖が口走る妄想を、自分たちなりに解釈して、何が最終目標なのかも見失ったまま、目先の衝動を満たすためだけに動き始めたんです。教団の中で育った彼らは、自分たちの行動が、どれほど人を傷つけるか、あるいは社会にどういった波紋を広げるか、そして、それが自分たちにどう跳ね返ってくるか、など、考えもしませんでした。最初から視野に入らなかった。だから彼らが建てた計画は、驚くほど緻密なところと、あり得ないほど杜撰なところが混在する、奇怪なものになりました」 「優秀で、同時に幼稚な子供たちだね。十七歳のメムでさえ、戦術的には優れていても、教団にとって何がプラスなのかを見失って、ただ自分の中のサディズムを満たすだけの行動を取ってしまった」  立原はため息とともに、そう言った。  ちょっとの間、沈黙があった。 「という状況なので、前田弁護士も、まもなく自分の知っていることをしゃべり始めるでしょう。勝ち馬に乗るのは得意そうな方ですからね」 「めでたし、めでたし、なのかしら」  織絵はつぶやく。 「ええ、だから、安心して治療に専念してください」  椎名が言う。 「そもそも、なぜメムはあんなにも自分の伯父さんを憎んでいたんでしょう?」  その疑問を出したのは、ミナカナだった。 「本当のところは本人にもわからないでしょうね」と椎名は言う。 「でしょうけど」 「自分の母親への憎悪が転嫁したものかもしれない」と推測を口にしたのは、立原だ。  織絵も自分の考えを述べる。 「憎悪というより、嫉妬だったかも」 「嫉妬?」  ミナカナには、予想外の言葉だったようだ。 「母親も自分も、教祖に愛されたわけでしょう? でも、母親は教祖の子供を産んでいるのに、自分はまだ教祖の子供を孕っていない」 「うーん」 「それと、母と違って、自分は教祖の娘であるというプライドがある。それらが歪んで絡まり合い、母親への憎悪になったんじゃないか、って思うの」 「だが」と立原が織絵のあとを続けた。「母親は死んでしまった。そのころにはもう、メムはもう、誰かを憎まなければ生きていけない人間になっていた。それで、伯父である蒼司氏を憎悪の対象に選んだ」 「もちろん、すべて想像だけどね」と織絵。 「うーん」ミナカナが考え込む。  事件についての説明が一段落したので、織絵は別の質問をした。 「ところで水谷社長は、どうしているんですか?」 「あいつ、やっぱり一度も、見舞いに来てないんだ」とミナカナが怒る。「あいつの家族のせいで、先輩がこんなことになってるのに」  織絵はちょっと不安になって、尋ねた。 「会社を休んでるの?」  いいえ、と椎名は首を振る。 「逆です。ろくに家にも帰らないで、ずっと仕事をしてるんですよ。仕事に逃避して、この事件を忘れようとしているのかもしれませんね」  織絵はホッとした。 「元気なら、それでいいんです」 「先輩、あいつに甘過ぎです」  ミナカナは機嫌が悪い。  立原がなだめるように付け足す。 「まあ、メディア・シンバイオシスは被害者側なので、報道でもかなり同情的に扱われているようだし、とりあえずは心配しないでいいと思うよ」 「あ、でもひとつ、面白いことがあるんです」とミナカナは嘲るように言う。「社長、あれ以来、怖くてMICTOCのシャワーブースが使えないみたいなんです。わざわざ駅前のスポーツジムの会員になって、そこのシャワーを使っているんだって。そこまでするなら、家に帰れよ、って話ですよ。てか、それより先に、さっさと織絵先輩を見舞いに来いよ、ほんと」 「いいのよ。でも、ありがとね、ミナカナ。私のために怒ってくれて」 「そんな」 「その状態だと、林田くんは、ずっと軟禁ですか?」織絵は水谷よりも、林田に同情してしまう。「彼を自首させたときに起きるであろう騒動には、社長、とても対応できる状態じゃないっぽい」  「いや、そっちは自首ではなく、政治的解決に持っていく方向です」椎名はニヤリとする。「彼が引き起こした事件で失脚した政治家さんなんですけどね、ここにきて、ようやく復活のチャンスを掴んだらしいんですよ。それなのに、改めてあの事件が話題になっては、せっかくのチャンスが台無しになる、ということで穏便に収めたがっています」 「示談、ってことですか?」ミナカナが確認する。 「いや、ちょっと違いますね。不正アクセス禁止法違反は親告罪ではないから、『示談』というのは法的にあり得ない」 「まあ厳密に法的な問題はともかく」と立原があとを続ける。「被害者と加害者の間で話がつけば、警察や検察があえて割り込んでくることもないだろう、ということだ。交渉に当たっている弁護士によると、相手はこちらに口止め料さえ払いかねない様子だそうだしね」  立原が笑い、他のみんなも笑い声を上げた。座がちょっと白ける。  椎名が腕時計を見た。 「そろそろ、引き上げましょう」 「ああ、あまり長い間、お邪魔してもよろしくないだろう」 「先輩、また来ますから」 「うん、テルさん、椎名さん、ミナカナ、みんなありがとう」  挨拶を交わして、三人は病室をあとにした。
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