木馬の手

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1. 「猫のお尻の穴?」  西野織絵は思わず訊き返した。  彼女は三十歳をちょっとだけ越えた、システム・エンジニア兼Webデザイナーだ。コンピュータ・ソフト開発会社メディア・シンバイオシスで、創業時からずっと働いている。 「ええ、猫のお尻の穴が気になって」 「えーと」  後輩の言葉に、織絵は絶句した。  後輩の名前は皆川加奈子。『ミナカナ』と呼ばれている。春に大学を出て入社したばかりで、まだ実際の仕事を任せることは難しい若手だ。だが、とにかく元気な子だった。織絵は彼女のキャリア指導者兼精神的な助言者、いわゆる〈メンター〉を命じられていた。 「うちの海苔ちゃんが、あ、言いましたよね、うちの黒猫、海苔ちゃんっていうんですけど」 「それ、もう百回は聞いた」 「で」  ツッコミは無視か。 「で、あの子、う○ちが硬くて、よくお尻から半分はみ出た状態で、その辺をウロウロしてるんですよ。そんでもって、そこらにコロンって落っことすんだ。だから」 「だから、浣腸してあげたくなった、と」 「いやー、今朝起きたときには、そこまで考えてなかったんですけど、さっきランチにちょっと遠出して、帰りに薬屋さんの前を通ったら、たまたま見かけちゃって。おー、これだーっ、これしかないーっ、て」  そんなもん店頭に飾るなよ、薬屋。 「でも、それって人間用だよね? いいの?」 「多用途、って書いてありました。ペットの給餌・給水にも使えるって」  浣腸器にポップまでつけてるのか、薬屋。  ミナカナはポケットから、器具を取り出した。一見、ちょっと大きめの注射器のようだが、針がない。彼女はシリンダーを動かして、給餌のポーズをしてみせる。 「口から水を入れるのも、お尻から水を入れるのも同じかい」 「いえ、水だと冷たくて、かわいそうだから、ぬるま湯で」 「あんたって、もう、細いかいんだか、大雑把なんだか」 「ちょうどバランスが取れてて、よろしいでしょ?」  その自信はどこから来るのか。 「で、即、買っちゃった、と」 「はい。根拠のない自信に基づく迅速な行動が、ミナカナの本領です」  自分で『根拠のない』って言っちゃってるし。 「ま、いいよ。わかった。わかったけど、お尻のポケットから半分はみ出させて見せびらかすのは、やめて。しかも、包装から出しちゃってさ」 「中がどうなってるのか気になって」 「・・・いいから、しまってよ、お願いだから」  とうとう、お願いしてしまった。 「あ、はい」 「もうすぐ」と織絵は脱力しながら、最後の気力を振り絞って、言った。「もうすぐ、例のミッションのパートナーになる人と会わなきゃならないんだから、ちゃんとしてちょうだいよ」 「うーん。〈なりすまし暴き屋さん〉かぁ。なんかリアリティないんですよね」  もうちょっと緊張感のある呼び方はないのか。なりすまし暴き屋さん、って。  でも、リアリティが感じられない、ってのは、その通りだけれど。 *  そのミッションを織絵が命じられたのは、一週間前。社長室でのことだった。  そのとき彼女は、社長室のソファに座っていた。高級ではないが、シンプルで、落ち着けるデザインだ。  水谷社長は窓際に立って、マグカップのコーヒーを飲んでいる。年齢は織絵より十歳ほど上の四十二歳。穏やかな笑顔を浮かべて、織絵を見た。 「大変だっただろう?」  と、水谷は言った。  彼の「大変」が何を指しているのかは、説明されなくてもわかっていた。納品が大幅に遅れてしまった、直近の案件のことだ。  彼女の働く株式会社メディア・シンバイオシスは、名前に〈メディア〉とある通り、動画配信サイトや写真・動画の共有サイトなどの作成を前面に押し出したマーケティングを行なっている。が、実際にはそれだけでなく、コンシューマー向けのウェブサイトやショッピングサイトなども、少なからず手がけていた。 「もう、ヘトヘトです」  織絵は素直に答えた。  水谷は苦笑いする。 「ワンマン経営者だと、よくあることだけどね」 「にしても、ひど過ぎます。私たちがすべての画面を隅々までデザインしたあとで、納品の十日前に、最初からやり直し、ですもん」 「だってね」 「まあ、私は何もしませんでしたけどね。結局、デザインはあの会長兼最高経営責任者様が一〇〇%自分でやっちゃったようなもんで」 「でも、ストレスは溜まるでしょう?」と社長。 「そりゃ、そうですよ。全力で取り組んでた自信作を、ドブに捨てられた上に、あんな下品な色彩のパレードと、ひとりよがりの使い難い部品配置で上書きされて」 「ワンマン経営者は、インパクトだけを重視するからね。品格なんて、感じるセンスがないんだな」 「ですね」  織絵はため息をつく。 「ごめんね、最初からそれがわかっていたら、西野さんをこの仕事にアサインしたりしなかったんだけど」  織絵は慌てて片手を振った。 「いえ、そんなつもりじゃ」 「ま、それはもう済んだこと、でいいね?」水谷は頷いた。「それで」 「はい」 「やってほしいことがある。システム開発とは関係ないんだが、君にしか頼めないんだ」 「え?」  織絵は不安になった。システム開発とは関係ない? まさか、今回のことを失敗と見なされて、最前線から下げられるのだろうか?  いやいや、このプロジェクトがコケた原因は、ステークホルダー・マネージメントにある。顧客のシステム担当重役がキーパーソンだと判断していたのに、実は彼はなんの実権も持っていなかった。そして、納品間近になって、ラスボスのように、真のキーパーソンである独裁者的暴君的会長兼CEOが登場し、プロジェクトは大混乱に陥ったわけだ。だから、責任は私じゃなく、そこを読み誤ったプロジェクト・マネージャーにあるはず。 「いや、もちろん、あの失敗は君の責任じゃない。だから、これは左遷でも、降格でもないんだ」  織絵の気持ちが顔に出たのか、水谷はそう言った。マグカップを持って窓際を離れ、織絵の対面に座った。 「君にしか頼めないんだ、本当に」  その真剣な顔つきに、織絵はたじろいだ。さっきまでの笑顔はかけらもない。 「どういう仕事ですか?」  織絵の質問に、だが、水谷は答えなかった。 「会社の設立当初からいてくれる君しか、もう信じられなくなった。いや、もちろん妹は別だけど」  水谷が株式会社メディア・シンバイオシスを創設したのは、九年前。その当時から残っているのは、彼女だけなのだ。そのほかの創立メンバーは、創設三年目で迎えた倒産の危機の際、みんな転職していった。エンジニアだけでなく、営業も、財務も、総務も。 「正直、あのとき、なんで君が残ってくれたのか不思議だよ。僕自身、これはどう考えても倒産必至だな、と思っていた」 「楽天的なことだけが、私の取り柄なんです。まあ、ミナカナには負けるけど」 「あれは楽天的というより、何も考えてないだけ・・・いやいや、今、そんなことはどうでもいい」水谷は首を振った。「君と私のほか、本当に、誰一人残っていないんだ。だから、君にやってほしい」 「何を?」 「君に、この会社に忍び込んでいる〈生きたトロイの木馬〉を探してほしいんだ」 「は?」 「別人になりすまして、この会社に入り込んでいる奴がいる。そいつを見つけ出し、正体を暴いてくれ」  しばらく無言で社長の顔を見つめたあと、織絵はもう一度、言った。 「は?」
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