3人が本棚に入れています
本棚に追加
2.
株式会社メディア・シンバイオシスは、首都圏外縁の、『MICTOC』と呼ばれるビルの中にある。『モトミヤ ITCオフィス・コンプレックス』を略してMICTOCだ。元は公営の施設だった。都市部のIT企業を自分たちの土地に誘致するために、自治体が公金を支出して出して作ったものだ。が、今は売却されて、ある大手不動産会社が運営している。名前の『モトミヤ』は、私鉄の最寄駅『元宮』から来ていた。
織絵は、会社のあるMICTOCの七階から、定員十二人のエレベーターにミナカナと二人で乗り込んだ。ミーティングは一階にある応接室で行う予定になっている。そこは全テナントの共用で、オフィス・エリアの外にあり、管理会社のウェブサイトで予約する仕組みだった。
横でスマホをいじっているミナカナを見ているうち、織絵は思わず、ため息をつきそうになった。水谷社長が〈生きたトロイの木馬探し〉と呼んでいるミッションも意外だったが、そのパートナーがミナカナとは。
「あの子と一緒に、ですか?」社長に告げられたとき、織絵は思わず、大声を上げてしまった。「いや、ミナカナはいい子だと思いますよ。でも、もっと使える人材はいなかったの?」
「とりあえず、君と近しい人がいいと思ったんだ。他のメンバーはそれぞれのプロジェクトから抜けなかったし」
「もし、ミナカナが、その〈木馬〉だったら? だって、あの子、まだこの会社に入ったばかりですよ」
「それはない」と水谷は力強く言い切った。「どうやらそいつは、一年か、それ以上前から潜入していたらしい。入社して半年の彼女は、容疑の対象外だ。いやいや、それ以前にあの、まったく何も考えていない子が〈なりすまし〉なんて無理だろう?」
「いや、見た目は確かにそうですけど」
織絵は抗議する。
「見た目だけじゃない。採用するときに、そこはしっかり見定めたんだ。この子は、何も考えてないな、って」
社長の言葉には、疑いのかけらもない。
「いや、あの」
だったらなんで採用したんだよ? しかも私をメンターにして。
そのミナカナは、半透明の書類入れに、大きめの方眼紙ノートやiPad、そして雑多な文房具と一緒に、例の浣腸器を入れて、それを小脇に抱えている。もう、「見えてるよ」と注意する気も失せた。ポケットから半分出ているよりは、目立たないかもしれないし。幸い、エレベーターの中には、自分たち二人しかいない。
やがてチン、と音がして、ドアが開く。
「あら」
一階で待っていた女性が、二人を見て微笑んだ。切長の目元が妖艶で、やや近寄り難い雰囲気を漂わせている。
「あ、メムさん」
とミナカナが、ちょっと驚いて、声を上げる。
メム、と呼ばれた相手の顔を、織絵はつい見つめてしまった。何度見ても、(水谷社長によく似ているな)と感じてしまうのだ。
彼女に織絵が初めて会ったのも、社長室だった。もう五年も前になるだろうか。
「妹の潤子だよ。これから、この会社で一緒に働いてもらうことになった」
と紹介されて、驚いた。それまで彼から妹の話なんて、一度も聞いたことがなかったからだ。
「水谷潤子です。潤いの子、って書くの。苗字に合わせて、水に縁がある名前。兄貴は、蒼い海の蒼司だし」
彼女はそう自己紹介して、社長と二人で笑った。
だが、会社の中で彼女を下の名前で呼ぶのは、水谷社長だけだった。社員の多くは、「水谷さん」とか「メムさん」とか呼んでいた。その不思議なキャラクターのせいなのだろう。決して愛想が悪いわけではないのに、なぜか親しみやすさを感じさせない。肉感的な声なのに、まるで幻聴のように生々しさがない。
ニックネームの〈メム〉はメモリのことだ。彼女は人間離れした記憶力を持っていた。視覚的な記憶ではなく、一度聞いた言葉を忘れない、という能力だった。
そして本人も、そのニックネームを好んでいた。
「メム、って呼んでもらえる方が、うれしいわ。潤子って、本当は好きじゃないの。小学校のときも、友だちにはミズちゃんって呼んでもらってた。でも、メムの方がもっと素敵ね」
そう言ってから、「あ、でもこの話、兄貴には黙っていて」と付け加えた。「兄貴は私のこと、潤子って呼びたくて仕方ないらしいの」
彼女はその記憶力を生かして、社長秘書のような仕事をしている。どれだけ複雑なスケジュールも、細かなタスクも、絶対に忘れずに対応できるのだ。ただ、それだけでは勤務時間を埋められないのか、部署としては営業部に属していて、今日はそっちの仕事で外出していたはずだ。
「客先からお戻りですか?」
「そう。天気が良くて、ちょっと汗をかいちゃった」
メムは笑った。確かに、ふだん、あまり肌を出すような服は着ないのに、今は紺色のジャケットを脇に抱えて、タンクトップ姿になっている。剥き出しの腕と肩が、少女のように若々しい。
「暑そうですね、もうすぐ十月なのに」
ミナカナも笑う。
軽く会釈を交わすと、メムは二人と入れ替わって、エレベーターに乗り込んだ。すれ違ったときに、ミナカナの手が、彼女の二の腕に触れてしまった。
「わー、ごめんなさい」
「こちらこそ、ごめんなさいね」
メムはミナカナに優雅な微笑みを返す。
エレベーターのドアが閉まったあとで、ミナカナが言った。
「あれで、もう三十代後半なんですよねー」
「メムさんのこと?」
「ええ、メムさんの歳です。なのに、さっきの二の腕の肌触り、高校生並みにピチピチしてて」
「うん、お肌の見た目もね」
「まあ、JKにしては、ちょっとお化粧が濃過ぎますけどね。そこはウン十年も生きてる美魔女みたい。それに頭が良すぎて近寄り難いとか、キレると怖いなんて噂もありますけど」
「そうなんだ」
「林田さんなんかは、『メムはああ見えて、絶対、ドSだ』って断言してました」
「林田の言うことは、ほっといていいの。技術的な話以外ならね。偉そうな口をききたいだけだから。きっとメムさん、あいつ以外の男たちには魅力的なんだよ」
「ですよねー。普通にお団子持って立ってても、エロそうですもんね」
確かにめっちゃセクシーだと思うが、なぜお団子を持たせるんだろう?
「社長がシスコンになるのも、わかります」
「こら」織絵は苦い顔をする。「確かに社長は、彼女を過剰に見えるほど可愛がっているけど、シスコンとは、ちょっと違うよ」
「そうですか?」
「子供のころに生き別れになって、数年前に、ほぼ二十年ぶりに再会したから、特別な想いがあるのよ。それに社長、彼女と再会する一年前に、ずっと一緒に暮らしていたお母さんを亡くしているの。彼にとって、 彼女はもはや、唯一の肉親なの」
「その話は聞いたことありますけど」
「ていうか、シスコンシスコン言ってるあんた自身、ひどいブラコンでしょうが。何かといえば、二歳年上のお兄さんのイケメンぶりを自慢して」
「あはは」
否定はしないんだ。
だが、それ以上叱るのは、やめにした。メムがミナカナの書類入れの中身に気づかなかったことに、ホッとしていたせいもある。
駅の改札のようなゲートにICカードをタッチして、ガラス張りのエントランスに出た。
「あの人ですかね?」
ミナカナが隅のテーブルに座って、カフェのペーパーカップを持っている男の方を、目で示した。高い椅子に腰だけを乗せて、脚を伸ばして座っているので、スタイルの良さがわかる。
「うん」
「イケメンじゃないすか、兄貴といい勝負」
ミナカナはややテンションを上げる。
「大きな声を出すんじゃないの」
軽く注意して、織絵は男の方に歩き出した。男も、こちらを見て、椅子から降り、近づいてきた。
「名倉コンサルティングの立原様、でしょうか?」
「はい」
男は二人から二メートルほど距離を置いて立ち止まると、仮面のような笑顔を作り、ほんのちょっとだけ、頭を下げた。
*
MICTOCビルの一階、オフィス・エリアの外にある共用の応接室は、白を基調とした、明るい部屋だった。壁に抽象版画が掛かっているだけで、テーブルもソファも、銀色のパイプとファブリックを組み合わせた、シンプルなものだ。清潔なところはメディア・シンバイオシスの社長室と似ているが、物が少ない分、スッキリしている。
「他人になりすましている人物を見つけ出すのが、そちらのお仕事だそうですが」
織絵は立原に言った。三人はテーブルを挟んで座っている。マナーの教科書通り、立原は奥、織絵たち二人は入り口側に並ぶ配置だ。ただ、立原は心持ち椅子を引いて、二人から距離を取ろうとしているように見える。
「別に、なりすまし対応専門というわけではないのです。本来は、人事関連のコンサルティングが仕事なのですが、ある会社でAIを使った社員の適正判断、みたいなサービスを行っていたとき、たまたま、氏名を偽って入り込んでいた男を見つけ出したんです。そいつは以前、ある地方自治体で公金を横領して逃亡中だったんですが。また、別の会社でも、他人の履歴で入社していた、いわゆる産業スパイを探り当てたりしたもので。それで、いつのまにか、そんな依頼が来るようになりました」
「そうだったんですね。今回、お願いしたいと考えているのも、事前にお伝えしている通り、その手の事案です」
「つまり、御社に正体を隠して入社した人間がいるらしい、しかも、その人物はなんらかの害悪を、御社に与えようとしている、と」
「ええ。とは言っても、私も先日社長の水谷から聞いたばかりで、完全には状況を把握していないかもしれないのですが」
織絵は印刷した資料を立原に差し出した。
「言うまでもありませんが、取扱注意でお願いします」
「承知しました。拝見します」
立原は頷いて、資料を読み始めた。
「この〈真の神の文字〉というのが、ああ、『シンのカミ』じゃなくて『マコトのカミ』と読むのか、とにかくこれが御社に悪意を持って、何者かを潜入させたと思われている組織なんですね?」
「組織というか、カルト集団です」
「カルト」
「ええ、そこにある写真に写った奇妙な文字、それはどうやら古代メソポタミアの楔形文字を真似ているようなのですが、その文字を礼拝することで、アヌンナキと呼ばれる神々とコミュニケーションし、結果、信者は超自然の力を授かり、現実世界の幸福と繁栄を得ることができる、と、そういう趣旨らしいです」
「アヌンナキ、か。確かシュメール民族の神々でしたね」
「ええ、教祖は自分のことをシュメール王の末裔だと主張しているそうです」
「そして彼らの神の名前を勝手に使っているわけだ」
立原は、少しの間、教団が文字と呼んでいる図形を見つめた。ミナカナは、それを初めて見たとき、「なんか、男のアレみたいですね」と言った。織絵にも、文字というよりは男性性器の象徴に見えた。彼女がインターネットで調べて限りでは、メソポタミアの楔形文字に、こんなものはない。楔形のパーツを組み合わせているが、そのパーツの数が、文字というには多過ぎる。シュメールと結びつけるための、こじつけなのだろう。
「ただ、資料にもざっと書いていますけど、教団は弊社に、というより、むしろ社長の水谷に、個人的な害意を持っているようなんです」
「ふむ。でも、彼を害するだけではなく、同時に金も欲しいから、御社の資産も盗み出そうとしている、と」
立原は、資料から目を上げないままで、つぶやくように言った。
「そんな感じです。〈真の神の文字〉は・・・というか教祖と呼ばれている自称シュメール王の末裔は、信者に貢がせるだけでは、あきらないほど、物欲も支配欲も強いらしく」
「そうした理由で、自分たちと縁のある御社に目をつけ、教団員の一人を、偽の経歴で入社させた」
「縁というか、まあ逆恨みですね。水谷はその潜入者を〈生きたトロイの木馬〉と表現していますが」
「なるほど、IT関係者らしい言い回しですね」
立原はさらに資料をめくり続けた。織絵とミナカナは黙って、彼の顔を見つめている。彼の視線は書類に集中し、他のものは目に入っていないようだ。織絵はふと、ランゲが描いたモーツアルトの肖像画を思い出した。高校の国語の副読本に、小林秀雄のエッセイの挿絵として、収められていたものだった。未完成の絵だが、瞳に異常なほどの集中力を漂わせていたのが、印象に残っている。
「そちらに潜入者がいるという情報は、この、教団を抜け出した元信者がソースなんだ」
不意に立原はそう言って顔を上げた。資料をこちらに向けて、該当する箇所を指差す。ぼーっと彼を見ていたミナカナが、ちょっとたじろいで、助けを求めるように、織絵を見た。
「そうです。残念ながら、その元信者の方も幹部ではなかったので、詳しいことは知らないそうですが」
「〈木馬〉が、もともと教団でどういう地位にあったのか、そして、今、具体的に誰の名を騙っているのか」
彼は潜入者を〈木馬〉と呼ぶことに決めたらしい。〈トロイの木馬〉を縮めたのだろう。確かにいちいち、〈誰かになりすまして社内に潜入している者〉というのは面倒だ。
「それがわからないんです。ただ、『潜入者がいる』という漠然とした情報だけが、彼から警察のテロ組織を担当している部署に伝わり、そこから、念の為、ということで、水谷に伝わってきたんです」
「教団は警察にテロ組織と認識されているんですか?」
「いえ、そこまでは行かないようです。ただ例の教団が前世紀に起こした事件以来、カルトに対する情報収集は綿密に行っているようですね」
「情報収集だけ、ということですか」
「ええ。警察には『今のところ、そちらに注意をお願いする以外、何もできない』と言われました。〈真の神の文字〉の拠点に家宅捜索を行うようなことは、まず不可能だと」
「まあ、そうでしょうね」
「で、その警察関係者が、なりすましを暴く専門家として、立原さんを紹介してくれたわけです」
「はい。しかし、そもそも、情報源である元信者は、信用できるのかな?」
「わかりません。そこも、あなたに調査してほしい内容のひとつです」
「承知しました」
立原は再び、資料に集中した。
やがて最後のページまで読み終えると、立原は資料を置き、軽く眉間に皺を作って、織絵を見た。何か訊きたそうな表情だ。
彼が口を開く前に、織絵は先回りした。
「社長の家族と教団との関係を、もう少し説明しておきましょうか?」
資料には、水谷の家族と、自称宗教団体(つまり、宗教法人としての公式な認可は得ていない)である〈真の神の文字〉との関係については、水谷が中学生のころ、彼の父がその団体に入信した、としか書いていない。
「プライベートについては、かなり省略して書いてあるんです。水谷が嫌がるので。でも、必要なら話して良い、と許可はもらっています」
一応はね、と内心でつぶやく。
許可をもらうのに、かなり強行に主張し、社長と激しく口論しなければならなかった。しかし、織絵からすれば、それは今回のミッションを遂行する上で、立原が絶対に必要としている情報のはずだった。
立原はかすかに微笑んだ。エントランスで見せた仮面のような笑顔より、ずっと気持ちがこもったものに見えた。織絵をパートナーとして認めた、ということだろうか?
「お願いします」
彼は心持ち体を乗り出すようにして、言った。
*
水谷社長のフルネームは、水谷蒼司(みずたに・そうじ)。四人家族で、父母のほかに、潤子という名前の、五つ年下の妹がいた。
父は自動車工場の職員、母は専業主婦、という、ごく当たり前の家族だった。それが壊れたのは、父が〈真の神の文字〉に入信したからだった。行きつけの飲み屋で知り合った女性に誘われたらしいが、詳しいことはわからない。蒼司が高校受験に必死だったころだ。
母は〈真の神の文字〉を信じなかった。それに関して、父と何度も大喧嘩をした。ほとんど毎晩のことだった。ずっとあとで蒼司が母から聞いた話では、彼女のお婆さん(蒼司からすれば、曽祖母)が熱心過ぎる仏教の信者で、朝から晩まで念仏を唱えては、「私の言う通りにしないから、みんな地獄に落ちる」と周囲を脅して回った嫌われ者だったそうだ。そんな祖母への反発があって、母は新しかろうが古かろうが、どんな宗教も大嫌い、となったらしい。
蒼司は父母の諍いを見るのが嫌で、自室に閉じこもって、受験勉強に没頭した。同じ部屋で、妹の潤子は、携帯ゲーム機を握りしめて、遊んでいた。イヤフォンを耳に押し込んで、小さなモノクロのディスプレイからいっさい目を逸らさない。両親が「中学生になるまで、ゲーム機は買い与えない」と決めていたので、彼女はいつも兄の部屋に入り浸って、彼のゲーム機を独占していた。
そんな四月のある日、父と妹が、家から消えた。
夕食の時間になっても、二人が帰ってこないので、蒼司は心配になった。
「潤子は?」
と、母に質問を繰り返した。食事前から、深夜に掛けて、ずっと。しかし母は曖昧な答えしか返さず、最後には黙って蒼司を強く強く抱きしめた。
潤子が父に連れられて、教団の共同生活施設に入ったのだ、という事実は、父と同じ自動車工場で働いていた、近所のおばさんから知った。歯医者に行ったとき、待合室で声を掛けられ、適当に相槌を打っているうちに、その話を聞かされたのだ。
父母の間で、一種の妥協が成立していたわけだ。蒼司のまったく知らないところで、子供二人の意向を、完全に無視して。
蒼司は治療をすっぽかして家に帰り、大声で母を責めた。
「母さんたちは、子供を山分けにすることで、お互いの生活の平穏を保つことにしたんだな! 父さんは潤子、母さんは俺を取った! 俺と潤子の絆を、断りもなく引き裂いて、それで平気なのか!」
母はただ、涙を流すだけだった。
しばらくの間、蒼司は教団の共同生活施設に侵入しようと、繰り返し試みた。施設は都心からかなり離れた場所にある。バブル時代にリゾート・マンションとして建てられたビルで、今はそれを買い取った教団が使っているのだ。
当時も今も、〈真の神の文字〉は非常に閉鎖的で用心深く、『教祖様が指名した』とされる人物だけを勧誘していた。確実に洗脳できるタイプを、なんらかの方法で選別しているのかもしれない。そのせいか、狙った人物に対する勧誘は、もはや勧誘の域を超えて、脅迫に類することも稀ではないようだ。
教団施設に侵入しようとする蒼司の試みは、すべて失敗した。父が入信しているから、自分も信者になりたいのだ、と言ってもダメだった。
「妹を連れて帰りたいだけだろう?」
と教団の代弁者は言った。
「違います」
「嘘を言ってもわかるんだよ、教祖様にはね」
そうして、二人の大男が彼の両腕を取り、強い力で、だが彼が怪我をしないように巧みにあしらいながら、彼を門の外に放り出した。
蒼司はいったん諦めて、情報工学の勉強に全力を注いだ。高校・大学と問題なく進み、卒業後、中堅クラスのIT企業、十条論理技術工業に入社する。
まだまだワイルドだった当時のIT業界の労働環境の中で、徹夜や休日出勤を繰り返しながら、彼は折に触れて、〈真の神の文字〉の情報を収集していた。だが、父と妹の状況は、まったくわからなかった。
三十歳を少し過ぎたころ、十条論技が巨大企業に吸収されたのを機に、退社して自分の会社メディア・シンバイオシスを創設した。それから四年が経ったある日、一人の女性が彼の前に現れた。
水谷潤子、と名乗る女性が会社に面会に来た、と聞いて、彼はなんの悪戯だ、と怒った。会社経営が面白くなってきたこともあって、正直、そのころには、もう妹との再会は諦めていたのだ。
「でも」受付の社員は、水谷の剣幕に驚きながらも、あとに引かなかった。「お顔が社長にそっくりなので、ご親戚に間違いないと」
結局、水谷はその女性と会った。そして、涙を流した。
潤子を名乗る女性は、教団を脱走したのだ、と、遠回しに言った。
だが、それ以上、詳しいことは何も話さなかった。
「もちろん、警察やマスコミには、何も話さないで。とにかく、今は、だめ。私が教団の外の世界に馴染んだら、もう少し話せるようになるかもしれないけど」
彼女はそう言ったのだという。
「勝手なことばかり言って、ごめんなさい。でも、兄さんしか頼れないの。兄さんしかいないの。お願い」
そう言って、彼女が彼の胸に顔を埋めたとき、水谷は彼女を信じることに決めたのだ。きつく抱きしめたときに体全体が受け取った感触が、彼の記憶と共鳴したからだった。
*
「その女性が、妹の潤子さんであることは、間違いないんですか?」
立原は質問する。
「間違いない、と水谷は言っています。確かに、第三者の私が見ても、顔立ちとかは非常によく似ています。水谷に言わせると、『子供のころより、今の潤子の方が、俺に似ている気がするよ。ま、気のせいだろうけど』だそうです」
「ふむ」
「疑っているんですか?」
「現段階では、誰一人として信じられない、それだけです」
「あのー、そもそもなんですけど」とミナカナが口を挟む。「誰かになりすます、なんてこと、そんな簡単にできるもんなんでしょうか? アニメのルパン三世じゃあるまいし。ヴァーチャル・リアリティの世界ではなく、この現実世界で、ですよ」
「もちろん簡単じゃない。でも、不可能でもない」
立原は顔も上げずに、答える。
「そうでしょうか」
ミナカナは不満そうだ。
その空気が伝わったのか、立原は資料をテーブルに置き、ミナカナを真っ直ぐに見据えた。
「では、ひとつ質問します。あなたは、自分の記憶と、スマホが教えてくれるデータとでは、どちらを信じますか?」
「え?」
「もう少し、具体的に考えましょうか。想像してみてください」と立原は指を一本立てる。「あなたは、あるレストランに初めて行った。そして、そこがとても気に入ったので、友だちともう一度行こう、と考えた」
「イタリアン? 中華?」
ミナカナはそう言って、うれしそうな顔になる。今、それはどうでもいいだろ。
「ま、イタリアンとしましょう。そのレストランは駅からちょっと離れた場所にあるけど、行く道はわかりやすいので、あなたは一度行っただけで、覚えてしまった」
「はいはいはい」
食いものの話だと、ノリがいいな。
「ところが、誘った友だちが地図アプリで店名を検索すると、あなたの記憶とは通りふたつほど違った場所にある。グーグルのマップで調べても、アップルのマップで調べても、結果は同じだ」
「ふむ?」
「ここで質問です。あなたは自分の記憶と、スマホの地図アプリが示すデータと、どっちを信用しますか?」
「そりゃ地図アプリですよ。そのくらいの勘違い、よくある話じゃないですか」
「それです」と、立原は頷く。
「え?」
「現代人は、自分の記憶より、データの方を信じるんです。特に複数のデータが同じ方向を指していたらね。細かいところが記憶と食い違っていても、気にしません。だから、まず、さまざまなところに記録されたデータを、すべてがきちんと整合性を持つように改ざんします。そして、そのデータとピタリと合うように、関係者の前に現れれる。そうすれば、ちょっとぐらい、彼らの思い出と異なる点があっても、偽物だと疑われたりしません」
「うーん」
「昔なら、関係者の誰かが、自分の感じた違和感を拭うことができず、本当のことを突き止めようと調べ始めたかもしれない。でも、今は違います」
「そうかなぁ」
「あなた自身がそう言ったでしょう? つまりコンピュータ上の情報をうまく利用するスキルがあれば、サイバー・ワールドの中だけではなく、逆にリアルな〈なりすまし〉も可能になる、そういう時代になったんです。リアル・ワールドのルパン三世や怪盗キッドは、まず何よりも、データ利用の巧者なんです。デジタル・データの波を、自在に乗りこなすサーファーです」
「う・・・」
立原の自信に満ちた様子に、さすがの空気を読まないミナカナも、何も反論できないようだ。
立原は、かすかに笑って、あとを続けた。
「もちろん、それだけでなく、整形手術やメイクアップのテクニックも、昔とは比べ物になりませんしね」
「はあ」
「かつて」と言って、立原はちょっと間を置き、ミナカナと織絵を交互に見つめた。「かつて、古代ギリシャの英雄が発明した〈トロイの木馬〉は、コンピュータ・システムに侵入するマルウェアとして、二十世紀に甦りました。それから半世紀が過ぎ、今や〈木馬〉たちは、現実世界における肉体を取り戻したのです。キリスト教の言葉でいうインカーネーション、つまり肉体への回帰ですね。温かさを装った彼らの冷酷な手が、誰かに迫っているかもしれない。リアルな手触りと体温を持った手が」
織絵もミナカナも、立原の言葉に圧倒されている。
「そんな木馬の手を探し出すのが、私の仕事なんです」
完全に言い負かされたミナカナが、下を向いて、負け惜しみを言う。
「木馬に手なんてないでしょ」
そのツッコミ、いらないんだけど。
*
話終わった立原は、ちょっと恥ずかしそうに横を向き、軽く咳払いをした。『柄にもない演説をやってしまった』とでも思っているのか。
「ああ」と織絵は笑う。ちょっと可愛い、と感じてしまったのだ。「喉が渇くでしょう? ここ、エアコンの除湿が効きすぎるんです。ドリンク、持ってきますね」
そう言って、立ち上がろうとすると、それを抑えて、
「私が」
と、ミナカナが腰を上げた。
「うん、お願い」
次の瞬間、ミナカナはテーブルの脚に自分の脚を思いっきりぶつけた。派手な音がして、天板が斜めになった。
「わっ」
その拍子に、そこにあった彼女の書類入れが、飛び上がって、踊った。中身が転げ出す。付箋紙のブロック、USBメモリ、赤青黒のボールペン。
そして、浣腸器。
それは文具と一緒に机上に転がり、立原の前で止まった。
立原は一瞬、びくりと震えた。そして時間が凍ったかのように、あらゆる動きを止めた。その顔から表情が消えた。視線は浣腸器から離れない。
すみません、と言いかけた織絵だが、彼の表情の異様さに、言葉を飲み込んでしまった。ミナカナも立ち上がりかけた姿勢のまま、固まっている。
立原はしばらく静止していたかと思うと、突如、まるで壊れかけのロボットのようなギクシャクした動きで、立ち上がった。視線はようやく浣腸器から離れたが、今度はどこにも焦点が定まらない、異様な目つきになっていた。外界から自分を切り離した人間の目だ。
そして、無言でカバンを取り上げると、亡霊のような足取りで、すーっと部屋を出ていった。織絵が渡した資料と、二人の名刺が、机の上に置き去りにされている。織絵たちには、挨拶どころか、見向きもしなかった。完全にその存在を無視されたとしか言いようがない。
二人は、閉まるドアを呆然と見つめた。
最初のコメントを投稿しよう!