木馬の手

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3. 「あんたのせいだからね」織絵はミナカナに文句を言う。「まったく、あんたが浣腸器なんて見せびらかすから、立原さん、怒って帰っちゃったじゃないの」  あれから三日が過ぎたが、まだ動揺が収まらない。水谷社長は昨日まで九州に出張していたので、メールで簡単に報告しただけで、まだ直接会話していない。 「見せびらかしたりしてませんよー」 「剥き出しで、半透明の書類入れに放り込んでいたら、同じです」 「おもちゃの注射器にしか、見えないでしょう」 「注射器にトラウマ持ってたのかも」 「そんな言い方、ズルいです。だったら、もしあの人が先端恐怖症だったら、先輩愛用のLAMYの万年筆なんて、チートレベルのメンタル攻撃アイテムじゃないですか」  ああ、もう。  子供のケンカだ。この子と話していると、いつもこうなるのは、なぜだ。  内線電話が鳴った。ひとつ置いて隣の席の同僚が、素早く立ち上がって、受話器を取ってくれた。 「はい? あ、わかりました」  そう言って、受話器を置くと、彼は織絵たちを見た。 「西野さん、ミナカナ、社長が呼んでるよ」 「うわー、来たよ」  織絵は天を仰いだ。立原の件でお叱りを受けるのだ。ほかに考えられない。  ああ、もう。 *  社長室のドアは開いていた。  ソファに座っている男の横顔が見えた。初めて見る顔だ。水谷社長とカナダ発のECサイトについて語っていて、織絵たちには気づかない。おそらく水谷と同年代だろうが、貫禄というか、オーラが感じられる。水谷が軽薄に見えるほどだ。  織絵は声を掛けるタイミングを図って、入り口のそばで立ち止まっていた。 「誰でしょう?」  小声で、ミナカナが質問する。  織絵は黙って、首を振った。 「ああ、そこにいたのか」  水谷が二人に気づいて、声を掛けてきた。 「失礼します」  と言って、織絵は中に入る。続いて入ったミナカナに、社長はドアを閉じるように命じた。ドアはかなり分厚くて、防音力が高い。他の社員にはあまり聞かれたくない話のようだ。 「センシティブな話題なんだ。特に、潤子には聞かれたくない」  と水谷は言った。 「妹さんに?」  やっぱり、あれだよ。嫌な予感しかしない。 「紹介しよう。名倉ホールディングスのCEO、椎名春彦さんだ」  水谷は貫禄のある男を紹介した。 「椎名です。よろしく」  男が頭を下げる。 「え? あの名倉グループの?」  ミナカナが脊髄反射的に大声を上げる。  名倉グループは、大正初期に創業された巨大企業だ。当時は電気機械メーカーだったが、満州事変が始まったころから、軍用飛行機向け精密機器の製造で急成長を遂げた。戦後はGHQの命令で数社に解体されたが、昭和三十年代半ばから、富山の半導体工場をメインに組織を再編し、さらに高度成長期からバブル時代に掛けて、戦前を超えるほどに巨大化した。このときリーダーシップを取ったのが、のちに半導体業界の女帝と呼ばれることになる名倉節子だった。  彼女の死後、数年の間、グループはリーダーシップを失い、混乱した。が、二十一世紀に入り、首脳陣が安定すると、その後は大胆にハードからソフトに主軸を移してゆく。まだ十分に利益を出しているにもかかわらず、生産の六割を担っていた岩手と愛媛の二工場を他の電子機器メーカーに売却し、経済評論家たちを驚かせた。  そうした時代への素早い対応もあって、名倉グループは今もなお、経済界に君臨している。関連会社も多数あり、しかもそれらの業種は多種多様だ。ITや半導体とは無関係なものも、少なくない。  そのキメラのような組織を破綻なく経営しているトップが、この会社になんの用だろう? 直接の取引は、確かまだなかったはずだ。いや、子会社の名倉コンサルティングには依頼を出そうとしていたが、あれは立原を怒らせて終わったはず。それに、あの件で、わざわざCEOが出てくるとは思えない。  じゃ、何?  立ち上がった椎名と織絵たちをソファに座らせて、水谷は説明する。 「椎名さんは、前回、立原さんにお願いしようとした件を、引き続き調査してくれていたんだ。今日は、その結果の報告だそうだ」 「え?」  織絵は驚く。CEOが自分で引き継いだ?  社長は言い訳のように言う。 「椎名さんから直接、私あてに連絡があったんで、旅先から総務部長に必要な指示を出しておいたんだ。いや、西野さんたちを除け者にする気はなかったんだよ。君たちには、九州から戻ったら、直接、話そうと思ってた。メールとかだとややっこしそうでね。そしたら、二日しか経ってないのに、今日にはもう、中間報告ということで」 「いや、でも、その前に」と、椎名は遠慮がちに口を挟む。 「あ、そうだった」水谷社長は笑って「じゃ、ちょっと」と席を立った。 「どちらへ?」 「いや、ちょっとね」  呆気に取られた織絵とミナカナをあとに、部屋の外に出る。 「終わったら、携帯を鳴らしてくれ」  と織絵に言い置いて、慎重にドアを閉めた。社歴の長い彼女は、社長の携帯番号を教えてもらっている。 「えーと」  戸惑っている二人に、椎名が言った。 「今日は、お詫びに来ました」 「お詫び?」 「先日は、立原が大変失礼な態度を取ったようで、申し訳ありませんでした」  椎名は頭を下げた。 「え、は、え?」 「本人が、非常に気にしておりまして。ただ、『自分が行くと、もっとお二人を怒らせそうだから、おまえ、行ってくれ』と」 「えーと」  織絵は混乱した。椎名の短いセンテンスに釣り合いが取れないほど、雑多な疑問が湧いてくる。立原さん、自分の所属するグループのCEOをパシリみたいに使い立てして、しかも『おまえ』呼ばわり? あと、水谷社長が出ていったのは、なんで? いや、それ以前に、私たちが怒ってる、って?  こういうときには、ひとつひとつ、解いてゆくしかないだろう。織絵は大きく深呼吸してから、口を開いた。 「椎名さん。まず、最初にあなたに言いたいのは、私たちは、怒ってなんかいない、ということです。失礼なことをしたのは、この皆川の方でして」 「浣腸器を放り出されたそうで」  椎名は謝罪の表情を崩さずに、そう言った。 「放り出したんじゃないです! たまたま転げ出ただけなんです!」  ミナカナが叫ぶ。  それを無視して、織絵は椎名に向き直る。 「立原さんが驚かれたのも、当然です。仕事の打ち合わせに持ってゆくようなものじゃなありませんし」 「スルーですか」と、ぼやくミナカナを、織絵は再度無視。 「私はむしろ、立原さんの方が、侮辱されたと感じられたのでは、と心配していました」 「とんでもない」椎名は、手を振る仕草をする。「立原はとても恥入っておりまして、そのせいで西野さんたちには連絡が取り難かったようです。『彼女は怒って、担当を降りたに違いない』と。なので私も、依頼主のトップである水谷社長の方に連絡を取らせていただいたんですが」 「そういうことだったんですね」と、頷いてみせたものの、織絵は、まだスッキリしない。 「しかし、今日、水谷社長に対面でお話を伺ったら、まだ、お二人が担当ということだったので、もう一度、立原に連絡を取りました。そうしたら、『それならば、彼女たちにはすべてを話しておいてほしい』と」 「すべて、とおっしゃいますと?」  椎名は、少しの間、じっと織絵の顔を見つめていた。それから、改めて、口を開く。 「今からお話するのは、公にできることではありません。ただ、立原は、『西野さんは信頼できる』と断言しました。『彼女には、このミッションの信頼できるパートナーになってもらいたい。だから、西野さんから完全な信頼を得るために、彼女とその手下の方には、自分が醜態を見せた理由を、隠さず話しておいてほしい』と」 「手下・・・せめてアシスタントと言って」  ミナカナは、またまた、ぼやく。 「なので、水谷社長には失礼ですが、席を外していただくよう、お願いしたんです」 「はあ」  まだ話が見えない。 「実は立原は、少年のころ、義理の母親に性的虐待を受けていたのです」  せいてき・ぎゃくたい?  聞き間違い、 じゃないよね?  織絵の疑問が、またひとつ増えた。 「長い話になります」  椎名は、そう前置きして、語り出した。 * 「ご存知かとも思いますが、私ども名倉グループを大きく発展させたのは、名倉節子という人物でした。女帝と呼ばれた彼女の、経営者としての才能には、誰も文句がつけられません」 「ええ」  織絵が頷く。 「しかし、五十歳を超えたころの彼女は、人としての道を、完全に踏み外していました。絶対的な権力を奮い続けた結果、いつごろからか、抑制が効かなくなってきたようなのです。邪悪な欲望をコントロールできなくなった」 「道徳的な規範を見失った、ということでしょうか」 「はい」と肯定して、椎名は続ける。「一方、そのころの立原家は、だらしない父と働き者の母を持つ、平凡とはいえないまでも、それほど珍しくもない家族でした。彼と、両親のほかに、姉と妹が一人ずついて、立原はどちらとも仲が良かったそうです」 「ふむふむ」  ブラコン級に兄を慕っているミナカナが微笑む。 「立原の父は、その数年前に仕事を失い、母親が一家の生計を立てていました。非常に優秀な事務員と評価されていたようです。父は最初は職を探してあちこち訪ねて歩いたのですが、一年もすると、職探しに飽きて、ギャンプルに手を出し始めた」 「そんなに就職が難しかったんでしょうか?」 「もっと条件の良い仕事があるだろう、と思っているうちに、いつのまにか、働くのが嫌になっていた、という感じらしいです」 「まあ、ありがちですね」 「それでもなんとか団結していた家族に、崩壊のときが訪れました。立原の母が亡くなったのです。食中毒でした。忙しさのあまり、うっかり冷蔵庫に入れ忘れて放置した食べ物を食べてしまった。運悪く、それに致死的な菌が取り付いていたんですね。それで、一家は収入を断たれたわけです。家族はこのまま社会の最下層への落ちてゆくかと思われました」 「お母さん、かわいそう」  ミナカナが小声でつぶやく。 「ところが、信じられないようなことが起きました。立原の父は、名倉節子と再婚したのです」 「え?」  織絵は思わず声を上げた。 「そう、周囲の誰もが、唖然としたそうです」 「それじゃあ」ミナカナが確認する。「立原さんは、名倉グループ総帥の義理の息子だったわけですか?」 「そうです。だから本来は、私ではなく、あの人がグループの総帥を継ぐはずだったのです。名倉節子の遺言によって、ね。まあ、本人が嫌がっていたのと、ほかにもあれこれあって、紆余曲折の末、私が引き受けることになったんですが」  立原に対する呼び方が、「彼」から「あの人」に変わった。「あの人」というときの椎名の表情には、間違いのない敬愛の念が感じられた。 「でも、それが、性的虐待とどう繋がるんですか? まさか義理の息子を?」 「そう、彼女は義理の息子をセックスのおもちゃにしていたんです。というか、そもそも、そのために立原の父と再婚したんですよ。最初から、息子だけが目当てです。亭主なんてどうでも良かった」 「うそ」  ミナカナは唖然とする。織絵も同じ気持ちだ。 「先ほども言った通り、晩年の彼女は、明らかに精神を病んでいました。十歳前後の少年に対して歪んだ欲望を抱え、それを抑制できなくなりつつあった。ただ、さすがに公の場で欲望を満たすことできません。最初は外国に別荘を作って、その国の美少年を閉じ込め、欲望を満たしていたようです。どこの国かは申し上げられませんが、貧富の差が激しく、当時は人身売買も盛んだった、という噂のあるところです。でも、彼女はすぐに満足できなくなった。毎夜、海外旅行に出かけるわけにはいきませんからね。そこで、彼女が考えた方法が、義理の息子という名目で、自分の家の中に性奴隷を置くことでした」  暗いストーリーを咀嚼するために、織絵もミナカナも沈黙している。 「それだけのために」やがて織絵は聞き返した。「名倉節子は、それだけのために再婚した、ということですか?」 「ええ」 「彼のお父さんは、それを知っていたんですか?」 「もちろん知っていました。十分に承知した上で、自分が贅沢な暮らしをするのと引き換えに、息子を渡したんです」 「それこそ人身売買じゃないですか」 「ええ。弁護の余地はありませんね」 「彼女は以前から、立原さんに目をつけていたんですか?」 「名倉節子がどうやって立原を見つけのかは、わかりませんでした。ただ、彼はどこにいても目立つ少年でした。顔形というより、気高いオーラを持っていたというか」  椎名の言い方には、客観的な立場の者とは思えない、深い感情が感じられた。  それに気づいた織絵は、質問した。 「椎名さんは、そのころの立原さんをご存知だったんですか?」 「ええ、私は小学校の低学年から、あの人の父が再婚するまで、ずっと彼と一緒でした。小学校二年生の冬に彼が転校してきて、私のクラスに入ってきたときから、私はあの人に憧れていたんですよ」 「友だちだった?」 「とんでもない。友だちなんて、おこがましい。ケライですよ」 「え?」  それが『家来』のことだと気づくのに、ちょっと時間が掛かった。時代劇のような言葉に、織絵は戸惑う。 「そう、家来です」  その言葉を椎名はむしろ誇らしげに発音した。 「それは、えーと、どう解釈すればいいんでしょう?」  混乱した織絵に代わって、ミナカナが質問する。 「言葉通りです。私は彼の家来になったんです」椎名は、ふっ、と笑った。「出会った瞬間、私はあの人との〈身分の差〉を感じたんです。この人は貴族だ、俺は平民だ、と。まあ、変に思われるでしょうね。貴族なんて、はるか平安時代のお話なのに」 「つまり、貴族の末裔なんですか? 立原さん」  確認するミナカナに、しかし、椎名は首を振る。 「いいえ、あの人には、どこの国の貴族の血も流れていません。それでも、あの人は、生まれながらの貴種です。世間は高貴さを〈血〉のせい、遺伝のせいにしたがります。しかし、それは間違いです。神は血筋とも先祖とも生まれた家の財産ともまったく関係なく、ただ、ご自身の計画のみに従って赤ん坊を選び、高貴さを与えるんです」  椎名は一瞬、夢見るような目になる。そして、先を続けた。 「当時の私にとって、あの人のために何かをするのが、最大の歓びだと感じられた。いや、過去形ではなく、今でも、最大の歓びですよ」 「はあ」  首を捻っている織絵の隣で、ミナカナは天井を見上げ、ニヤニヤしている。何かしら、想像を逞しくしているようだ。  椎名は苦笑した。 「違います。そんな関係ではありません。空想でBL展開はやめましょう」  ミナカナは無言で下を向く。 「話が逸れました。立原の話でした」椎名が軌道を元に戻す。 「それです」 「あの人の父は、自分が働かなくてもお金に不自由しないように、息子を名倉節子に売ったわけです。息子が節子の家に監禁されたのを確認して、娘二人を兵庫県にある全寮制のお嬢様学校に入れると、自分は一人、札幌に移り住みました。さすがに息子のいる東京には居づらかったのかもしれません。彼はそこで贅沢三昧の暮らしを始めます。ランドローバーを乗り回し、ススキノで金を湯水のように使う。愛人も複数、囲っていたようです。やがて贅沢が過ぎて健康を壊し、それをカバーしようと怪しい精力剤を飲み続け、二年も持たずに心臓発作で死んでしまいました」 「正直、信じられないです。あまりにひどい話なので」  織絵は言った。 「無理もありません。確かに信じ難い話です。でも、事実です。私は、その証拠の写真も見ました。もちろん、今はもうありません。あの人に相談するまでもなく、私がすべて消滅させました」  消滅、とは強い言葉だ。だが、椎名には、その言葉を使わなければならない、心理的な必然性があったのだろう。  織絵は黙って頷いた。  椎名は続けた。 「虐待者の常で、名倉節子は、痛みに恐怖し、屈辱に涙するあの人の姿を、写真やビデオに残していたんです。ビデオは見ないで燃やしましたが、大型の光沢紙に焼き付けられたカラー写真の類は、見たくなくても目に入ってしまいます」 「ええと、わかりました。その話は、もういいです」  織絵が慌てて言う。ミナカナも隣で激しく首を縦や横に振っている。 「そうですね。聞いていて気持ちの良い話ではないですからね。でも、ひとつ言っておかねばならないのは、その虐待の道具のひとつに、浣腸器があった、ということです」 「あ」 「あ」  織絵とミナカナが同時に声を上げた。 「そのせいで、立原はそれに対してトラウマを持ってしまったんです。それだけは、わかっていただかなくてはなりません」 「もちろん」 「もちろんです」  二人は先を争うように、答えた。 * 「では、ここからが本題だ」  社長室に呼び戻された水谷が、口を開いた。 「あ、はい」  展開が速すぎて、織絵は追いつくのが精一杯だった。ミナカナはすでに過負荷でフリーズしかかっているのか、今にも白目を出しそうな顔だ。 「よろしいですか?」と確認して、椎名が語り出す。「名倉コンサルティングのサービスのひとつに、AIを使った人事サポート、つまり、『AIが社員を適材適所に配置するお手伝いをします』というのがあるのは、ご存知ですか?」 「立原さんから、お聞きしました」織絵が答える。「そのサービスで〈なりすまし〉を暴いたことがある、と」 「なら、話が早い」  椎名はさっきまでの暗い話題を吹き飛ばそうとするかのように、陽気に言った。 「実はね」と水谷社長。「名倉コンサルティングさんにうちの社員の情報を、AIに掛けてもらっていたんだ。九州から総務部長に指示したのは、そのデータを提供することだった」 「その結果をご報告に来たんです。本当は立原が来るべきなのですが、さっきも言った通り、まだ抵抗があるらしくて、今日のところは、代わりに私が」 「助かります」  織絵が言う。 「私たちの個人情報を渡したんですか?」  ミナカナが口を尖らせる。 「申し訳ない。でも、その情報なしでは済ませられないんです」  椎名がまた、頭を下げた。 「もちろん、名倉コンサルティングとは守秘契約を結んでるよ。だから彼らから外に出ることはない」  と水谷がなだめる。  言い訳する二人を、ミナカナは腕組みをして、見つめていた。織絵もちょっと苦しいな、と思う。社員が法的手段に訴えたら、ヤバいのではないか。 「法的には、大丈夫だよ」と水谷が言う。「去年の〈適材適所プロジェクト〉のとき、『外部の人事コンサルに個人情報を開示する件』について、社員全員から同意書を取っただろう?」  そうだった。嫌がる社員もいたが、意外にすんなりと収まった、と記憶している。でも。 「でも、あれは名倉とは別のコンサル会社でした」 「あの同意書には、相手の会社の名前は書いてない。ついでに言うと、期限も書いてない」 「えーっ、ズルい」  ミナカナは不満そうに叫んだが、それ以上は反論しなかった。 「とにかく」と椎名が話を本筋に戻す。「そうした情報を、われわれ名倉グループが持っているデータと合わせて分析し、疑わしい人物をピックアップしました。その結果が、ここにあります」  椎名は応接テーブルの真ん中に、カバンから出した大画面のタブレットを置き、全員が見える状態にした。 「それをお伝えしようとしたら、西野さん・皆川さんが担当だから、一緒に聞いてもらう、ということだったので、ついでに立原の件の謝罪をさせてもらうことにしたんです」 「その方がいいと思ったんだ」  水谷は言った。 「怪しい人物がいたんですね」  と織絵は身を乗り出す。 「ええ、警戒すべき、と判断された社員が三人いました」 「三人」  ミナカナも興味を示す。 「まず、この人です。赤城幸男、と名乗っている男」 「財務部長・・・」  水谷が独り言のように、つぶやく。 「赤城部長って、入社して二年ちょっとでしたっけ?」  と、ミナカナが織絵に尋ねる。しかし、財務に縁のない織絵は、彼がバイク好きでヤマハの単気筒車を乗り回していることくらいしか知らない。  答えたのは、水谷だった。 「いや、もう三年になる。エルミナコム社にいた人物を、エージェントを通してヘッドハンティングしたんだ」 「エルミナコムとはずいぶん大きな会社から採ってきましたね」と椎名が経営者らしい感想を述べる。「しかも、当時は五十歳になったばかりの働き盛りだ」 「ええ」水谷が頷く。「エージェントへの支払いは半端じゃなかった。そこのろの赤城さんは休職扱いで、もう一年も仕事はしていなかったのにね。でもとにかく、それだけのことはあると思ったんです」 「彼は前の会社にいるとき、奥さんと一人息子を、相次いで亡くしていますね」  椎名が確かめる。 「そう、奥さんが脳溢血で、息子さんがガンだと聞きましたよ。子供の方はもう長く入院していたらしいが、それにしても、不幸としか言えない。その上、奥さんの場合は、『自分が気づいていれば、防げたかも』という気持ちが、赤城さんには強くあるみたいなんですね。彼はそのせいで、結局、エルミナコムを離れたんだ」 「それ以前に、そのほかの家族のほぼ全員を、あの東日本大震災で亡くしている」 「一族を根こそぎ津波にさらわれた、と言っていましたね。出身が宮城の海岸沿いだし、奥さんもそちらの人だったから」 「震災で故郷の家族を失い、病気で妻と子も亡くした彼は、仕事を放り出し、ほぼ一年に渡ってスペインで過ごした。そして、帰国したのち、御社に就職した」 「ええ」 「だが、帰国したのは、本当に本人でしょうか?」  水谷は眉を吊り上げた。 「違うと言うんですか」 「疑わしい点が、いつくかあります。まず、彼は御社の財務を担当しながら、前職で培った人脈をまったく利用しようとしていない。訪問客の記録や、交通費の記録から、AIはそう判断しました。前職では、銀行関係者と相当付き合いがあったはずですが」 「確かにそうだが、別に不審はないでしょう。うちとエルミナコムとでは、メイン・バンクが別のグループだから」 「度が過ぎます。過去の知人とは、絶対に会おうとしない。あり得ない、と言っても過言ではないレベルだ。不思議に思わないのですか?」 「それが彼の希望、いや、入社の条件でした。『私の能力ではなく、エルミナコム時代の人脈だけを評価するなら、こちらに入社するつもりはありませんから』とまで言われましたよ」 「信じるんですか? どう考えても、極端でしょう」 「そうは思わないけれど」 「そして、疑わしい点、その二です。生き延びた唯一の親類である、彼のイトコに当たる女性は、震災のあと、〈真の神の文字〉に入信している」 「えー!」 「本当ですか?」 「知らなかった」  ミナカナ、織絵、水谷の三人は、それぞれ声を上げた。 「というわけで、彼が調査ターゲットの一人。そして、二番目はこの方です」  椎名は事務的な口調で告げると、タブレットの画面をスワイプする。 「あ、林田さん」  ミナカナが思わず声に出す。 「そう、こちらの会社には、林田満也と名乗っている人です。システム・エンジニアですね」 「非常に優秀なエンジニアです」と織絵が言った。「技術面でいえば、私は全面的に信頼してます。林田くんができないと言うなら、誰がやってもできないだろうって」 「でも、林田さんって、ほんとに嫌な奴なんですよ。いちいち偉そうだし、汚いし、見境なくセクハラ発言するし、ルール守らないし」  ミナカナが遠慮なく悪口を言う。当然、彼女の方が後輩なのだが、陰では呼び捨てにしているようだ。 「彼は自ら『家族を捨てた』と履歴書に書いていたそうですね」 「確かにそうだった」と言って、水谷が頷く。 「プライベートな会話ならともかく、会社に出す書類にまでそう書くのは、普通の人とは言えないでしょう」  椎名は追求する。 「かもしれない。でも」水谷は反論する。「変人だろうがなんだろうが、どこか優秀なところがあれば、うちは採用します。もちろん、犯罪者はダメだけど。うちぐらいのクラスの会社では、多少は傷のある人材でも拒んでいられない。大手のように、安全第一の人材ばかり狙っては、無能なイエスマンばかりになってしまうんですよ。それでは勝てない。私はそのポリシーで、ここまで会社を大きくしてきたんです」 「出身は福井県のようですが、公的な証明書意外に、彼が本人であると証言できる人はいますか? 少なくともこの会社、この周辺には、いないのでしょう?」 「いないでしょう」 「つまり、公的なデータを改ざんすれば、なりすましは可能になります」 「公的なデータの改ざんが、そんな簡単にできるとは思えません」と、織絵が反論する。 「そうですね。でも必ずしもデータを書き換える必要はないんです。たとえば、役所の戸籍担当者を買収するなり脅迫するなりして、自分と同年代の人物の死が入力されないようにしたら、どうでしょう? 既存のデータの改ざんではないから、システムに侵入しなくてもいいし、記録も残りません。そして、その後、その戸籍を引き継いだら?」 「うーん」  とっさには、それが可能なのかどうか判断できない。 「映画や小説にある、奇跡のようなハッキング技術はいらない。そして、われわれの調査では、あのカルト教団は、小さな役所の一部署を丸ごと脅迫と買収で操るくらいのことは、やりかねないんです」 「そんな証拠があるんですか?」  ミナカナが驚く。 「いえ、今はまだ、可能性だけですよ」と椎名は否定した。「実際どうだったか、調査するのは、これからです。それに可能性は買収や脅迫だけじゃない。のどかな地方の役所なら、サイバー・セキュリティが甘い可能性だってあります。とにかく、調べてみなければ」 「林田くんも〈真の神の文字〉と関係が?」  織絵が質問した。 「あなたが『林田くん』と呼んでいる人物に関して、はっきりとした教団との接触の痕跡は、見つかっていません。ただ、彼の交友範囲の中に、反社会勢力の構成員がいます」 「反社会勢力?」  ヤクザのことだっけ? 「暴力団」と、椎名はストレートな言葉に言い換えて、先を続ける。「に関するあらゆる情報を収集している、名倉警備のデータベースで見つけました。自称林田氏が御社に入社する、ちょっと前からです」 「そんなことまでわかるんですか? 警察のデータベースから、こっそりデータを抜いて来ているとか?」  ミナカナは、なんのためらいもなく、そんな危険な質問をする。 「まさか。そもそも警察のデータベースには、もっと直に犯罪捜査に役立ちそうな情報しか入っていなでしょう。おそらく、ですけど。それに、信頼度の低い情報は捨てられている可能性が高い。質の悪さを言い立てて、情報収集をサボるのは日本人の悪い癖ですからね」  椎名は苦笑する。 「そう、なのかな?」  ミナカナが首を捻る。 「そうなんですよ。要するに、情報収集の段階で、相当な取捨選択がなされているんです。でも、うちの、名倉警備のデータベースは違います。いっさい、フィルタリングはしません。どんな情報でも、どんな怪しいソースからでも、見境なく収集します。ここだけの話、グレーな手段で入手されたとおぼしきソースからもね。そして、人間ではとても調査しきれないほど大量のデータを、AIに委ねて、分析させるんです」 「グレー」  どこまでブラックに近いのか気になる。  椎名はタブレットを操作した。 「これを見てください」  一枚の画像が表示された。雑誌か何かからキャプチャしたとおぼしい、モノクロの写真だった。 「あ、これ、林田」  ミナカナが画像を指差す。驚いたせいか、呼び捨てになっている。  写真の中には、数人の男女が写っていた。場所は、高級バーか、スナックのようだ。人物は二人を除いて、目のところが黒線で隠されているが、大きさが十分でない。  ミナカナが指し示している顔は、はっきり林田とわかるものだった。 「素顔を晒されている二人は、暴行事件で逮捕された反社会勢力の構成員です。そして、彼らと一緒に自称林田さんが写っているのを、AIが見つけ出したわけです」  織絵は顔を顰めた。自分のプライバシーも、こんなふうに覗かれる可能性があるかと思うと、決して良い気はしない。何かの事件の背景に、群衆の一人として自分が写っていないとも限らないし、AIがそれを見つけ出さない、と言い切ることもできない。 「とにかく、彼はある反社会勢力の構成員と付き合いがあります。そして、その勢力は〈真の神の文字〉のブラックな部分を手助けしたりしているんです」 「そんなところで、教団と関係があったんだ」  ミナカナの口調には、まだ驚きの名残りがある。 「小さな暴力担当ですね。この反社会勢力はとても弱小なので、ハシタ金で動くんですよ。〈真の神の文字〉は、わざわざ自分たちで手を汚すほどのこともない場合に、彼らを使っています」 「なんて奴らだ」  水谷は憎悪を露わにした。 「教団は、自分たちの手で、暴力を振るうこともあるんでしょうか?」  織絵が質問する。 「あります。何年か前に、南米の犯罪組織と関わっていた男を入信させてから、特に件数が増えています。まだ一人だけですが、逮捕者も出ています」 「もっと出てもおかしくない、ということでしょうか」 「実際には、かなりの数の暴力事件を起こしていると思われます。ただ、教祖の側近に、前田という弁護士資格を持つ信者がいるんですが、そいつがとてもキレる男で、巧みに告発を抑えているんですね」 「なるほど」  水谷が呆れたようにつぶやく。  ほんの少し、沈黙があった。 「さて、疑惑の三人のうち、最後の一人がこちらです」  椎名がタブレットの画面をスワイプすると、織絵たちがよく知っている顔が現れた。  水谷が一瞬、呆気に取られ、次の瞬間、弾けるように笑い出した。 「これは、潤子じゃないか」 「ええ、あなたの妹の潤子さん、と自称している女性です」 「『自称している』って。どういうことだ」と、水谷は怒りを露わにする。「確かに彼女は過去において、教団と関係があったよ。というか、彼らのコミュニティで生活していた。でも、そこを嫌って、脱走してきたんだ。 彼女は本物の、僕の妹だ」 「そうでしょうか?」 「赤城くんも林田くんも、本人だと証明してくれる家族が近くにいないから、疑っているんだろう? なのに、なぜ、潤子を疑うんだ。実の兄が、本物だと言っているんだ。いい加減にしてくれ」 「でも、再会するまで、二十年も会っていなかった。しかも、別れたとき、彼女はまだ十一歳だった。十一歳から三十一歳。人生でいちばん大きな変化が訪れる年齢です」  椎名はあくまでも冷静だ。 「だからなんだって言うんだ」 「彼女についてもっと調べてみるべきだと言っているだけです」  場の空気が凍った。  やがて、分厚い氷を打ち砕く勢いて、水谷が叫んだ。 「帰ってくれ!」  椎名は無言で、水谷を見つめる。 「もういい、帰ってくれ」と水谷は繰り返した。「もう、この件は終わりだ。あなたの会社には頼まない。契約は終了。会社に戻って、すぐに今日までの分の請求書を送ってくれ。すぐに、だ」  水谷はそう言って、席を立つ。激しく音を立ててドアを開け、外へ出て、さらに大きな音でドアを閉めた。 「またシャワーブースかな」  ミナカナが他人事のように言う。水谷社長は興奮すると、冷たいシャワーで文字通り頭を冷やすのが癖なのだ。  椎名は首を振って、織絵とミナカナに微笑みかけた。そして、 「逃げられました」  そう、一言だけ言った。 「すみません。でも、本当にここで調査を止める、なんて言いませんよね?」  織絵は椎名を真っ直ぐに見つめた。 「え?」  ミナカナが驚く。  椎名は苦笑する。 「うーん、ビジネスとしては、止めるべきなんですがね。はっきり契約終了と言われましたし」 「でも、おわかりでしょう? この件は、これで終わりにしちゃいけないんです。このままでは水谷と周囲の人たち、私やこの皆川も含めた周囲の人たちに、とてつもない危険が降りかかります。間違いなく。うまく理屈にできないけど、絶対にそうなんです」 「タダ働きはできませんよ」 「そうはなりません」 「つまり、あなたがたが社長を説得する、と」 「はい、必ず」  織絵は言い切った。 「わかりました。その言葉を信じましょう」  椎名は頷いた。 「えーと」ミナカナが情けない声を出す。「あなた『ガタ』って、私も入ってます?」  椎名と織絵がミナカナを見て、同時に答えた。 「もちろん」 「もちろん」
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