木馬の手

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4.  椎名の訪問があった翌日の、朝イチ。 「織絵先輩」と、ミナカナが出勤するなり、思い詰めた顔で、隣の席の織絵に話しかけて来た。椅子に座らず、立ったまま、ショルダーバッグも肩に掛けたままだ。「あたし、海苔ちゃんを虐待してたんでしょうか?」 「え? いきなり何?」  織絵は驚いて尋ねる。〈海苔ちゃん〉というのは、ミナカナの飼っている黒猫の名前だ。  ミナカナの顔は、明らかに寝不足のそれだ。昨夜、寝られなかった、とでも言うのだろうか。 「三日前なんですけどね、ええと、立原さんが帰っちゃった次の日です。海苔ちゃんのお尻の穴を洗ってやろうとしたんです」 「例の浣腸器で?」 「例の浣腸器で。そしたら、すんごい嫌がって逃げるから、捕まえて風呂場で洗ったんです」 「まあ、そうするよね」 「そうなんです。結構、暴れたんですよね。でもあたし、海苔ちゃんの胴体を抱えて、無理やりあの器具をお尻に入れて、いや、そっと、ですけど」 「うん、そっとね」としか答えようがない。 「まあ、海苔ちゃん、洗い終わったあとは、済ました顔でしたけど」 「スッキリしたんじゃない?」 「そのときは、あたしもそう思ってたんですけど、昨日、椎名さんの話を聞いて、きっと立原さんも義理のお母さんに、そういうことをされたんじゃないか、って想像し始めたら、あたし、なんてことしたんだろう、って落ち込んじゃって」  ほんとに寝られなかったのね。 「そうじゃないよ」織絵は慰めにかかる。「海苔ちゃんは、人じゃないからさ。立原さんとおんなじには語れないよ」 「そうでしょうか」 「目的が違うもの。彼の義理の母さんは、彼が嫌がるの見るのがうれしくて、器具を使ったんだよ。でも、ミナカナは海苔ちゃんを清潔にしてあげよう、って思ってやったんだよね」 「はいっ」  返事が元気になったな。よしよし。 「でしょ? だから虐待とかじゃないよ。海苔ちゃんは猫だから、嫌がって暴れたかもしれないけど、あんたは別に、それが楽しかったわけじゃない」 「もちろん!」 「ほら、違うじゃん」 「ですよね。そもそも、あの子、お尻の穴以前に、お風呂に入れるだけで、暴れたりするんですよ。でも、綺麗にしてあげないと、と思うから」 「その方が、海苔ちゃんだって、気持ちいいはずだよ。うちの実家で飼ってたワンちゃんもさ、水浴びは好きだったけど、シャンプーはめっちゃ嫌がってたんだ。でも、ときには洗ってあげないと不潔だからね」 「そうですよね。そうそう、うんうんうん」  ミナカナは、自分に言い聞かせるように、頷いている。 「別に落ち込むことじゃないよ」  そう言いながら、織絵は、その先を口に出さなかった。  それに、あんた誤解しているかもしれない。  お尻の穴の洗浄は、それ自体が虐待と言うより、むしろ、その序曲でしかなかったんじゃないのかな。  洗浄が終わったとき、そこから本当に淫らで恐ろしい遊戯が幕を開けたんだろう。それがどんなものだったか、名倉節子が何をして、立原がどう反応したのか、想像もつかないし、そもそも想像したくもないんだけど。 「ま、そんなことはともかく」と織絵は声を低める。「どうやって〈木馬〉探しを進めるか、考えなきゃね」  二人の間では、すっかり〈木馬〉が、なりすましの潜入者を指すコードネームになっている。 「はい。縛りがキツくて、まともには調べられませんから」  ミナカナはやっとバッグを下ろして椅子に座り、織絵に顔を近づける。近くの席のエンジニアは皆、今日は在宅勤務なのか、まわりには誰もいない。 「赤城部長と林田くんにヒアリングしなきゃいけないけど、このビルの中がダメだとすると、どこがいいんだろう」  織絵は首を傾げる。 「困りましたね」ミナカナの相槌も、ため息まじりだ。  昨日、シャワーブースから戻ってきた水谷社長を説得したときのことが、思い出された。  織絵は、ミナカナとともに(彼女はほとんど戦力にならなかったが、一応、付き合ってはくれた)、なんとか社長に調査続行をOKさせた。  しかし、そのために、二時間近く粘らなければならなかった。ふだん穏和な水谷の怒鳴り声にも怯まず(何度、「出ていけ!」と言われたことやら)、織絵は繰り返し、調査の中止が得策でない理由を述べた。 「社長と妹さんだけじゃなく、社員全員が危機に晒されるかもしれないんです」  最初は聞く耳を持たなかった水谷も、織絵のその一言で、ようやく譲歩する気になったようだった。ちなみにミナカナは、その三十分前からソファで居眠りしていた。  ただし、水谷は厳しい条件をつけた。 「妹を極力、この件に関わらせないこと。これは、絶対に守ってもらう」  最初は、知らせることもいけない、と言われた。でも、それでは彼女が無防備になってしまう。彼女にはこのことを知らせて、用心するように伝えなければ、と言うと、水谷もしぶしぶ受け入れた。 「だが、それ以上に彼女をこの件で煩わせるのは、絶対になし、だ」  水谷は何度も何度も、念を押した。 「わかりました」 「そして潤子は調査対象から外す、いいね?」 「はい」 「また、この会社の中、いや、このMICTOCの中で、いろいろ訊いて回るのもダメだ。それを知ったら、潤子が必要以上に心配してしまう」  MICTOCは織絵たちの会社がテナントとして入っているオフィス・コンプレックス・ビルだ。 「・・・はい」  織絵はやむをえず、頷いた。これが、この人の譲歩の限界よね、と思わざるを得なかったからだ。 「ヒアリングの場所かぁ」と俯いていたミナカナが、不意に顔を上げた。「あ、椎名さんに相談したらどうですか? 名倉グループの不動産のどこかに、適当な理由をつけて呼び出せば」 「おお、その手があったか」 「呼び出す理由だって、名倉の名前を使えば、なんとか、こじつけられますよね? うちのメインバンクにも影響力のあるグループですもん。赤城部長を呼び出しても、不自然じゃないかも」 「それだ! よく思いついたね」 「でしょ? でしょ? ほら、もっと褒めてください」 「偉い偉い偉い」 「わーい」  うん。ミナカナ、あんたの単純さ、嫌いじゃないわ。 *  赤城部長のヒアリングは、その翌週に実現した。場所は、都心にある名倉コンサルティングの会議室。織絵とミナカナだけでなく、立原が参加した。  というか、立原が主で、織絵たちはサポートだ。前回は椎名が代理で来たのだが、本来、調査を引き受けたのは名倉コンサルティングであり、主担当は立原なのだ。彼から、新たにわかったスペインでの交通事故の一件や、ヒアリングの進め方について、報告を受けてはいたものの、織絵やミナカナはオブザーバーに近い立場だ。  最初は二人に対して緊張気味だった立原も、過去にまったく拘らない(というか、三歩歩けばすべて忘れる鳥アタマの)ミナカナのペースにハマって、逆に調子を取り戻したようだった。  一方、納得が行かないのは、赤城部長だった。立原は赤城に、秘密にすることを約束させた上で、もろもろの事情を説明した。メディア・シンバイオシスの中に、他人になりすまして潜入している者がいること、自分たちがその人物をマルウェアの〈トロイの木馬〉にちなんで〈木馬〉というコードネームで呼んでいること、そして〈木馬〉が水谷社長に強い悪意を抱いていること述べた。さらに、自分が赤城を疑っていることまで、率直に伝えた。 「社長が、『西野くん、皆川くんと一緒に行け』と言うから、変だとは思ったんだが」  赤城の口調は冷静だが、目には怒りがあった。 「私の親戚が津波に皆殺しにされたから、私が本人かどうかを疑うだと? ふざけるのもいい加減にしてほしいな。それはもはや被災者に対する差別だろう。家族を失った人間に対して、あまりにも残酷な言いようじゃないか」  睨まれても、立原は怯まなかった。ノートパソコンのキーボードをタッチ・タイピングで叩きながら、しかし視線はいっさい赤城から離さない。 「ほかにも、疑わしい点があるのです。あなたは、スペインにいたころ、バイクで事故を起こしましたね」 「ああ、カルタヘナ近くの海沿いの道で転倒したんだ。フロントを滑らせたフィアットがぶつかってきたんだが、相手は私をほっといて逃げてしまった。完全にもらい事故だ」 「で、それ以前とは、顔の印象が変わっている」 「近くにろくな整形外科がなくて、元に戻らなかった」 「完全に同じ顔でないことを、そう言って誤魔化しているのかもしれない」 「だから別人だと言うのか。災害被害者だけでなく、事故の被害者も差別するわけだ。人間性を疑う、と言わざるを得ないようだな」 「お怒りは当然です。その点は、本当に申し訳ないと思っています。でも、水谷さんの身に大きな災いが降りかかるかもしれないんです。もしあなたが赤城さん本人なら、彼の妹である潤子さんに、唯一の身内を失う悲しみを経験させたくない、と思っていただけないでしょうか?」  赤城はしばらく立原を睨んでいた。が、やがて深いため息を吐き、それから笑い出した。 「ふん、メムを人質に取るか。卑劣だな。だが、まあ、有効な手だ、と言っておこう。で、私に何を訊きたいんだ?」 「ありがとうございます」  立原は、しばらく、赤城のスペインでの生活や、子供のころの友人のことなど、一見、どうでもいいような質問を続けた。それがなんらかの伏線なのか、それとも、あらかじめ裏の取れそうな事項を準備して、あとで確認するつもりなのか、織絵にはわからなかった。  そしてようやく、肝心な質問に移った。 「なぜ、エルミナコム時代の友人・知人との交流を嫌がるのですか?」 「嫌な思い出しかないからだ」 「そうでしょうか? われわれが調べた範囲では、給与面でも待遇面でも、ずいぶん優遇されていたようですが」 「問題は、そこじゃない。エルミナコムには、なんの恨みもない。ただ、あの会社にいたときの自分が許せないだけだ」 「いささか、身勝手な言い分に聞こえますね」 「〈いささか〉なんて気を遣ってくれなくていい。身勝手以外の何ものでもないさ」  赤城の口調から、それまでの揶揄うような雰囲気が消えた。表情も、感情を押し殺した、翳りあるものに変わる。 「できることなら、あのころの自分自身を殺してやりたい。息子はともかく、妻を見殺しにしたのは自分だ。仕事が面白くて仕方なかった。夢中だった。でも、もっと・・・いや、ほんの少しでも良かったんだ、妻のことを気遣ってやれたら、あんなふうに彼女を死なせることはなかった」  淡々とした話しぶりが、かえって、感情の激しさを感じさせた。 「少しでも、当時を思い出すきっかけを減らしたい。特に仕事関係はそうだ。自分が妻を見殺しにしてしまうほど夢中になった仕事の関係者とは、会いたくない。絶対に。絶対」  そこで凍ったように絶句し、赤城は動きを止めた。  やがて、深いため息とともに、再び口を開く。 「それが、過去の人脈を切った理由だ。理解してくれとは言わんが、事実なのは間違いない」  立原はキーボードを叩く手を止めて、赤城から視線を外し、俯いて、目を閉じた。 「わかりました。では、次の質問です」  目を閉じたまま、そう言うと、軽く息を吸ってから、両目をしっかりと開く。  パソコンのディスプレイを押して、水平になるまで倒した。その液晶に、楔形を組み合わせて作られた、図形が表示されている。 「これに見覚えは?」 「ああ、イトコの亜矢に見せられたことがある。彼女たちの宗教のアイコンらしいね」  赤城は頷く。元の揶揄うような口調を取り戻していた。 「同じ教団に潤子さんがいたことは知っていましたか?」 「社長から聞いた」 「でも社長には、あなたのイトコも同じ教団にいることを、話してない」 「話す必要があるなんて思えなかった。そんなことをしても、社長やメムに嫌な思いさせるだけじゃないか」 「あなた自身のためじゃなかった、と」 「皮肉な言い方をするな。でもまあ、確かに社長に嫌われたくはなかった。そういう意味では保身の意図もゼロではなかった。だが、それはサラリーマンなら誰もが行うレベルのものだ」 「そういう意味ではなく、あなた自身も実はこの文字の力を信じているから、それを社長たちに知られたくなかったのでは?」 「違う」 「そのことを、証明できますか?」 「無理だ、私の心の中にないものを、ない、と証明する証拠なんて、存在するはずがない。プログラムにバグがない、という証明が不可能なのと同じだ」 「あなたは入信していますか」 「していない」 「だが、亜矢さんとは、今でも連絡を取っている?」 「向こうから、一方的に電話が来ることはある。でも、私は一言二言しゃべって、そのまま切っているよ。それに、亜矢には固定電話の番号しか教えてないから、休日か深夜か、とにかく私が家にいるときしか対応してない」 「彼女は、どんなことを話すのですか?」 「何も話せないさ。さっきも言ったようにすぐに切るのでね」 「どんなことを話そうとしているのでしょう?」 「そこにある神の文字の力について、話したがっているようだ」赤城はディスプレイを見ながら、ため息をついた。「まったく信仰に凝り固まった人間というのは、本当に困ったものだな、世間話から入って、アイスブレークしようとか、そういう考えはまったくないんだ。いきなり神々について語り出す。だからこそ、すぐに切るんだがね」 「その会話は録音されていますか?」 「まさか」 「わかりました。とりあえず、今日はこれで」  立原はそう言って、ノートパソコンのディスプレイを、元のポジションに戻した。 「今日は、ということは、また後日も尋問があるのかな? やれやれ。そのうち、所在を毎日報告しろ、とか言い出しそうだな」 「今のところは、そこまで求めません」 「それはそれは、感謝に耐えないね」  立原は、その皮肉には無反応だった。再びキーボードをタッチ・タイピングで叩きながら、赤城を見つめて、念を押した。 「ただひとつ言っておきたいのは、水谷社長に対する警備は、今後、強化される、ということです。メディア・シンバイオシスの入っているビルの管理会社・警備会社には、すでに話を通してあります。われわれのパートナーである名倉警備が協力します。直接人員を出すわけではありませんが、ビルの警備班と合同で警備体制のチェックを行い、監視カメラや警報機など、もし不足している機器があれば、貸し出しも行う予定です。水谷さんが住んでいる住居に対しても、同様の処置を取ります。そして追加の警備は、すべて目には見えないところで行われるのです。どこにトラップがあるか、知ることはできません。もし、あなたが水谷社長に害意を持っている〈木馬〉だとしても、痕跡を残さずに彼に手を出すことは不可能です」  赤城は鼻で笑ってみせた。 「見えすいたブラフだな。それだけの予算をうちが出すのなら、私が知らないはずはないんだ。もっとも、たとえそれが本当だとしても、そもそも害意など持っていない私には、なんの影響もないがね。では」  赤城はそのまま席を立った。
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