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5.
メディア・シンバイオシスが入っているMICTOCビルには、共用のシャワーブースがあった。コンビニやカフェのある地下一階のさらに下、地下二階に設置されている。
しかし、すべてのテナントが自由に使えるわけではない。使用権を得るには、別料金が必要だった。メディア・シンバイオシスは、その、結構な割高感のある別料金を払っている、少数派だった。
織絵とミナカナは今、そのシャワーブースに隣接したドレッシング・ルームにいる。大きな鏡のついた洗面台が四つ並んでいる部屋だ。〈ドレッシング・ルーム〉とはいうものの、ここで着替えをする人はいないだろうから、〈洗面所〉とか〈化粧室〉とか呼ぶ方が正しいような気もする。が、それだとトイレと間違われるのかもしれない。
「自分で使っといて言うのもなんですけど、コスパ、どうなんでしょうね」
ミナカナがヘアドライヤーを置いて、言った。
「まあ、私たちは滅多に使う機会もないよね。でも、社長はよく使ってるみたいよ」
織絵はまだ髪を乾かしながら、答える。
「じゃあ、社長一人のために料金を払っているんですか? どうしても使いたいなら、黙ってこっそり入ればいいのに」
このシャワーブース、MICTOCのオープン時には全テナントが無料で使えることになっていたので、オフィス・エリアに入れるICカードを持っていれば、自由に入れるのだ。その後、民営化された際に有料になったが、入退室管理のプログラムは元のまま。理由は不明だ。大してコストが掛かる変更でもないと思うのだが。
「そういうわけにもいかないでしょう。社長がそんなことしてて、バレたら恥ずかし過ぎるじゃない」
「簡単にバレるくらい、頻繁に使ってるってことですか?」
「遅くまで残っている夜も多いみたいだし、終電逃がしたらタクシー呼ぶより社長室のソファで寝ちゃえ、って人だから、便利みたいだよ。もちろん昼間でも、こないだみたいに頭を冷やしたりとか、大事なお客様と会う前とかは、普通に使っているしね」
「昼間かぁ。人がいっぱいいる時間に来るのは、ちょっと勇気いりますよね」
「そうかな。別に温泉に入るわけじゃないんだから、平気だと思うけど」
「まあ、夜は別料金ですからねぇ」
夜九時以降は、月極めの使用料の上に夜間料金が加算されるのだ。おまけに、当日の午後六時までに電子申請が必要だった。メムがいないときは、織絵が社長に申請を頼まれることもある。料金支払いより、そっちの方が面倒じゃないの、と思ったりする。
ドレッシング・ルームとシャワーブースは一体なので、当然ながら男女別だ。だが、作りはほぼ同じで、大きな鏡とヘアドライヤーのついた洗面台が四セットあるドレッシング・ルームがあり、その奥に脱衣所つきの一人用シャワーブースが、それぞれ四つずつあるらしい。らしい、というのは、織絵は男性用を使ったことがないからだ。
ところで今、なぜ織絵たちが二人並んで洗面台に向かっているかというと、それはミナカナが彼女の頭に春雨スープをぶちまけたからだった。
オフィス内の自席で、ニュースサイトを見ながらランチをとっていたミナカナは、興味のある項目をクリックしようとしてマウスを動かした拍子に、スープのカップに触れた。そして倒れかかったそれを掴もうと大慌てで手を伸ばした結果、逆に思いっきり弾き飛ばしてしまった。結果、宙を舞ったカップが、隣の席の織絵の頭を直撃したのだ。
カップの中身の半分を、織絵が頭から被った。残りはカップと一緒に跳ね返って、ミナカナの胸に当たり、彼女のTシャツを汚した。
「うえーっ、ごめんなさーい!」
「まったくもう、あんたと行動していると、こんなふうに喜劇がリアルになっちゃうんだから」
「でも、熱くはないでしょ? 私、猫舌なんで」
だからって、目の前に春雨垂らしたまま仕事ができるか。
というわけで、織絵は髪を洗わなければならなくなった。シャワーブースに無料で置いてあるシャンプーは安物っぽかったので使わず、お湯で汚れを洗い流すだけにした。ミナカナも一緒に降りてきてシャワーを浴び、スープの染み込んだTシャツを、同期の友だちに買ってきてもらったコンビニのプライベート・ブランド品に、着替えていた。
「あら、珍しいじゃない?」
入り口から掛けられた声に、織絵は振り返った。
「あ、メムさん」
ミナカナが無邪気な笑顔を向ける。
「どうしたの? 二人で」
メムは二人の隣に座る。
容姿だけでなく、その声も、子供っぽさと妖艶さがミックスされた、不思議なものだった。男性には心地よく聞こえるのだろうが、同性には、ときに、むず痒いような感覚を与える。
織絵が事情を説明した。その事情がバカバカし過ぎて、しゃべりながら、なんとなく恥ずかしい気持ちになったのだが。
「メムさんは、ここをよく使うんですか?」
事故の元凶であるミナカナが質問する。恥じらう様子も反省している様子も見えない。ぜんぶ、テメーのせいなんだぞ。
「シャワーを浴びたことはないの。ただ、秘密の休憩所として、ときどきね」
「秘密、ですか?」
「うん」
軽く笑うと、彼女は鏡に向かって、自分の顔を点検した。そして、小型のトートバッグから出した化粧落としのコットンで、目尻のアイライナーを拭き取ると、もう一度、描き直す。切長の目尻が、あざとくない程度に強調される。
そんな作業をしながら、彼女は「ねえ、聞いた?」と、おしゃべりを始めた。話題は、このビルの警備のことだ。
ドレッシング・ルーム内部には、当然ながら、防犯カメラはない。その代わり、出入り口の向かい側に、これ見よがしに二台のカメラが取り付けられている。
しかし、これがあるとき問題となった。
半年ほど前、深夜のアルバイト警備員が、同僚が仮眠しているのを良いことに、単身シャワーブースに入った女性に暴行しようとする事件が起きた。
幸い、その女性が侵入してきた警備員に手当たり次第に投げつけたものの中に、蓋の開いたシャンプー容器があり、中身が相手の目に入った。彼は無様に転んだ。女性はとっさに自分の携帯とバスタオルを掴み、男を踏みつけて逃げ出した。そして階段を一階まで駆け上がると、携帯を使って、同じ仕事で残業していた男性二人社員を呼んだ。彼らが、まだドレッシング・ルームにいた警備員を取り押さえた。洗面台で目に入ったシャンプーを洗い落とそうとしていたのだ。警備員とはいえ、普通の専門学校生がアルバイトで雇われていただけで、格闘技どころか、腹筋運動の十回もできないような、不健康な若者だった。
ドレッシング・ルーム入り口にある防犯カメラが問題となったのは、その事件のあとだった。警備員が犯行に及ぶ前、その防犯カメラの映像を見て、若い女性が一人であることを確認していたことがわかったからだ。
「もう、半年になるのに、何も進展ないんですね」
とミナカナはぼやく。
「なんせ、このビルの警備会社ときたら、ここ二年の間に三回も変わってるからね」と織絵もため息をつく。「しかも変わるたびに経費節減でランクが下がるし」
「ですよねー」ミナカナは愚痴の上に愚痴を重ねる。「三流だから、すぐには再発防止策も出てこない、ってか。最近は、鳩とか猫とかの死体が、ちょくちょくビルの周辺で見つかっているとかいう、気持ちの悪い噂もあるし」
「困るよね。せめてビルの中くらい、しっかり守ってもらわないと」
それを聞いたメムは、嘲るるような微笑みを浮かべた。そんな顔をすると、残酷なイジメっ子のように見える。
「それがね、ここだけの話、そこのカメラ、電源が入ってないのよ」
「え?」
「とにかく男の警備員たちが女性の出入りを見ているのはまずい、ってビル管理会社の専務が怒鳴りまくったんだって」
「でも、それって」織絵は唖然とする。「つまり、女性用のシャワーブース入り口は、人の出入りを監視できない状態にある、ってことですよね?」
「そう」
「わーやだやだ。絶対、夜中に近寄りたくない」
「でしょう? 代わりに、夜は女性の警備員が巡回する、ってことになったんだけど、実際には十分な要員を確保できなくて、巡回は行われたり、行われなかったりが続いてるのよ。そのせいで、ビル管理会社も警備会社も、せっかく取り決めた対策を、大っぴらにできないの」
「やっぱり、女性の警備員って、少ないんですかね」
ミナカナが口を挟む。
「夜中の方が、子供を旦那に任せて出勤できそうな気がするけどね。でも、そういうものでもないのかしら。私、家庭のことはよくわからなくて」
「女性の給与がめっちゃ安くて、人が集まらないに決まってます」
ミナカナの断言に、メムが優しく頷く。
「ありそうね。三流の警備会社って、ごりごりの男性社会っぽいもんね」
「ぽいですぽいです」
「それにしても、メムさん、ほんと、情報通ですね」
織絵が感嘆する。
「ほんと」とミナカナも賛同した。「びっくりするようなこと、知ってますよね。実は、超優秀なクラッカーで、ビル管理のデータベースを丸ごと覗いてたりして」
「やめなさい。そんなこと言うと、社長が怒るよ」
「あら、兄貴はほっといていいのよ」彼女は笑った。が、急に真顔になる。「でもね、兄貴と言えば」
「どうしました?」
「聞いてくれる? 最近、兄貴、ちょっと変なのよ」
「変?」
「そう、急に昔のことをよく話すようになって」
「昔の話ですか?」
「私が兄や母と別れる前、みんなで一緒に住んでいたころのことばかり。で、私にも、『あれどうだったかな、俺は忘れちゃったけど、潤子覚えてるか』って訊いてくるの」
織絵はどきりとする。水谷社長も、実は彼女が自分の妹じゃなく、妹になりすました〈木馬〉じゃないかと、疑いを持っているのだろうか。それで、そんな質問をして、本物かどうか、確認しているんだろうか。
「この間なんか、子供のころ住んでいた家の近くを、一緒に歩き回ったのよ。今住んでいる家からは結構遠いのに、わざわざ車で近くまで行って」
「懐かしかったでしょう?」
「いいえ、もう何もかも、変わっていたの。だから、むしろ悲しかったわ。兄貴にはそんなこと言えなかったけど」
「そんなに」
「ただね、一箇所だけ、子供のころによく行った駄菓子屋さんを見つけて、それだけはうれしかったわ。たぶん看板は新しくなってたんだと思うけど、『らいおん屋商店』って店の名前が昔と同じでね」
「ライオンかあ。普通、もっと優しそうな動物選びますよね。まあ、私は子供のころにも、駄菓子屋なんて見たことないけど」
ミナカナがよけいなことを言う。
「まあ、私とミナカナちゃんだと十五くらい歳が離れてるし、うちは下町だったからね。でも、あのころでさえ、本当は、もう珍しかったのかも」
「私んちの近くにはありましたよ。それも木造二階建ての一階に」
織絵がフォローする。
「それはすごい。らいおん屋は二十年前からコンクリートのビルだったわ」
「看板以外は、昔のままだったんですね」
「店先のゲーム機は同じだったの、ボロボロになってたけど。その代わり、奥のもんじゃ焼きのテーブルが無くなってたわ。でもね、そんなことより」
と言いかけて、メムはため息をつく。
「そんなことより?」
「何より参ったのは、ずっと兄貴と手を繋がなきゃならなかったこと」
「手を繋いで、仲良く歩いてたんですか? うらやましい!」
ブラコンのミナカナが大声を出す。
「えーっ、やめてよ。そんな言われ方したら、よけいに恥ずかしくなるじゃない」メムは激しく手を振る。「でもそうなのよ。『子供のころのように歩こう』って兄貴が言い出してさ。けどね、私も兄貴も、もう三十代なのよ。あ、兄貴はもう四十越えてたか。まあ、そんなオッサン・オバサンが手を繋いでるんで、通りがかった中学生の女の子たちに、くすくす笑われちゃったわ」
「素敵なお兄さんじゃないですか。メムさんが可愛くてたまらないんでしょう?」
「まあ、そうかな。でも、やっぱり勘弁してほしい。兄貴ったら、『ああ、間違いない。子供のころとおんなじだ。潤子の手だ』なんて言って、そんでもって泣きそうな顔になるの」
「あらあら」
「そりゃ私は潤子なんだから、当たり前でしょ。西野さんも、兄貴に言ってやってね、最近、妙に子供っぽいですよ、って。じゃ、私はそろそろ」
彼女は急に時計を見上げて時間を確かめると、あたふたと出ていった。
「悪いことしたかな。きっと、一人でゆっくり休みたかったのよね」
織絵はなんとなく後悔する。
「やっぱり信じられないな」
ミナカナが独り言のように言う。
「何が?」
「あの人が、〈木馬〉なんて」
「うーん」
「なりすましの知能犯にしては、妙に子供っぽいと思いません? こないだの事件、知ってますか?」
「何があったの?」
「メムさん、オフィスの自席に東京タワーのぬいぐるみを置いてるでしょう?」
「っていうか、東京タワーのゆるキャラのぬいぐるみね」
「先週の話なんですけど、あの人、松永課長がそれを乱暴に触ったって言って、キレちゃったんですよ。本当に駄々っ子みたいに、地団駄踏んで。叫び回って。課長さんも困ってしまって、結局、社長を呼んできたんです。それで、やっと落ち着いたんですけど」
「そんなことがあったんだ」
「みんなの前であんなことするの、せいぜい中学生まででしょう? そんな目立つこと、そつなく他人になりすますほど抜け目ない〈木馬〉が、しますかね?」
「うーん」
「それに、やっぱり実の兄が保証しているって、大きいと思うし」
「そうかなぁ」
「さっきの話だと、手を繋いで歩いて、その手触りで確かめたんですよね? それって、いちばん確かじゃね? って思うんですよ」
「だといいけど。でもね、社長の妹さんへの愛情が強過ぎて、逆に、本当のことが見えなくなっている、ってこともあるじゃない? 信じているんじゃなくて、ただ信じたいだけ」
「いやー、それは考え過ぎじゃないですかね。立原さんも、最近は何も言わないでしょ? 彼女を調べようなんて」
「まあ確かに」
「あえて彼女の情報を私たちに求めてこないし」
「うん」
「じゃあ、大丈夫ですよ」
織絵は素直に頷けなかった。
「どうしたんですか?」ミナカナは心配そうに、織絵の顔を覗き込む。「そんなに疑わしい点が?」
「いや、そうじゃないんだけど」
ただ、もし、彼女に裏切られたら、社長の精神は崩壊するんじゃないだろうか? 織絵はどうしても、ミナカナのように割り切れなかった。
*
仕事場に戻ったあと、織絵は、迷った末、一人社長室に向かった。
「妹さんと手を繋いで、昔住んでた町を歩いたんですって?」と、水谷に確認する。
彼は恥ずかしそうに俯いた。
「うん。あいつが戻ってきたときから、一度、やってみたいと思ってたから」
「それだけですか?」
「それだけって?」
「こんなこと言うと、社長は怒るかもしれないけど」織絵は、ためらないながらも、訊かずにはいられなかった。「やっぱり疑っていたんでしょう? 彼女が潤子さんの偽物じゃないか、彼女こそ〈木馬〉じゃないか、って」
水谷は一瞬、怒りの表情を浮かべ、それから一転して、バツの悪そうな顔になった。
「君たちがあんまり騒ぐから、私もつい、不安になったんだ。だから、昔の思い出を彼女に語らせようと思った。私が忘れているようなことを、自分から話してくれたら、間違いない、ってわかるだろうから」
「で、どうでした?」
「潤子は私が期待したほどは、昔の町の姿を覚えていなかった。でも、こちらから質問すると、ちゃんと矛盾のない答えをするんだよ。私が忘れかけてた細かいことまで、しっかり話してくれた。情景より、看板とか住所の表示とか、文字や言葉の方が、はっきり記憶に残っているみたいだったね。だが、そんなのは大したことじゃない。それより何より」
と、水谷は快心の笑みを浮かべる。
「なんですか?」
「手を繋いだときに、間違いないってわかったんだ。私が子供のときに握った手と同じだ。『ああ、こんなふうに手を繋いで、学校、塾、公園、そして駄菓子屋に通ったんだ、何度も何度も、何百回も。忘れるはずがない』そう思った」
彼は左手を挙げて、手のひらを織絵に向け、この手が教えてくれたんだ、と繰り返した。
「潤子は体温が低めでね、手もちょっと冷たい。でも、ずっと手を繋いだまま長い距離を歩いていると、そのうち、握り合ったお互いの手のひらが温まって、じんわりと汗ばんでくる。二人の汗が溶け合って、皮膚がさらに密着する」水谷は目を閉じた。「ずっと忘れてた、あの感触が甦ったんだ。あれは潤子の手のひらだよ。〈木馬〉の手なんかじゃない」
彼は目を開き、手を織絵に向かって突き出すようにした。
その仕草に、織絵は苦笑するしかなかった。
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